第13話

 玄関の扉が開いて、黒縁の眼鏡をかけた男が顔をのぞかせ、階段下に集まるスメラギらを見つめていた。鴻巣を見るなり、小さく頭を下げたのは、被害者の兄の坂井圭介だった。15年前、高砂について事件を担当した鴻巣を覚えていたらしい。思い切って売ることにしたと、坂井は語った。15年目の節目に、被害者家族も過去を葬って前に進みたいのだろう、事件を精算しようとする気持ちを抱いているのは何も鴻巣だけではなかった。

「高砂さんは、ご健在でしょうか」

「1か月ほど前に亡くなりました」

「そうですか……」

 15年の歳月は確実に流れていた。当時事件を担当した高砂は今はなく、駆け出しの刑事だった鴻巣の頭には白いものがまじりはじめている。当時40少し前だった坂井は50代の坂道をのぼりはじめたぐらいだろうが、猫背も手伝って、はためには60近い老人のようにみえる。肉親のすべてを失った事件は、坂井を急激に老いさせてしまっていた。当時も今も変わらずかけている黒縁の眼鏡の奥の瞳は、いまや深いしわの間にわずかに存在するだけだった。

七福神の布袋を思わせる男は、不動産屋の嵐寿三郎と名乗った。鴻巣が刑事だと身分を明かすと、嵐は

「あの事件を調べているんですか? 犯人は捕まりそうなんですか、そうですか。犯人が捕まったら、殺された人たちも成仏できるってもんです」

 と、犯人の目星がついていて、すぐにでも逮捕できるかのような喜びようだった。

「いや、まだ犯人がどうとか……」

「今時分に再捜査ということは、何か新しい証拠でもみつかったんでしょうか?」

 坂井は小さな目を何度もしばたかせ、鴻巣に迫った。

「残念ながら、そういうことではなくて……」

 鴻巣は、高砂の供養のために勝手に事件を調べているだけだと続けた。

「供養……犯人が捕まれば、死んだ弟たちの供養にもなるでしょうか」

「そうなればいいと…思っています」

「もうすぐ時効ですしねえ……たとえこの世での罰を逃れたとしても、死んだものには時効なんてものはありませんから、罪を犯した人は後生その罪を背負っていって欲しいものです……」

 時効とは、体制側の都合でしかない。犯人が逮捕されない限り、被害者も被害者家族も、事件に一区切りをつけて前へ進めないのだ。鴻巣は、時効とは体制による責任「放棄」にすぎないと思っている。15年の末に急に追いかけっこやーめた、と言うようなもので、逃げ切った鬼の逃げ勝ちだ。

 15年という年月が短いのか長いのか、鴻巣にはわからない。だが、過ぎた時間が被害者に重くのしかかるのだということは、やけにしなびてしまった坂井をみれば明白だ。事件は坂井圭介の運命をも狂わせてしまった。

 外資系金融会社で営業マンとして華々しい生活を送っていた坂井は、事件後、弟の借金を返済するため、仕事も金も、住んでいたマンションも売り払ってしまったため住む場所も失って、今は北海道でコンビニ店店長としてひっそりと暮らしている。15年という月日は、物質的苦労だけでなく精神的苦痛を与え続け、生きている坂井からも生命力を奪っていた。



 鴻巣が嵐につかまって捜査の進行状況について質問攻めにあっている間、スメラギはコンクリートの間仕切りの間をせわしく歩きまわりながら、視線をあちこちにむけていた。鴻巣は嵐を適当にあしらいながら、スメラギの後姿を視線のはじで追った。

(まさか、本当に霊がみえるっていうんじゃないだろうな)

 鴻巣の心を読んだように嵐が

「信じられないでしょうが、スメラギさんには私らには見えないものが見えるんですよ」

「嵐さん、お化けとかそういうの、信じてるんで?」

「この商売しているとね、いろんなことがあります。“見た”“出た”なんてのは結構ありましてね。ま、殺人事件はまれとしても、自殺の出た部屋はありとある方だし、最近でないにしても、昔戦場だったとか、事故があっただとか、そんないわくのない場所を探す方が難しいですよ。

 私は何も見えませんけどね、お客さんにはそういうのに敏感な人もいるし。信じる、信じないは別にしてねえ」


「OK。何もなし。おっさん、この家には誰もいないぜ」

 スメラギがそう言うと、嵐は

「よかった、よかった!」

 と、スメラギを押し倒さんばかりの勢いで抱きつき、丸顔いっぱいに笑顔を浮かべていた。

「何もなしって何だ」

 鴻巣が絡むように言葉を投げつけてもスメラギは淡々と

「何もいねえから、何もなし。霊も塵もなし」

 と言った。

「こっちには見えないから、霊がいるかどうかなんてわからん。いるのに、お前が嘘ついているのかもしれんじゃないか」

「しらねーよ。何も見えねーから、いねえとしか言えねえよ」

 鴻巣の畳み掛けるような言い草に、スメラギはぶっきらぼうにこたえた。

 とたんに、鴻巣は腹の底から痒くなるような笑いがこみ上げてくるのを感じ、こらえきれずにとうとう声に出して笑ってしまった。

「何だよ、何がおかしいんだよ、おっさん」

 スメラギをはじめ、その場にいた全員が呆れ顔で、涙を流さんばかりに笑っている鴻巣をながめていた。

「“何も見えねー”ってか、こいつはイイ」

 スメラギが「何かいる」とでも言い出そうものなら、嘘つくなと殴りかかっていたところだが、「何も見えない」と言った。常人の目には見えないものが“見える”者にしか、「いない」と言いきれない。この男は本物なのだ、鴻巣は確信した。

 霊など存在するものかとおもっていても、もしかしたら被害者たちの浮かばれぬ魂が彷徨っているかもしれないという考えが頭をもたげる。なにしろ、“見えない”ものだから、いるんだかいないんだか、確認のしようがない。つのるばかりの恐怖心は、2階で歩き回るスメラギたちの足音を不気味なものに変えてしまった。

 それがスメラギの“いない”の一言で、あれほど薄気味悪く感じた家の中が、今やただのリフォーム中の家に変わった。内臓をこそげとられたようなコンクリートの骨身も、今はただの間仕切りにしかみえない。薄ら寒く感じたブルーシートの光は爽やかな青空をおもわせ、むしろ部屋の中に空が満ちているような明るい雰囲気をかもしだしている。

 鴻巣はおかしくてしょうがなかった。口では霊など信じないと言っておきながら、恐怖心からありもしないものを見ようとし、“見える”スメラギがさまよう被害者の霊などいないと言ったとたんに、霧が晴れるように恐怖が掻き消えていく。信じていないものを恐れていたとは、バカバカしくて仕方なかった。

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