最終章 なべて務めはこともなし
第28話 酔歩する亡霊
いびつなガラス瓶を煽り、中身を一息に流し込んだ。混ぜ物入りのアルコールが喉を灼き、どろりと思考が濁る。ひとときの鈍麻を味わい、ふたたび飲む。今の俺は酒の力を借りて、ようやく息をしているようなものだった。
地位も、名誉も、住居も失った。何より、パメラが去っていった。今の俺は全てを失い、亡霊に等しい立場だ。ならば、せいぜい無為に過ごしてやれ。……そう考えた訳でもないが、境遇に相応しい体たらくなのは確かだ。
俺は寝台で横臥したまま空き瓶を手放した。新たな酒を求め、あたりをまさぐる。
閉ざされた窓の隙間から、かすかに光が漏れていた。いつの間にか夜が明けていた。俺の手は薄青い光の帯を避け、まだ中身の入った瓶を探す。瓶の口で雫を啜る羽虫が飛び立ち、明暗の境目をよろよろとさまよう。
俺は持ち重りのする瓶を持ち上げ、栓をむしり取って中身を干した。濡れた口元を拭った直後、記憶が飛ぶ。
木の擦れ合う音をきっかけに、意識がふたたび浮上する。
窓が耳障りな音を立てて開く。差し込む夕日で室内が赤く染まり、空き瓶がぎとぎとと光った。
ねばつく意識を音と光にかき乱され、俺はたまらず呻き声をあげた。
夕空に相対するのは若い青年だ。今しがた、きしむ窓を無理やり開け放った彼は、窓枠に厚く積もった埃と、そこにある自らの指の跡を見つめている。しばらく経ってから、顔をこちらへ向けると、少年の面影を残した顔を不意に曇らせた。
「クレメントさん……。その、飲み過ぎですよ。そんなことを続けていたら身体が持たない」
知ったことかよ。俺は小言から逃れるように視線をそらし、遥か遠くの燃えるような夕空を眺める。……その、ふりをする。
青年はこちらの視界に回り込み、気遣わしげな表情でこちらをうかがっている。悪意のなさなら折り紙付きの人物だ。いちいち機嫌を悪くするのも面倒で、俺はもう一度寝返りを打ち……しかし無視しきれず、胸のむかつきを言葉に変えた。
「世話をしてくれなんて頼んじゃいないぞ」
「ええ。これは僕が勝手にやっていることです」
青年――アランの返事はきっぱりとしたものだった。
「食事は要りますか? 今日は豆のスープと――」
俺が「要らん」と手振りで示すと、アランは肩をすくめる。それ以上は何も言わず、空き瓶をきびきびと拾い上げて部屋から去っていった。その様子は小間使いというよりは、世話好きの
彼がどれだけ手をかけられ、慈しまれてきたか、よくわかる。そんな振る舞いだった。
そうして俺は、一人きりになる。換気も済んでいたろうが、窓を閉じる気力が湧かない。結局、暮れなずむ空に星が瞬くまで、身じろぎもせずに寝転がっていた。同性の、それも同性に世話を焼かれた所で、恥じる気持ちは、もはや擦り切れていた。
既に、アランには命を救われていた。俺にとって、これに勝る恥辱はない。
奴と再会したのは、あの夜、俺の邸宅が焼き討ちされた時のことだった。
館を覆いつくした炎は天を衝く業火と化していた。あたりは
彼ら彼女らの輪の中心には俺が居て、殴る蹴るのリンチを受けていた。【銃】の魔導書は撃たれていなかった。人に向けるのをためらったのか、はたまた連中を指揮している『
とはいえ俺こと悪の貴族、クレメント・ボロフカ男爵の処刑がこの蛮行のクライマックスになるのは想像に難くない。遠からず俺はとどめを刺されるのだろう。【銃】の出番はそこだろうな。
霞む視界の端で、ヨシュが倒れ伏していた。俺とあの老執事の余命にどれほどの違いがあるだろう?
そんな時だ。
「――何をしているんだ!!」
闇夜を切り裂くような、澄んだ大音声が響く。騎乗した人物が人垣をかき分けて現れる。声の主はアランだった。
群衆がどよめく。そういえばアランは『
彼は丁寧に『掲星党』の理念を彼ら彼女らへ説く。そして、負傷する老人の手当を優先すべきと説得した。これは殆ど命令に近かった。表だって異論を唱える者が誰もなかったためだ。
そうして最後に、ぼろ雑巾のような俺を一瞥する。
視線が交錯する。透徹とした視線に射すくめられ、パメラとの別離以来ズレきっていた世界認識のピントが再び噛み合った。怒りのためだ。
「全てが終わってからのこのこ来やがって、どういうつもりだ! 情けでもかけるってのか!」
「……彼の身柄は僕が預かる」
俺の絶叫は一顧だにされず、話は決まる。この越権行為に『黄表紙』は抵抗せず、以降の段取りは粛々と執り行われた。
俺もまた、貴重な物資を費やされて手当を受けて、今に至る。良くて軟禁、下手すりゃ拷問でもされるのかと思ったが、宛がわれたのは隠れ家である。出入りも自由だ。
「……」
時間稼ぎのための回想の種も尽きた。俺は汗臭い敷布を蹴り落とし、寝台から起き上がる。窓から外を眺めれば、あばら家がひしめく上空に満点の星が光っていた。夜気にさらされた頭からは、酒がすっかり抜けてしまっていた。
俺は重い身体を引きずって戸口に向かう。名ばかりの見張りに「酒」とだけ声をかけ、その場を後にした。
例えば街角で煌々と光るコンビニエンスストア。さもなくば、自動販売機。それらを夢想しながらも、俺はなけなしの判断力を費やして、貧民街の奥地へ足を向けていた。
酒が欲しい。余計な思考をしないため、現実を直視せずに済むための麻酔が、俺には必要だった。
辿り着いた先には、今にも崩れ落ちそうな一軒家があった。窓も戸口も固く閉ざされていたが、その向こうから不穏なざわめきが伝わってくる。それがうさん臭い密造酒であれ、ここいらで酒と呼べる代物を出す店はここだけだ。
新参の流れ者には戸口を閉ざしているが、構うことはない。誰かが反応するまで戸板を殴りつけて騒ぐまでだ。店主の
次の瞬間、扉が開いた。俺は何かの予感に突き動かされ、咄嗟に右手をかざして顔面の前で円を描く。
間一髪、出てきた人物と鉢合わせる寸前に『顔』を変えることができた。目の前に仁王立ちになっているのは、金髪碧眼の若い男だ。
「どけ」
「ぐぅっ!」
そして、俺の胴へ的確に蹴りを食らわせた。間違いない、こいつはルジェク・バチーク。ヴォジェニ派に属する将校一族の跡取りだ。
まずいな。こいつには俺が変装魔法の使い手だとばれている。そもそも、こんな場所まで彼が自ら出向いているのが不穏だ。粛清しそこねた俺の行方を探しているのか? あり得る話だ。
「おい。お前、こういう面相の男をどこかで……」
長居すべきではない。俺は怯えきった浮浪者を装って、その場から這いずって逃げようとする。何かに勘づいたのか、ルジェクが背後に号令をかける。
戸口から兵らがずらずらと現れる。俺は演技をかなぐり捨て、全速力で走り去る。追いすがる連中の怒号を背に、俺は追っ手を撒くために、入り組んだ路地に飛び込んだ。
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