第26話 悪役貴族やめます

 俺は空っぽの育種箱をいくつも抱えて、庭と納屋を往復していた。いっぽうのパメラは土の上に屈んで移植ゴテを片手に黙々と苗を植えている。広くはない前庭のあちこちに、球根の植わった畝や小さな苗が整然と並ぶ。


 季節は晩冬から初春に移り変わっていた。


 パメラが「お庭を整えたいのですが」と出し抜けに告げたのはつい先日のことだ。俺が頷くと、彼女はてきぱきと苗や球根の手配をした。霜解けを待って地面を掘り返し、堆肥を漉き込む。重労働だったが、達成感はなくもなかった。


 春の盛りが訪れる頃には、この風景にも変化が起こっているのだろうか? 園芸に疎いのもあってか、今ひとつ想像が追いつかない。


 俺は黙々と作業を進めるパメラの後ろ姿を眺め、彼女が同じ家で寝起きしている事実を未だに飲み込めないことを自覚する。どこか夢の中のような感覚が抜けていない。


 そう、パメラが兄に伴われてこの家にやって来たあの日から。


「……ハーディ商会が対立派閥と繋がっていると?」


 客間に荷物を置いた後、改めて応接室で向き合った彼女が告げた事の次第はまったく理不尽なものだった。


「ええ。顧客のなかにヴォジェニ派とは思想を異にする方々が含まれていたと」


「なんだそりゃ……単に商売相手というだけで、袖の下を受け取ったというものでもないんですよね?」


 パメラは静かにかぶりを振る。


「確かに、商会のお仕事としてそうした方々とお取引をしたことはあります。ですが、お売りしたのは奥方や娘さんの室内着用の綿布や小間物類です。高価なものでもありませんし、どれも単発のお付き合いです」


「それは……叛意の証拠とするのは苦しい要素に思えますね」


「商会の仕事はあくまで隠れ蓑です。商圏の拡大や、利潤についてもことさら追求することはありません。ですが……」


 パメラは黙り込み、しばし逡巡する様子を見せる。そして、意を決したように、再び口を開いた。


「我が家は現在、全資産の数割を罰金として支払うことと、指揮権を制限した上で家の者の派兵を求められています」


「……はぁ?」


 開いた口がふさがらない。理屈に合わない。滅茶苦茶だ。――そして俺はある可能性に行き当たる。


「ハーディは身分としては資本家だ。……あなた方は表向きの稼業でも成功を収めている。力を付け過ぎたと思われたのか」


「父と兄たちに二心はありません。それだけは確かです」


 パメラはいつもの通りの無表情だった。けれども口調からはほんの少しだけ疲れが滲んでいる。


「それは、私自身も同じことです」




 俺は彼女を匿うことに決めた。迷いはなかった。こうして始まった同居生活は存外穏やかに過ぎていく。


「――パメラちゃん! あんたの言ってた豆の粉が手に入ったよ! 明日の朝はこいつでパンケーキをこさえるからね」


「パメラ殿、掃除は私どもの役割ですから! ――いや、そんな高い所まで!?」


 パメラは動き回っていないと落ち着かない性質だった。老執事のヨシュや料理番のダナ婆さんとあっという間に顔なじみと化し、彼女なりの居場所を確立している。その光景を眺めるたび、俺の中にほんのりと明るいものが灯っていく。


 俺と彼女は向かい合って食事をとった。書斎でお互いが読む本について語らった。新月の夜に抜け出して、川沿いを散策した。日課の基礎訓練に励む彼女を眺めることも許された。窓から流れ落ちる雨を、ただ二人で眺めることもあった。


 けれども日々を過ごす一方で、俺の頭の片隅はある考えで占められていた。ヴォジェニ一派として生きていくことと、彼女と共にあることを両立するのは困難だ。ほとんど不可能といっていい。


 現に、俺は度重なる公爵からの呼び出しをのらりくらりと避けていた。ハーディ家の弱体化を図っている折、俺はそこと姻戚を結ぼうとしている家の長だ。どのような用向きであれ碌なものではないだろう。


 俺は隠し部屋の相関図を思い返す。メモや色糸で関連付けられた壁面相関図は、今や壁一面を埋め尽くす大きさとなっていた。正面に立つと、目線の高さには特に目立つ色で囲いがあり、一枚の紙が貼られている。そこに記されたタスクリストの末尾はこうだ。


 【最終目標:ヴォジェニ派からの足抜け】


「――クレメント様?」


 頬に土をつけたままのパメラがこちらを振り仰ぐ。俺は彼女へ「何でもない」と告げて微笑みかけると、育種箱を抱え直して納屋へと向かう。


 段取りはできている。そろそろ彼女へも打診をするべきか。今日にでも切り出そう。夕食の席が適当だろうか。


 そう考えていた矢先だった。小春日和の昼下がり、俺は書斎で領地や財産の整理についてあれこれ思い巡らせ、潜伏先の候補地を絞り込み、忙しなく過ごしていた。


 つまり俺は、浮かれていたのだ。日を追うごとに言葉少なになっていくパメラの様子にも、気を払えない程に。


 ノック音で我に返る。次いで、パメラが静かな歩調で入室してきた。俺は出迎えるために立ち上がり……彼女の服装に気づくや否や硬直した。状況を理解するよりも先に、得体のしれない不吉な予感に襲われる。


 なぜ彼女は帯剣し、南方探索の時と同じ装いをしているのだろう。あの時と同じ墨色のシャツとレザーパンツという格好で、記憶との唯一の違いは、寒さ避けであろう襟高のジャケットを羽織っていることだけだった。


「ここからお暇します」


 パメラが告げた途端、俺はペンを取り落とした拍子にインクつぼをひっくり返した。黒々とした染みが紙を越えて机にまで広がっていくが、そんなものに構っている場合ではない。


「去るって……どこへ!?」


「我が家へ。その後、戦地の兄たちに合流します」


「無茶だ! なぜ、敢えて死地へ向かうような真似を」


「そこが我らの居場所だからです。私もまたハーディの一員としての責務を果たしに参ります」


「……家名を守るために?」


 俺が訝しむのを敏感に察知したのだろう。パメラは自嘲的な笑みを浮かべ、首を横に振った。


「いいえ。私たちの自尊心プライドは血脈に寄るものではありません。求められた性能を果たすこと、それこそが誇りです。それに――」


「だとしても、あなたが犠牲になる必要はないはずだ!」


 あくまで淡々と述べる彼女の言葉を思わず遮る。感情がコントロールできない、彼女の冷静さが憎たらしい。恥も外聞もなく縋りつけばいいのか? 何をすれば彼女は思い直す?


 わからない。彼女がわからない。


「――兄達がどんな場所で何をやらされているか、知らないはずもないだろうに!」


 叫ぶように発したのは、明らかに彼女へ言うべきではないものだ。案の定、彼女の表情は凍り付き、とうとう俺の顔から視線が外される。


「私は、あなたの重荷になりたくない」


 重荷だなんて、そんなことは……そう弁明する俺が目に入らないかのように、彼女はとつとつと呟き続けている。


「……クレメント様には、成すべきことがあるはずです。それを、あなたの道行きを、私の存在が歪めるのは耐えがたい」


「たかが仕事がなんだってんだ! そんなもの、人生を捧げる価値もありませんよ!」


 パメラはようやくこちらの存在に気づいたかのように、俺の顔をひたと見据えた。藍色の瞳はいつだって揺らがず、しかし、目じりがほんの少しだけ赤らんでいることが俺の罪悪感を刺激する。


「いいえ。人にはそれぞれに与えられた役目があります。――私にも、あなたにも。誰にだって」


 そりゃまた、随分とゲームじみた考えだ。そう反論しようとして、俺はようやっと、この世界が『ゲーム』そのものであることを思い出してしまう。


(能天気な勧善懲悪の世界から俺たちを解き放っておいて、それでもなお、そうなのか?)


 俺たちは状況の操り人形に過ぎないというのだろうか。


 視界が回る。うずくまり、こみ上げる吐き気をやり過ごす。俺の前までパメラが歩み寄った。冷や汗で濡れる俺の頬に、そっと彼女の手が触れた。


「私は私の役目を果たして参ります。ですからどうか、クレメント様も」


 華奢な指先にうながされる。のろのろと顔を上げる。艶めいた黒髪が俺の視界を区切り、毛先が首筋に触れた。


 俺のかさついた唇に、柔らかな感触が触れる。


「――今日植えた球根は、初夏が花の盛りです。それが、私です」


 彼女は囁き、立ち上がった。




 窓越しに見送る彼女は、来た時と同じ小さなカバン一つを提げて振り返ることなく去って行く。


「……庭の花か」


 彼女だと思って丹精しろということか。この家で、クレメント・ボロフカ男爵として、ヴォジェニ一派の走狗として。……一人きりで。


 ――数日後、とうとう逃げきれなかった俺はヴォジェニ公の御前に引き出される。そしてパメラ・ハーディとの婚約破棄を正式に認めさせられた。まるで全てがあらかじめ取り決められていたかのように、俺は唯々諾々とサインを行う。


 踏みしめる地面の感触が頼りない。書き割りの世界を現実と思い込んだ、間抜けな影法師をあざ笑うかのように。


 そして夜半。ボロフカ邸は大火球に呑まれた。

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