第7話
「何の調書ですか?」
強いにおいが鼻をついた。デパートの化粧品売り場と同じにおいに、鴻巣は息苦しくなった。刑事課に配属になったばかりの土居 翔だ。鴻巣が若いころは安っぽい整髪剤が新人刑事のにおいだったが、このごろではブランドものの香水がとってかわったらしい。名前まで翔と艶かしい。25にもなって翔だなんて、子どもでもあるまいし、70のじいさんでも翔とは若作りもいいとこだ。
「あ、15年前の一家バラバラ事件。確か、もうすぐ時効ですよね」
大学出の坊ちゃんは何にでも鼻をつっこみたがる。ドラマか映画か、はたまたミステリーファンなのか、土居は、刑事課の刑事は難解な事件を抱えているものだと思いこんで、小さな事件をなおざりにするきらいがあった。
ドラマのような事件は実際は少なく、多くは金と色と欲が絡んで、犯人は大抵被害者の知り合いから見つかる。あと数ページというところで意外な人物が犯人でした、なんて下手なミステリーのような筋立ては現実にはない。もちろん、密室殺人もだ。事件捜査をパズル解きか何かのように考えている土居には、借金のもつれ、痴情のもつれといった、単純な事件を扱うのがとてつもなく苦痛らしい。
「何か事件の解決につながりそうな新しい証拠でも出たんですか?」
土居の目がぎらついている。時効直前の事件解決となれば、マスコミがほってはおかない。まして、一時期世間を騒がせた一家バラバラ殺人事件だ。その優秀な頭脳をいかんなく発揮し、事件を解決してみせれば、地位も名誉も一歩手の内に近くなる。土居はそう考えているに違いない。
(そうはさせるか)
殺人事件解決は、頭の体操パズルじゃねえんだという、鴻巣の意地が調書を閉じさせた。
事件の中心には、人がいる、血が流れる。大学で何を勉強してきたか知らないが、“データがどうのこうの、プロファイリングがなんの”と言ってばかりで、ろくに人生経験もないやつに、人間のどろ臭い部分がわかってたまるか。
確かに、頭の回転はいい。捜査会議などでも、時々、上の連中をその弁舌でまいてしまう。だが、鴻巣には、ただ単純なことをもったいつけてくどくど言っているに過ぎないように聞こえる。握り飯がうまいのはおかあちゃんが握ったからだ、ということを、米がどうの、水がどうの、炊き方がどうのと講釈たれているようなものだ。うまいものはうまい、それでいいじゃないかという鴻巣は、だから他ほど土居を買っていなかった。
「怨恨の線で捜査していて…でも怨恨の線じゃないでしょうね」
確かに異常な事件だった。子どもを含む一家全員が殺され、遺体の一部が持ち去られた。見た目の異常さに惑わされまいという鴻巣と対照的に、土居はひたすらその異常性にくらいついていた。
「窓ガラスが外側にむかって割られている。外から入ったならガラスの破片は内側、リビングのフローリングに散っているはずですよね?」
現場写真をみながら、さも大発見したかのように得意げな土居だが、そんなことは現場に足を踏み入れた瞬間にわかりきっていた。何より、庭先に散ったガラス破片を踏んで鑑識に起こられたのは、鴻巣自身なのだから。
現場も行きもしないで、あの死臭を嗅がずに事件の解決ができるか―
「現場百遍!」
ふと、現場へ行ってこい! そう高砂に怒鳴られた気がした。
捜査に行き詰まって調書を睨んでいると、高砂は頭を叩き、「お百度を踏んでこい!」と鴻巣を現場へ向わせた。当たり前のことは見過ごされ、調書から漏れてしまう。何か見落としているものはないか、五感を最大限に働かせて、どんな些細なことでも見逃すな。高砂はそう鴻巣を叱咤激励した。
(まさか、いるわけじゃないだろうな)
高砂の霊でもいるかと、鴻巣は背後を振り返った。土居が不思議そうな顔をした。
「何です?」
「いや、別に」
鴻巣は、調書を土居の手から奪うと、机の引き出しにしまった。
「ちょっと出てくるわ」
「はい」
「僕もいきます」とは、決して言わない男だった。もっとも、言われたところで、土居についてきてもらいたくなかった鴻巣は困ってしまっただろうが。
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