第12話
鴻巣は庭先に立ってみた。リフォームのためにかけられたビニールシートの向こう側に当時の記憶をさぐってみる。
庭に面した窓は居間に通じている。そのとなりが台所のはずだ。被害者のひとり、坂井信行が頭部のない死体となって発見された場所だ。
庭にも手を入れるのか、草木の取り除かれた庭には当時のおもかげがない。庭いじりが好きだったという坂井信行の母が丹精こめて育てたであろう花や、当時、死体をみて気分を悪くした鴻巣が駆け込んだ椿の巨木も、根元から抜かれたのか、その姿は見当たらなかった。
一歩踏み出すと足元で砂利が鳴った。事件発覚当時、鴻巣の足元で鳴ったのはガラスの砕ける音だった。「現場を荒らすな!」と怒鳴られた鑑識の声が耳によみがえる。
鴻巣はビニールシートをまくった。雨戸は閉まっていなかった。当時、雨戸は1階も2階もすべて閉まっていた。雨戸が閉まったきりなら近所にあやしまれるところだが、旅行に出ると伝えられていた近所の人々は何とも思わず、事件の発見が遅れる結果となった。
窓に手をかけてみると ―― 開いた。
吸い寄せられるように鴻巣は居間へと足を踏み入れた。
豪華な応接家具は今はなく、床板や壁紙は身包み剥がされ、コンクリートの土台がむきだしになっている。ビニールシートの青い光が満ちた内部はさながら海底に沈んだ船底のような不気味さを呈し、うすら寒い。鴻巣はおもわず身震いした。
まさか…いないよな……
鴻巣は死者の霊を思ってぞっとした。
幽霊なんてものはこの世に存在しない、そう言い聞かせ、鴻巣は台所とおぼしき場所にむかった。台所は、最初に被害者が発見された場所だった。
坂井信行は、パジャマ姿で仰向けになった状態で発見された。乾いてひび割れた血の海から察して、台所が殺害現場と考えられる。頭部を切断した場所でもあるだろう。パジャマを着ていたことから、犯行時刻は坂井が寝入った後、深夜ごろと考えられる。
犯人が坂井によって招き入れられたと仮定して、深夜の訪問を快く受けてもらえるのはよほど親しい仲か、家族に限られる。別の場所で暮らしている兄・圭介をのぞけば全員が自宅にそろっていたし、圭介はその日は職場の送別会で夜遅くまで同僚たちと飲んでいた。家族以外に親しい友人、知人があったか、それとも深夜にも関わらずその訪問を受け入れざるを得ない関係の人間だったのか。
坂井信行は、深夜にも関わらず自宅を訪れた犯人を内に招きいれた。その後、口論となったか、犯人は初めから一家殺害を目的として坂井宅を訪れたかは定かではないが、いずれにしろ、犯人の訪問後、坂井一家は全員が惨殺、遺体の一部は切断され、持ち去られた。
通常、遺体を切断するという行為には被害者の身元を隠したいという意図があったり、死体の処理に困ったあげく仕方なく、と相場が決まっている。犯人が被害者の知人である場合、被害者の身元を隠すことによって人間関係からたどられる自分への疑惑を断ち切ろうというのである。死体の処理というのは殺害行為そのものよりやっかいで、丸ごと死体をゴミに出すわけにもいかず、結局紙くずを切って捨てるように死体を切り刻むはめになる。
だが、富士見台事件の場合はこのどちらも当てはまらない。遺体の身元ははっきりしているうえに、切断されたのは遺体の一部だけときている。犯人はむしろ、殺されたのは誰かはっきりさせたがっており、殺害後も遺体を傷つけるという行為からは残忍性もうかがえる。
やはり、借金がらみのトラブルか。坂井は多額の借金を負っており、捜査本部では早い段階から、坂井が金を借りていた消費者金融に目をつけていた。
その金融会社は苛酷な取り立てで悪名高く、一部資金が暴力団に流れているのではという黒い噂があった。風体のあまりよくない男たちが事件直前に坂井宅近辺をうろついていたのを近隣の住人が目撃している。借金返済が滞っている他の債務者への見せしめとして、坂井一家は殺されたのかもしれないというのが捜査本部の大方の見解だったが、何しろ推理を裏付ける確たる証拠がない。
こうなると、被害者の幽霊にでも犯人を指し示してもらえたらという気になる。犯人が誰かわかりさえすれば、証拠探しも楽になるというものだ。何しろ犯人がわかっているのだから、その犯人を指し示す証拠さえあげればいい。何もないところから地道にひとつずつの事実をつぶしていくのとでは格段の差がある。
神でも仏でも幽霊でもオカルトでも何でもこいと捨て鉢になっていた鴻巣の耳に、床がきしむような物音が聞こえてきた。気のせいだろうかと聞き耳をたてると、物音は頭上でたった。2階では妻と長男が殺された。まさか、自称“霊能力者”のスメラギという男の言うとおり霊は存在し、殺された被害者たちは浮かばれずに今もって家のなかにいるというのか……。
鴻巣はコートの襟をきっちりと握り締め、玄関先へとむかった。玄関を入ってすぐ目の前には2階へと続く階段がある。壁際に体を半分以上預け、鴻巣はおそるおそる階段上部を覗きこんだ。まっすぐにのびる階段の先に、影がゆらめくのを見、鴻巣は素早く身を隠した。
床板のきしむ音は、今ははっきりとしていた。話し声のようなものも聞こえてくる。鴻巣はふたたび壁際から顔をつきだし、階段をみあげた。
白い着物姿の男がすべるように階段をおりてきた。あれは何だ、どこかで見たことがある、ああ、そうだ、男女どっちつかずの仏像、菩薩とやらに似ている。男と目があった。
「痛っ! おい、階段の途中でとまるなっ!…あっ!」
「おっ!」
2人同時に声をあげたのは、スメラギと鴻巣だった。着物姿の男の背後にスメラギが立っていた。
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