第2話

「鴻巣一郎だ」

 胸ポケットから警察手帳を取り出してみせたが、男は一瞥をくれただけだった。

「じいさんの知り合いか?」


(俺がまともな刑事にしてやった男だ)


 “じいさん”とは高砂刑事のことか。

 そもそも、鴻巣がスメラギ探偵事務所を訪れたのは、高砂刑事がきっかけだった。

 2か月前、鴻巣は、退職する高砂から1枚の名刺を渡され、どうにも事件が解決できないとなったら、名刺の男を頼れと言われた。名刺を受け取る鴻巣に、高砂は「実は、こいつが手助けしてくれたんだ」と耳打ちした。5年前、高砂は時効寸前の強盗殺人事件を解決した。スメラギという探偵がいなかったら、事件は時効となって犯人は自由の身になっていた、と高砂は言い、それ以上は詳しく述べなかった。

 高砂のくれた名刺を思い出したのは、1か月前、脳溢血で亡くなった高砂の葬式帰りのときだった。ふと誰かが「高砂さん、あの事件だけが解決できなくて心残りだっただろうなあ」と漏らした言葉がきっかけだった。

 その事件ならよく覚えている。刑事となって所轄の刑事課に配属されたばかりの頃に起きた事件で、一家全員が殺害され、遺体の一部が持ち去られたという異様な事件だった。残された遺体の状態や他の状況証拠から、事件発生は12月25日ごろと推定され、15年目の時効の日を間近に控えていた。

高砂の供養に事件を解決しよう、鴻巣はふとそう思った。それから1か月、捜査資料をひっくりかえしたが、犯人逮捕につながる手がかりはみつけられていない。事件は継続捜査となったが、担当でない鴻巣には、時間も人手も何もかもが足りなかった。時効まで1か月あまりとなり、どうにもならんと思い、捨て鉢な気持ちで名刺のスメラギ探偵事務所を訪れることにした。

 スメラギという探偵がどんな人間なのか、高砂が解決した時効寸前の事件にどうかかわったのか、何も知らされていない。鴻巣が持ち込もうとする同じく時効を控えた事件にどうかかわっていくのか、毒蛇の入った壷に手を入れる気分で、鴻巣は賭けに出た。

「高砂さんが、あんたなら何とかしてくれるだろうと言ってな……」

 だが、時効寸前の事件の解決を手伝ってくれと言い出すのがためらわれた。24、5の若造が、警察が手をこまねいている事件にどう貢献できるというのか。


(15年だ、12月で時効になる)


「また時効寸前の事件を頼むってんなら、断るぜ」

 白髪頭の男は人の心を読むらしい。薄気味悪い思いに、鴻巣は身震いした。

「なんだ、そっちは生身の人間か」

 そういうと、スメラギは石油ストーブからやかんをおろし、湯のみに湯気のたつ日本茶をそそいで鴻巣に差し出した。

「日本茶ぐらいしかねぇんだけどよ」

「ああ」

 湯気のたつものならこの際、何でもよかった。体が芯の底から冷え切っていた。事務所に足を入れたときからだ。換気のためだろうが、この寒空に窓を開けているから外から冷気が入り込んでくるのだ。忌々しそうに全開の窓をにらみつけながら、鴻巣は、かじかむ両手で湯のみを包み込み、熱い湯をすすった。


(頼むよ、スメラギ。あの事件を解決しないことにはおちおち死んでいられないんだ)


「なあ、高砂のじいさんから俺のこと何て聞いてきたんだ?」

「じいさんが解決した時効寸前の事件を手伝ったってな」

 そうとしか聞いていなかったので、そうとしかいいようがない。警察が手こずった事件を解決したというのだから、てっきり、凄腕の元刑事が出てくるのだとばかりおもっていたら、白髪頭の若造が出てきて、正直もう帰ろうかとおもっている、とは言えなかった。

「じいさんもくえねえやつだな」

(霊がみえる男に被害者の霊と話をしてもらって目撃証言をとったなんて言えるか、アホ)

「ま、言ったところで、どうせ、年のせいでイカれたんだろうって、相手にしてもらえなかっただろうけどな」

(年のせいとは何だ!)


「お前、一体何者だ?」

「何者って、探偵さ。浮気調査とか迷いネコ探しとか、そんなことをやってる」

「どれくらいやってんだ、この商売」

 白髪頭は片手の指をゆっくり折った。

「そうだな……5年かな」

 高砂が時効寸前の事件を解決したのが5年前。ちょうどスメラギというこの男が探偵稼業に足を入れたころだ。今でも若いのだから、当時なら20歳そこそこだっただろう。鴻巣からしたら「ガキ」のような男に、警察ですら手に負えなかった事件がどう解決できたというのか。


(あれから5年か)

「そう5年だ」

(なあ、あん時のようにさ、今度もさっさと目撃証言をとって……)

「あれは珍しいケースだったんだ。普通は誰も残っていやしないし、おとなしく成仏しちまうんだよ」

(おれはどうなんだ)

「あんたは心残りがあるから、いつまでもうろちょろしてっけどな」

(だから、その心残りをだな……)

「無理だっつーの」


「おい、何を言ってんだ?」

 スメラギという男は、まるでそこに誰かがいるかのような調子でひとりごとを呟いていた。鴻巣は怖くなった。男の視線は、鴻巣の右隣に集中している。

「大体だよ、被害者の目撃証言が仮に取れたとして、どうやって証明すんだよ。『はい、刑事さん、被害者と直接話をして、こいつが犯人だとわかりました』なんて言って、誰が信じる? だからこそ、あんただって例の事件、あとで苦労したんだろ?」


(だから、こいつを連れてきた。おれは死んだ人間だからもうどうにも手が出せんが、現役の刑事のこいつなら使えるだろう。証拠なんて、後でどうとでもでっちあげりゃいいんだ。だが、そいつをやるには生身の体が必要だ。頼む、こいつを使ってあの事件を解決してやってくれよ)


「おい……?」

 ひとしきりしゃべったあと、スメラギはしぶい顔で黙りこんでしまった。

 湯のみはすっかり冷え切ってしまっていた。石油ストーブの働く音だけがする。やかんがカチカチ鳴り、湯気を吐いていた。

「なあ…鴻巣さん、だっけか。あんたが俺に頼もうとしていることはだな…殺された被害者と話をして犯人を割り出せってことなんだぜ……」

「はあ?」

「高砂のじいさんが例の事件を解決できたのは、俺がその被害者と話をして犯人を知ったからさ」

「……」

「信じるか、俺の話」

「ば、バカバカしいっ!」

 鴻巣はソファーを立ち上がり、入口のドアに手をかけた。だが、自動であるはずのドアは閉まったまま、押しても引いても開く気配がない。

「おい、ふざけるなよっ」

 声が裏返った。吐く息が白い。よくわからないが、本能がここから逃げ出せと命じている。


(頼むから、こいつを説得してくれ。おお、そうだ、俺がここにいるって言やあいい。そすればこいつだってお前のこと、信じるだろうよ)


「無駄だよ、じいさん。信じないやつには、はなから何を言っても無駄さ。所詮、人間は自分に見えないものは信じねえんだから」

 そう吐き捨てると、スメラギはドアノブをひねった。鴻巣がどうにも開けられなかったドアは簡単にビルの廊下にむかって開き、鴻巣はその隙間に体を入れ、逃げ出すように事務所を後にした。

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