第29話 うたかたのサンクチュアリ
逃げ惑うあいだに夜が明けた。ルジェク達の追走は止まず――いや、己自身の疑心暗鬼に突き動かされていただけかもしれない。ともかく、俺は逃げ続けた。
足を引きずり、いつしか貧民街を出た俺は王都の通りをさまよっていた。人の気配に怯え、物陰に潜みながら進む。とはいえその機会は多くない。王都はとっくに戦場と化して、すっかり荒れ果てていたからだ。
いくつかの通りを挟んだ先で、今も散発的な戦闘が行われている。重たい足音、怨嗟に満ちた叫び、そして武器がぶつかり合う鈍い音に――【銃】の詠唱。
隊列を組んだ騎士団と出くわすこともあった。槍や剣を携え、傷だらけの鎧で物々しく武装した彼らは俺に注意を払うことなくすれ違い、角を曲がっていった。
隊列を避けて道の端へと後ずさりした。その拍子に、足元から乾いた音がする。見おろすと、ままごとに使うような小さな木の椀を踏み割っていた。つたない筆致で描かれた可愛らしいウサギの左耳に、赤黒い汚れがこびり付いている。汚れの正体なんて勘づきたくなかった。俺はそそくさと立ち去る。
幾度かは、崩れた壁の裏に折りたたむように身を潜めて身を休めた。そうして浅い眠りから覚めると再び歩き出すことを繰り返す。
貧民街の隠れ家へ戻ることを考えられなかったのは、万が一にでも後をつけられていることを警戒してのことだ。……
しかし、では、どこへ向かえばいい?
俺は足を引きずりながらも、漫然と歩き続けた。目的は何もない。足を止める決断をできずにいるだけだ。
……ふと気づくと、既視感のある一角に迷い込んでいた。倒れた生垣や破壊された家々が印象を変えてしまっているが、あの黄色いレンガ塀や傾いた門柱には見覚えがある。ならば、引き抜かれて放置された枯れ木は、かつて見事なつる薔薇のアーチだったはずだ。
生々しい破壊の跡を縫うように、馴染みのある家々の面影があった。そう、王都郊外のこのブロックは俺の生家からほど近い。
じきに、崩れかけた塀とひしゃげた門扉が見えた。懐かしくも当たり障りのない蔦模様を施した、鋳鉄の門に手をかける。向こうを透かし見れば、ボロフカ邸は焼け落ちたまま打ち捨てられていた。
焼け焦げたレンガの山と、炭化した材木。そこにあったのは骨の突き出た家の死骸だ。視界を埋め尽くす黒一色の光景を前に、俺は言葉もなく立ち尽くす。
……そのとき、視界の端で何かが揺れた。
それが何かを悟るより前に、へし曲がった門扉を掴んで身を乗り出していた。みしりと軋んだ音と共に鋳鉄の扉が倒れ、俺の身体ごと敷地内へ転がりこむ。顎と胴体をしたたかに打った。たまらず上がったうめき声を縫うように、さやさやと微かな音が鳴るのに気づく。
誘われるように横を向く。途端に、眩しいほどの白や、黄や、淡紫の色彩の群れが目に飛び込んできた。
踏み荒らされ、踏み固められ、レンガや敷石の残骸が転がる地面から、濃緑のみずみずしい茎が、灰銀や緑の葉が、可憐な花弁が、天に向かってのびやかに生い茂っている。
荒れ果てた庭は、今や花盛りだった。
おぼつかない足を叱咤し立ち上がる。すっくと伸びた一輪へ歩み寄ったのは、染み入るような青色に不思議と親しみを覚えたからだ。背の高い茎に連なるように星型の花々が咲いていた。
青い花の前に
なんとも直線的で、清潔で、見飽きぬ佇まいをしていた。
「――パメラ」
そう、これは彼女の植えた花々だ。
散乱する瓦礫の下から、踏み荒らされた地面から、いっそ呆れるような生命力を発揮して植物たちが
初夏の陽が、みずみずしい草花の輪郭を光で縁どっていた。見上げた先では、はるかな青空に綿雲が浮かんでいた。微風が額を撫でていく。
不意に、俺は自分がまだ生きていることを思い出した。
喉は乾ききり、全身は埃まみれ、歩き通しの身体は悲鳴を上げていた。だが、生きている。どんなに死人じみていると気取ってみせても、この身は浅ましく呼吸し、腹を減らす。
まったく忌々しく、小っ恥ずかしい事実だった。
いい加減受け入れるべきだろう。休暇は終わったのだ。
再び回り始めた頭が、どうやら俺にはまだすべきことが……可能な行動が残されていると告げていた。
確かに俺は世界の行く末を案じるほどの善性も、実際にどのように社会をリデザインするかの知性も備えちゃいない。が、しかし。
「ならば、わかっている奴に汗をかいてもらえばいいだけの話だ」
どうやら、そういうことのようなのだ。依然変わりなく。今まで俺を悩ませてきた厄介ごとと、同様に。
諸々の段取りを組み立てる前に、俺は猛烈な飢えと渇きをどうにかすべく腹ごなしに出かけることにする。道すがらに、小規模ながら市が立っていたのを思い出したからだ。
まったく人間という奴は、どいつもこいつも熱心に働くものだった。
「――クレメントさん!?」
拠点に姿を現した俺を目にして、アランは心底驚いた様子だった。隠れ家から姿をくらましたかと思えば、数日たって素知らぬ顔で戻ってきたのだ。そりゃまあ『何しに来たんだ』と思われても致し方ない。
それにしてはやけにこっちの顔をじろじろ見て来るが。
「……何か顔に付いているか?」
「えーと右頬と顎に土埃が。でも、そういうことでもなくて……何か、良いことがありました?」
俺は「まあ、色々な」と返すと、ハンカチを引っぱり出して顔を拭う。
「うちの爺さん執事――ヨシュの容体は?」
「ええ、やっとベッドから起き上がれるようになったから、王都から移すことができました。今は戦火から離れた場所で静養してもらっています」
「それは…………良かった。本当に」
「元は僕たちの失態です。途中で放り出すようなことは決してさせませんよ」
「ならばアラン、あんたにはもう少しばかり頼みごとをしたいんだが」
くしゃくしゃの布地を丸めて懐に突っ込むと、俺は彼へと語りかける。
「ロマナン――じゃなかったな。掲星党のリーダーである『
「――理由を聞いても?」
アランの慎重な問いかけへ、俺は肩をすくめて返す。
「さあな! 俺はこの国をどうしていいのかさっぱりわからん。……誰にもわかるはずがないんだ。だから、他の連中もせいぜい巻き込んでやろうと考え直したんだ」
「どうやってです!?」
「コネならある。確証のない賭けだが」
こちらの言葉を注意深く聞いていたアランが、不意に「なぁんだ」と笑ってきた。
「確証がない? なんだってそうですよ。だからこそ行動しなければ始まらないんです! だから、どうかあなたの考えを聞かせてください」
なるほど、主人公らしい健やかさだ。俺は苦笑を漏らしながら、これがアランと私的な会話をする最後の機会かもしれないと思い至る。だから疑問は今のうちに解消しておくことにした。ことが動き出せば、そんな暇もなくなるだろうから。
「……それにしても、よく俺の世話までしてくれたもんだ。ヨシュはともかく、こっちは両の足で立てる程度の傷だったんだから手当てして放り出すのでもよかったろうに」
「えっ」
そんなに驚くことか? 訝しむ俺の目の前で、アランは釈然としない表情をし、ややあってから口を開く。
「そりゃ、あなたは僕の恩人だからですよ。気づいてなかったんですか?」
恩人? いや、まさかだろ?
俺が王立学院に潜入してメンタルケアもどきをやった件だってのか?
「……いつ気づいたのか、こっちが聞きたい所だが」
「学院で会ったあの人と、体格も足運びもまるで同じなんですもの。気づかないはずないですよ!」
いや、結構騙しとおせる方なんだがなあ、とむにゃむにゃ言っていると、アランが不意に噴き出した。
「あなたにとっては大した行いじゃなかったかもしれませんが、お陰で僕は立ち直れました。……だからせめてものお返しに、クレメントさんのこともお支えしたかったんです」
◇◇◇
私は暗がりの隘路をゆく。
石造りの地下道に足音がうつろに反響する。見張り達を沈黙させたいま、忍び足にする必要もない。床はじっとりと湿り、踏みしめるたびにずるりと力が逃げていった。逸る気持ちを押し殺しながら目的地へ急ぐ。
松明から立ち昇る煙が空気穴から抜けていく。私はしばし煙を目で追い、この地下通路が未だに封鎖されていないことを確かめた。脱出の猶予は残っている。
視線を戻す。錆びついた鉄格子の向こう側、うずくまる人影へ「兄さん」と声をかける。
「――パメラ、か?」
「助けに来た。こんなところ、早く出ましょ」
牢の鍵は先ほど昏倒させた見張り番からいただいてある。私は手早く鍵を差し回し、鉄格子の扉を体重をかけて引く。軋みをあげて開いた扉の向こう側には、ぼろ切れのようになったマイルズ兄さんがうずくまっていた。
拷問も受けたのだろうか? 酷い怪我だった。けれど、息はある。
「立てる?」
「ッ、なに……」
そう問いかけて肩をすくめてみせたのは、彼にそれだけの活力が残されているのが一目でわかったから。思った通り、マイルズ兄さんは低く笑うとその場からゆらりと立ち上がった。
「ちびパメラに見くびられるほど
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