温かい闇(2)
やがて、お神輿の列は神社の階段を上り始める。
後ろがつかえないように、私たちはあわてて駆け上がる。子供たちは、嘘みたいな速さでそのはるか先を走っていく。
ようやく、私たちはてっぺんについた。
「はあ、はあ……。」
私は肩で息をつく。でも朱音ちゃんは全く疲れた様子を見せない。
「大丈夫?」
「うん……。早く、行かないと、ね。」
「うん、もうすぐだよ。」
私たちは、はしゃぎまわる子供たちの後を追って、鳥居をくぐっていく。
何本も、何本も。
なかなか、お社が見えてこない。
「……あれ?そういえば、お神輿は?」
「え?」
いつの間にか、ついてきていた人たちが、誰もいなくなっていた。
私たちの後ろには、お祭りの明かりは全く見えない。ただ、暗闇があるだけだった――あの、田んぼのあぜ道と同じ、暗闇が。
――なんか、おかしい。
「大丈夫だよ。きっともう、みんな先に行っちゃたんだよ。」
朱音ちゃんが不安がる私を励ます。
「う、うん……。」
「私たち、遅れちゃったんだね、急がないと。」
いつの間にか、何人かの子供たちが私たちの隣や後ろに来てくれていた。
――大丈夫。朱音ちゃんも、この子たちもいるんだから。恐くない。
私は自分にそう言い聞かせて、先に進んだ。
何本も、何本も、鳥居をくぐる。
真っ赤な美しい鳥居を。
「……そういえば、お神輿の上に、神様はいなかったね。……見たかったのにな。」
私がつぶやくと、朱音ちゃんが答えた。
「あれは、本物のお神輿じゃないもの。」
「え?そうなの!?」
私はびっくりする。
「うん、神様なら――この先で、待ってるよ。」
朱音ちゃんは、前を向いたまま言う。
「……どういうこと?」
お神輿が本物じゃないなんて、聞いたことない。
……今年のお祭りは、なんだかいつもと違うみたいだった。
ただでさえ暗いのに、いつの間にか濃い霧がかかってきた。
私は思わず、朱音ちゃんの手をぎゅっと握る。
「どうしたの、メイコちゃん。恐いの?」
「う、うん……。」
周りで子供たちのくすくすという笑い声が聞こえる。でも、なぜか全く安心できなかった。なんだか、人の気配が感じられない。
――それでも、朱音ちゃんの姿はちゃんと見えるから。
それだけで、不安がぐっと抑えられる。
なのに……この違和感は、なんだろうか。
私は今初めて見るみたいに、朱音ちゃんのことをまじまじと見た。
なんだか、朱音ちゃんの様子もちょっとおかしい気がする。
――何が、いつもと違うんだろう。
そう思って見ていると、朱音ちゃんの浴衣の襟の隙間に、何かひものようなものがあるのに気づいた。
「……朱音ちゃん、その、首にかかってるの、何?」
「ん?ああ、これ――」
朱音ちゃんは立ち止まって、紐につながり、胸元に隠れていたものを取り出す。
それは、白い貝殻でできた、魚のような形のネックレスだった。
「――これはね、私の願いが叶うお守りなんだ。」
「…………へえ、そうなんだ。」
私は、それを見た瞬間、ものすごく変な気がした。
朱音ちゃんがそれを持ってることがおかしい、と思ったわけじゃない。むしろ、持っていて当然――そんな風に感じている自分がいる。だから、おかしかった。
――なぜ?なぜ私は、朱音ちゃんがそれを持ってるって、知ってたの?
だって、だって――
私は恐る恐る、自分の胸元を探る。
――あった。同じ、魚の形のペンダント。
ずっと肌身離さず持っていたのに、忘れていた。
いつから、持ってたのかって――?もちろん、
私が買った時に、決まってる。
「あ…………。」
それ以上考えちゃいけない、そんな自分の声が聞こえる。
でも、気づいてしまった以上、どうしようもなかった。まるで、ずっと好きだったお話の筋の、おかしな部分に気づいてしまったみたいに。……気づいたら最後、物語は姿を変えてしまう。
心臓が、バクバクと、ものすごく嫌な音を立てている。
「――ねえ、知ってる?私たちの神様はね、水の神様なんだよ。」
朱音ちゃんは私の様子に気づいてないみたいに、喋り出した。
「昔からずっと、この村を雨や川の水で潤して、私たちのご先祖様がお米や野菜を作るのを助けてくれてたの。」
田んぼ。川。水――
「あ……朱音、ちゃん…………。」
朱音ちゃんは、私の手を離さない。
……私は、私は、私は。
「それからカミサマには、もう一つ大事なお仕事があるの。それは、ミズコの霊を守ること。ミズコって言うのはね、生まれてこれなくて、水に流れちゃった子供たちのことなんだよ。全ての水は、水の神様のところに行き着く――だから、死んで。水に流された子たちは、みんな、神様の子供になるんだよ。」
四方から、子供たちの笑う声が聞こえる。
「……朱音ちゃん、私――」
私は、無理やり引っ張られるみたいに、自分の隣を見た――
そこにいたのは――
……いつも通りの、可愛くて美しい朱音ちゃんだった。
「――思い出した?」
朱音ちゃんが、優しく問いかける。
「……………………私、が。」
私は、震える声で言う。
そう、思い出したのだ。あの夏祭りの夜、何があったのか――
「…………私、が!」
私は耐えきれなくて、朱音ちゃんにすがりついたまま、その場で腰が抜けてしまった。
……それでも、言わなくちゃ、いけなかった。
「――――――――私が、朱音ちゃんを、」
ころしました。
……声がかすれて、最後まで言えなかった。
――あの夜、夏祭りが終わった後。
田んぼ沿いの帰り道で朱音ちゃんは、今までのはしゃぎっぷりが嘘みたいに、悲しそうに押し黙っていた。
どうしたの、って私が聞いたら、彼女は重い口を開いて、言った。
――実は私、東京に引っ越すんだ、って。
私は、なんで急に、とか、どうしてそんな、とかいろいろ問い詰めた。お父さんがお友達と一緒に、東京でお仕事を始めるらしい。朱音ちゃんのお父さんは地主さんでお金をいっぱい持ってるから、って。
――だからね、私のおうちはこれから、もっとお金持ちになるんだ。
私は、泣きながら嫌だと駄々をこねた。
――お願い、行かないで、行かないで、って。二人が離れ離れになるなんて、絶対だめだ、って言った。
こんなに、お互いのことが好きなのに。お守りまで買ったのに。
――私、朱音ちゃんがいないと、生きていけないよ。
実際、その通りだった。朱音ちゃんは、私の生きている理由のすべてだった。彼女がいなくなってしまえば、私の人生はもう――何の価値も、無い。ただの、不細工で汚い私が残るだけ。
――朱音ちゃんだって、そうでしょう?
私は、朱音ちゃんだって私が必要なはずだ、なんて傲慢な気持ちから、そう、同意を求めた。
でも、朱音ちゃんは首を振った。
そしてこう言った。
――全然寂しくなんかない、って。
私のこと、好きでも何でもない、って。
前から、朱音ちゃんのお父さんやお母さんはずっと、私みたいな貧乏な子と仲良くするのをやめなさい、って言っていた、とか。ただ、いじめられていて可哀想だから構ってあげただけだ、とか――
それは今思えば、まったく心にもない言葉だったのだろう。無理やり、絞り出すような声で――彼女の提灯に照らされた、その瞳には、涙も光っていた。
朱音ちゃんは続けて、将来への明るい期待を語った。
今と違って洋服も好きなだけ買えるし、女学校に入れる。大人になったら、素敵な男の人と、舞踏館で踊ったりするんだって。
「――だから……だから私、寂しくなんか、無いから。」
でも私は、愚かにもそれらの言葉を真に受けた。傷ついたあまり、しばらく何も言えずに立ち尽くしていた。
「ずっと一緒、って言ったのに――」
そんなことを、言った気がする。そうしたら朱音ちゃんは怒って、そんなことできる訳ない、って言った。
それで、お守りなんて嘘っぱちだって言って――自分のペンダントを、すぐそばの水路に投げ捨てた。
――それを見て、私の中で何かがぷつん、と切れる音がした。
その後は、何も考えずに動いていた。
私は、彼女を水路に突き落とした。
どうなるかなんて、考えてもなかった。でも――私は確かに、彼女の存在ごと突き放して、無かったことにしようとしたのだ。
落ちていくときの驚いた顔、水に落ちて破れる提灯、苦しそうに溺れながら手を伸ばしてたその姿――全部、目に焼き付いている。
我に返ってから、流される彼女を追いかけた。
水路は深くて、私では手が届かなかった。近くに、棒みたいなものはない。提灯も、一緒に流れながらほとんど沈んでいた。――助けて、助けて――その言葉が途切れ、彼女の顔が完全に沈むのと同時に、提灯の
最後の灯も、かき消された。
何も見えない。真っ暗闇――虚無。
嫌だ、嫌だ、嫌だ――
私は必死でその名前を呼んだ。でも、目の前の虚無が怖くて、一歩も動けなかった。
誰か助けて、って、大声で叫んだ。二回か、三回くらい――でも、誰もいないことはわかっていた。誰か、誰か、人が、いるところに――そう思いながら私は、人を探しに行ったんじゃなくて――暗闇から、逃げ出したのだ。
家路を死に物狂いで走って、ようやく明かりを見つけた時には――もう、手遅れだと気づいた。わかりきったことだった。
……そして、誰にも言えなかった。
数日後に、朱音ちゃんの遺体が引き揚げられた。
お葬式に出る気には、なれなかった。私は家に籠ってただ、布団の中で震えていた――
死んだ朱音ちゃんが、自分を恨んでいるんじゃないかと、恐くて、恐くて――
「――私は、ただ、恐がってた、だけでっ……、自分の、心配しか、してなくて……自分勝手で、本当に……!」
私は彼女の浴衣の裾をつかんで、むせび泣く。
「ごめんっ、なさい……本当に、ごめんなさい……!」
許されないのは、わかっていた。
だから、今自分はここにいるのだろう。
――きっと、私はもう……死んでしまうんだ。
「……ううん、良いんだよ。」
朱音ちゃんが、私の頭を優しくなでた。
「……え?」
顔を上げてみると――朱音ちゃんも、泣いていた。
「私こそ――あの時、ひどいこと言っちゃって、ごめんね。」
思ってもみなかった言葉が、掛けられる。
ぽたり、と。私の頬に、涙が落ちてくる。
――冷たい。
この涙も、私の頭にのせられた手も。
「私も……本当は行きたく、無かった……でも、お父さんもお母さんも、私の言うことなんて、聞いてくれなくて……だから、メイコちゃんが、寂しくなら無いように、って……私のこと、嫌いになってくれれば、って、思って……自分にも、悲しくないって、言い聞かせようとして……それで、あんな、あんな…………。」
朱音ちゃんは嗚咽しながら、私の隣にしゃがみ込む。視線の高さが同じになる。
「……ごめん、なさい。」
「……朱音ちゃん。私のこと、怒ってないの……?」
「ううん、怒ってないよ……。」
「許して、くれるの……?」
「当たり前だよ。メイコちゃんは、悪くないよ……ただの事故だもん。私の方こそ……許して、くれる?」
「…………うん、うん!」
私は彼女を抱きしめながら、激しくうなずいた。
「……ありがとう。大好きだよ。」
そう言って朱音ちゃんは、私の頭から手を離す。
「――じゃあ、行こっか。」
「…………え?」
朱音ちゃんは明るく笑いかけてくる。
「神様の、いるところ。――一緒に、行こう?」
「…………なんで。」
私は思わず身を引いて、尻餅をつく。
「……許してくれたんじゃ、無いの……?」
子供たちが周りで跳びはねて遊んでいる気がする。
「早く!早く!」って、叫びながら――
朱音ちゃんは、不思議そうに言う。
「うん、だってさっき、仲直りしたじゃん……何言ってるの。」
「え……じゃあ、なんで……。」
「ほら、早く、急がないと!」
朱音ちゃんは私の手をすごい力で引っ張って立たせた。腕が、ものすごく痛かった。
「――っ!やめて、離してよ!」
「どうしたの、メイコちゃん?」
朱 音ちゃんは、とぼけた顔をする。
「やめて!連れて、行かないで!」
それを聞いた朱音ちゃんは、傷ついた顔をする。
「……なんで、そんなこと言うの?」
「だって――」
「だって、メイコちゃんが、自分でここに来てくれたんでしょ?」
「……え?」
私は朱音ちゃんの顔を見る。
暗闇に、赤い唇と青白い顔が、とっても美しく映えて見える――生気はないけれど、私の知っている、優しい朱音ちゃんのままだった。
「……それも、覚えてないんだね。」
――私が、ここに来た、って……。
もしかして、それって――
「……………………私、もう、死んじゃってるの?」
「……うん。思い出したんだね、良かった。」
――ああ、そうだったんだ。
私は全身から力が抜けるのを感じた。
そう。逃げられるはずがない。
帰る道なんてなかった。
もう、とっくの昔に――手遅れだったのだ。
私の諦めに気づいているのかいないのか、朱音ちゃんは笑いながら言う。
「……私、メイコちゃんが他の場所じゃなくて、ここに来てくれて、本当に、嬉しかったんだよ。私のこと、ちゃんと覚えててくれて。」
「……朱音ちゃん。」
――忘れられる訳、無いじゃないか。
「そのペンダントも、ずっと持っててくれたんだよね。あれから何十年も経ってるのに……。ずっと大事にしてくれてた。」
――捨てられる訳、無いじゃないか。
「メイコちゃん、本当に、ありがとう。」
違う――そう言おうとしたけれど、言えなかった。
私は、友情を誠実に守ったいい人なんかじゃない。
――あなたの、せいだ。
ずっと、ずっと――あなたが、私を罪悪感で縛り付けたんじゃないか。暗闇に沈んだあなたの影が、私を追いかけてきてたんじゃないか。
忘れられなかった。でも、忘れたふりをしてた。
朱音ちゃんの分まで、私が生きて、幸せにならないと、って。自分に言い訳して、何もかも、ずっと、身勝手に――今の今まで、ずっと――
でも、忘れたふりをしていても時々、夢の中であの田んぼ道で、後ろから呼ばれる夢を見て――
……でも、いまさらそんなこと、どっちだって同じだ。
「――朱音ちゃん。」
私は、もう――
「――早く、行かないとね。」
もう、彼女を裏切るわけには、いかないのだ。
「メイコちゃん……!うん、そうだね!行こう!」
私たちは顔を見合わせる。
朱音ちゃんは、屈託なく笑い、
私は、穏やかな諦念と絶望と共に、笑った。
そうして、私たちは手をつないで歩きだした。
目の前の、とても大きな鳥居の中へ。
夜の闇よりよりも黒い、真っ黒な穴の中へ。
「――これでようやく、ずっと一緒にいられるんだね。」
「うん……!」
子供たちの笑い声が、どんどん増えていく。どんどん近づいてくる。
もう、ためらうことなんてない。
並んで歩く、二人の少女。
真っ赤な浴衣と、まだら模様の浴衣。
二人の胸元には、魚の形をした友情のお守り。
仲良く、温かく冷たい闇の底に、沈んでいく――
繋がれた手が離れることは、もう二度とない。
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