おばあちゃんのぬいぐるみ

来住 美生

完結

 『おばあちゃん、亡くなったよ』母からの電話だった。私は『えっ、そう』と短く答えた。母は『天満病院まで来れる?』と訊いてきた。私は『わかった』と、またも短く答え電話を切った。まずはシャワーでも浴びよう、お酒臭かったら何を言われるか、たまったもんじゃない。日曜日の午前中はワインから始まる。もう、アル中だ。それは認める。でも他人にはばれたくない。アラサー独女、恋人無しの私の人生は、もう終わっている。


 大学を卒業して、就職した先は、東証1部の立派な会社だった。しかし、人間関係になじめず、夕方5時から1時間、トイレにこもり、1時間の残業手当を付けて退社することを1年間続けた結果、クビになった。その後はアパレル関係や飲食関係の仕事を転々としたが、長くは続かず、現在は事務の派遣で生計を何とか保っている。看護師の資格や、教員免許の取得も考えた時期もあったが、飽き性で努力することができない私には無理だった。現実逃避からお酒におぼれていった。こうして私の人生は、家族に、社会に、何の貢献もすることなく、時だけが過ぎ去っていった。


 喪服の準備や簡単な身支度を済ませ、駅に向かった。最寄りの駅まで歩いて15分。電車から高速バス、そして電車を乗り継ぐ。あらかじめ連絡をしておいた母が駅まで車で迎えに来てくれていた。荷物を後部座席に乗せ、私は助手席に座った。母が『久しぶり』と話しかけてきた。私は『おばあちゃん、どうやったと?』と訊いてみた。母は『咽頭がんが、進んどったけんね』と答えた。その後、沈黙が続いた。私はおばあちゃんとの思い出が、こみ上げてきた。


 おばあちゃんの家は、私の家から車で10分ぐらいのところにあったので、母がよく連れて行ってくれた。おばあちゃんにとっては、私が初孫だったということもあり、とてもかわいがってくれた。行くと必ず、さつま芋をふかしてくれた。とてもおいしかった。

 こんなこともあった。高校2年生の時、成績が学年でトップになったことがある。(私は学生時代は優秀だった)そのことをおばあちゃんに話したら、『町議会議員に立候補したらいい』とおばあちゃんらしい誉め言葉をもらった。私が『他の人に言わんでよ。何か自慢話みたいで、恥ずかしいけん』と言うと、『わかった、絶対に誰にも言わん』とおばあちゃんは、胸を張ったが、近所のおばあさんが回覧板を持ってきたとき、さっそく『孫が学年でトップになったとよ』とふれ回っていた。


 車は病院の駐車場に着いた。母は『私は1階の受付で入院の清算や葬儀の打ち合わせとかするから、あなたはおばあちゃんの荷物とか引き取ってきて。そのキャリーバッグ、使って』と、後部座席を指差した。私はキャリーバックを持って車を降りた。病院の1階で母は『4階の416号室ね』と言って別れた。私は4階のナースセンターでおばあちゃんの荷物の引き取りの旨を伝えた。看護師さんは『片付けが終わったころに忘れ物がないか、伺います』と答えた。私は部屋に向かった。部屋は4人部屋だった。おばあちゃんのベットは入り口に近い、左のベットのようだ。私はキャリーバックを開け、おばあちゃんの私物を詰め込んだ。パジャマ、歯ブラシ、コップ。


 簡素なクローゼットを開けてみた。そこには外出用とみられる着替えが掛けてあった。下にはサンダルもある。しかし、それよりの違和感があるものがある。ぬいぐるみだ。縦横15センチほどのくまのぬいぐるみである。赤っぽい色のくまのぬいぐるみは年季が入っているようで色あせている。私はくまのぬいぐるみを手に取り≪これは何だろう≫と考えを巡らしていた時、後ろのベットの方から『この度はご愁傷様です』と声がした。振り向くと80代くらいの小さなおばあさんがベットに正座している。私は声を出すことができず、ただ頭を下げた。そのおばあさんは続けた。『藤木さんにはいつもよくしてもらって・・・』小さなおばあさんは、か細い声で話した。


 私は『仲良くしていただいたみたいで、ありがとうございます』ともう一度、頭を下げた。私が不思議そうに、くまのぬいぐるみを見ていたせいか、小さなおばあさんは『そのぬいぐるみは藤木さんが大切にされていたみたいですよ。たまに話しかけたり、添い寝してみたり・・・』と微動だにせず語った。私はくまのぬいぐるみに記憶はなかった。くまのぬいぐるみはおばあちゃんの思い出の品なのだろう。しかし、話しかけたり、添い寝してみたり?おばあちゃん、痴呆でも進んでいたのかな、と勘繰ったりした。よく歳を取ると赤ちゃん返りなんて言葉も耳にする。それかな、と考えていた時、看護師さんが来てくれた。『忘れ物はありませんかねぇ』とベットの周囲を見て回った。


 私は看護師さんに、このぬいぐるみはご存じでしょうか、と訊いてみた。看護師さんは『それは藤木さんが大事にしてあるものですよ。お孫さんからもらったって。すごく高価なものだって。1万円ぐらいはするって言ってましたよ』と答えた。私はちょっと狼狽した。少なくとも私は、くまのぬいぐるみをおばあちゃんにあげたことはない。というか、私はおばあちゃんに何一つしてあげたことはない。そもそも、このぬいぐるみは、状態からかなり古いものと見受けられる。10年、いや20年以上前のものと推測される。それを私がおばあちゃんにプレゼントするとは考えにくい。それに1万円の値打ちがあるとは到底思えない。それを看護師さんに言ったところで何も解決することはないことぐらい、私でも承知している。私は『そうですか。今までお世話して下さり、ありがとうございました』と、おばあちゃんの私物を詰め込んだキャリーバックを引いて、看護師さん、小さなおばあさんに一礼して部屋を後にした。


 私は1階に戻り、母と合流した。病院の清算が終わり、この後、葬儀会社と打ち合わせがある、との事だった。私は、母にあのぬいぐるみを手渡した。何か知っているかもしれない。母は『これ、おばあちゃんがあんたに買ってあげたものよ』と、いとも簡単に話した。私は記憶がない、と言い張ったが、『そうかもね、あんたが2歳か3歳ぐらいやったもんね。あんた、そのぬいぐるみ、ようかわいがっとったとよ』とマジシャンが種明かしをするように話し、くまのぬいぐるみを私に返した。私は≪そうか≫と納得するしかなかった。


 たぶん、こうだ。おばあちゃんは、幼い私にくまのぬいぐるみを買い与えた。私は大喜びでくまのぬいぐるみと遊んだ。くまのぬいぐるみはおばあちゃんの家にあった。おばあちゃんは入院する時に、くまのぬいぐるみを病院に持って行った。くまのぬいぐるみを私に見立ててかわいがっていた。こうしか考えようがない。しかし、そう考えた時一つだけ疑問が残る。≪高価なもの≫である。思い出が詰まってお金に換えられないという意味なのか。しかし具体的に1万円ぐらいって、どういう意味?私は再度、ぬいぐるみを持ち上げてみた。くまのぬいぐるみの背中辺りに違和感を感じた。


 中に何かが入っているようだ。私はくまのぬいぐるみの背にあるファスナーを開いてみた。案の定、封筒が入っている。やや色あせているが、若い女の子が好みそうなかわいい封筒である。表にはおばあちゃんの名前と住所が書いてある。私は目を見開いた。裏には何と私の名前があるではないか。震える手で私は封筒の中身を空けた。そこには1万円札と便箋が1枚入っていた。恐る恐る、便箋を開いた。


 ≪おばあちゃんへ。いつもかわいがってくれてありがとう。私も社会人になって初任給を頂きました。その一部ですが、お送りします。何か、おいしいものや洋服やバックなど、おばあちゃんが好きなことに使ってください。体を大事に。長生きしてね。初孫より。≫


 そうだ。私は一度だけおばあちゃん孝行をしていたのだ。私にとっては大したことではなかったため、忘れてしまっていたのだった。しかし、おばあちゃんにとってはとても嬉しくてそれを使うことができず、大切に保管していたのだ。中に1万円札が入っているのだから1万円の価値はあって当然だ。謎が解けた。と思った瞬間、もし、今の私の姿をおばあちゃんが見たのならば、おばあちゃんは、何と思うのだろう。仕事は転々として、午前中からワインを呑む私の姿を。深く、悲しむに違いない。私は涙が止まらなくなった。それは一度だけではあるが、おばあちゃん孝行をやっていたという喜びよりも、そうしたことさえ忘れてしまうくらいにお酒におぼれ、何の生産もせず、堕落した人生をだらだらと過ごす自分に悲しむ涙だった。私はくまのぬいぐるみを持って、病院の玄関を出て空を見上げた。おばあちゃんの魂を探した。いつか読んだ本に、人は死んだとき、魂が空に戻っていくと書いてあったからだ。空を見上げても当然、魂など見えない。頬に涙が伝った。その時、私の体の奥底で何か熱いものが弾けた。


 葬儀の時、あのくまのぬいぐるみはおばあちゃんの棺に入れることにした。形見として取っておこうかとも考えたが、あのくまのぬいぐるみはおばあちゃんと一緒の方が幸せだろうと考えなおした。おばあちゃんも、くまのぬいぐるみも、私の体の中で生き続ける。空になんか舞い上がらない。そう思った時、私はもう一度、自分の人生を振り返ろうと思った。これからの人生を考えようと思った。私は、おばあちゃんとくまのぬいぐるみに誓う。


 これからの私を見とってよ!


 終わり

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