Chapter.6 完全放棄宣言

  名前:樋口さん

  時刻:七時二十三分

   わたしはもう会場に着いたよ。

   志目さんたちもこっちに向かってる?



  名前:樋口さん

  時刻:八時十二分

   お寝坊さん?

   約束の八時を過ぎてるよー。



  名前:樋口さん

  時刻:八時五十一分

   迷子? 場所わかりにくいよね。

   わたし、迎えに行こうか?



  名前:樋口さん

  時刻:九時八分

   おーい。おいおい。




 未返信。未返信。未返信。未返信。返していない樋口さんからのメッセージが、スマホの通話アプリに並ぶ。返さないのにチェックをしているのは「約束を放棄して申し訳ない」という気持ちが内心あるからで、返事を返さないのは「自分の勝手で約束を破る」という断固たる決意が揺らぐ確証があるからだ。


 日曜日の午前九時半、あたしは樋口さんと約束した中央公園の駐車場にいなかった。右の線路に始発列車が待機しているプラットホームに居た。電車賃を払うにはお札が必要な距離の田舎駅で、ホームから見える景色は、普段あたしたちが暮らしている街のものより二回り侘しい。


「ここから歩いて行ける場所にあるお城、お庭でお猿さんを飼育しているらしいですよ。何だか、変わっていますね」


 植芝さんも一緒にいた。朝、公園に向かう時、強引に手を掴んで反対方向の電車に連れ込んだのだ。


「今からでも出店に向かいましょう、志目さん。開店時間には間に合いませんが、私も一緒に謝りますから」


 植芝さんの声色は柔らかかった。野良の子猫をあやすような眼差しをあたしに向けていた。


 ホームは無人だ。出発時刻待ちの列車内には微かに乗客がいるが、外に出ているのはあたしと植芝さんの二人しかいない。


 あたしは首を横に振った。


「行きたくない」


「大丈夫ですよ。怒られるでしょうけど、樋口さんは優しいですから許して――」


「植芝さんを、他の誰かに食べられるのが嫌なんだよ!」


 存外に大きな声が出た。植芝さんの言葉が途中で遮られた。スマホ画面や参考書に視線を落としていた乗客の何人かが、驚いて顔を上げた。


「志目さん、でも――」


「嫌! 植芝さんが何て言ったって、樋口さんが困ることになったって、それが急に、どうしようもなく嫌になったの! ――嫌なものは嫌なの!」


 まるで幼稚園児の駄々だ。自分でもそれは感じている。


 でも、巨人に堤防を蹴破られたダムのように感情が溢れ、止められない。昂りのまま握り込まれた両の拳。切り揃えるのに手を抜いた爪が皮膚に食い込み、血が滲み出た。


 数秒の沈黙を挟んだ後、植芝さんは鼻から息を漏らす。あたしと対峙する陣形を崩し、自販機の前に移動して飲料を購入し、また戻ってきた。


「本当は温かい飲み物の方が気持ちを落ち着けられるんでしょうけど、季節柄、つめた~いしか売っていませんでした」


 ……まあ、七月の初めだしね。


 植芝さんから缶コーヒーを受け取り、お礼を述べて開栓する。一口だけ喉に流し込むと、なるほど、実際以上に冷たく感じられた。



※ ※ ※



「『マザー』という感覚。初めてこの言葉を知った時から、それが私の憧れでした」


 とつとつ、といった感じ。そういった感じで、植芝さんは話を始めた。


 あたしと植芝さんは並んでベンチに腰かけている。駅のホームには相変わらず二人だけ。時刻は十時三分。もう、間に合わない。


「私たちリィチ族は自分の身を食料として捧げ、他生命体のゲノム情報を自分たちのものに書き換えることで種の存続を果たします。生態のシステム、あるいはその生命が生きる過程で築いてきた文化の乗っ取り、種のクラックと言えるでしょう。


 ですので、私たちには志目さんたち人類のような『父』と『母』という概念はありません。自我に目覚めた時には、親と呼べる存在は食事として食べ尽くされた後ですからね。


 私たちの追憶には、父の背の上で揺られながら帰宅する夕焼けも、母に手を引かれて歩く小雨の道も存在しません」


 植芝さんの買ってくれた缶コーヒーは、既にあたしの手の中で温くなっている。缶の表面に結露した水滴が、あたしの手の平を濡らした。


「ガニメデからこの地球にやってきて原住種の知識を学ぶ際、最初に覚えた言葉が『マザー』。それ以来、その三文字が私の心を捉えて離しません。


 街を歩いていると、母親と思わしき女性が小さな子を遠目に見守っている光景をよく目にします。彼女らはその時、自分の遺伝子を運ぶ器がそこにあることに安心し、堪らなく愛おしい気持ちになるのでしょうね」


 横に座る植芝さんの様子を盗み見る。下方四十五度、薄汚れたコンクリートに向けられた表情。そこには羽毛で傷付かぬよう包み込むような慈しみと、樹に留まる昆虫の脚をただ戯れにもぎ取るような蹂躙の心の、相反する遠く離れた感情が同居しているかのような色が見て取れた。


「私は『マザー』になりたい。この地球上の、全ての人類の。


 母と子を繋ぐ、見えなくとも確かにあるゲノムの糸。私と全人類がそれで結ばれているのを精神で感じ、安らぎに満たされたまま、食料として子供たちの身体の中に溶け込みたい。


 ――それがリィチ族として、一つの生命体としての私の望みです」


 言い終わり、植芝さんがこちらを向く。視線が交わった。


「私は、より多くの人に私の身体を食べて頂く必要があります。――だから、志目さんの願いを叶えてあげることはできません」


 柔らかく、けれど、きっぱりと拒否を示す口調だった。


「わかって……頂けますか?」


 植芝さんが懇願する。あたしはそれには返答せず、彼女の右肩に自分のこめかみをそっと押し付けた。


「志目さん?」


「バターがいいかな。でも、大根おろしも捨てがたいよね」


 植芝さんの目が見開かれ、黒目が数割増しになる。


 言葉はないが、少し開いた唇から息の漏れる音がした。


「あたしは植芝さんを食べたい。あたしだけが植芝さんを食べたい。


 植芝さんをバターやシメジと一緒にホイルに包んで、じっくり酒蒸してホクホクになったのを食べたい。温めて溶かした植芝さんを、硬いフランスパンにサワークリームみたいに塗りたくって味わいたい。赤ワインで煮込んだ、野菜少な目で肉のホロホロさと血の味で勝負するシチューだって捨てがたい。手羽先みたいにパキってやって、手と口周りを汚しながら一体になっていくのだってきっと良い。


 焼いて食べたい。炒めて食べたい。蒸して食べたい。細かくして食べたい。大きいまま食べたい。甘くして食べたい。苦くして食べたい。酸っぱくして食べたい。まだまだもっと食べられる」


 一気に捲し立てたので息が切れる。天井に吊るされたスピーカーから、次の列車が遅れていることを伝えるアナウンスがホームに響いた。


「お腹ばかりが空いちゃって、食べたい植芝さんが次々と浮かんできて止められない。誰かに分けてあげる心の余裕なんかない。カロリー供給を求めていなないている胃袋は、全部を植芝さんで満たしたい!」


 手中の缶コーヒーをグイと流し込んでから、あたしに身体に残っている感情の全てを、最後の一滴まで吐き出す。


 停車していた始発電車のドアが、空気の抜ける音を立ててゆっくりと閉じる。少しずつ加速度を上げながら出発し、あたしたちだけがこの場に残された。


「私自身が、私の身体がより多くの人に捧げられることを望んでいると知っても、志目さんはなおその主張をしますか」


 植芝さんの冷たくも温かくもない声が、座高の差の分、少しだけ高い位置からあたしに降り注ぐ。


 返す言葉に、迷いはなかった。


「あたしの欲望を邪魔する最大の障壁が植芝さん自身であったとしても、植芝さんの目的を阻害する一番鬱陶しくて忌々しい存在があたしであったとしても、――植芝さんの身体は全部、全部、全部、……血の一滴まで残さず、あたしの体内に取り込みたい」


 折衷の放棄。声に出しただけの言いっ放し。決着のない不毛の空気が、二人だけのプラットホームに流れる。


「――帰りましょうか」


 植芝さんが場を切り上げる言葉を出すまで、本当は数十秒だけれど、何だか随分と掛った気がした。



※ ※ ※



「ねえ、植芝さん、怒ってる?」


「別に怒ってはいないです。ただ、どうしたものかと困っただけで」


「そっか。……ごめんね」


 街へと帰る各停列車は休日の上りということもあり、それなりに乗客がいた。あたしと植芝さんは軽い振動に揺られながら、ロングシートの中ほどに腰かけている。


「謝るのは樋口さんに対してですよ。きっと、彼女の方は物凄く怒ってます」


「だよね」


 ポーチからスマホを取り出し、画面を点灯させる。通話アプリの新着件数が何と二十三件。多分、ほとんどは樋口さんからだ。


 ――うぅ恐い。内容、確認したくないなあ。


「樋口さんには本当に申し訳ないですけど、『体調不良で毒素が出ているから、身体を提供することは出来なくなった』と説明いたします。――これでいいですね」


「うん。本当にごめんね、植芝さん」


「だから、謝罪が必要なのは私じゃありませんよ。一緒に頭を下げますから、樋口さんのところに直行しましょう」


「むぅ。自業自得なんだけど、とてつもなく気が重いなあ」


 あまり強くない日差しが車窓から入り込み、照らされた首筋がほんのりと温かい。首を少し動かすと、床に落ちた影がそれに合わせて動いた。



 植芝さんの身体を食べると、ある日を境に、遺伝子が彼女たち種族のものに書き換えられる。二週間ほど前、植芝さんはそう説明してくれた。


 彼女はあたしたち人間にとっては侵略種なのかもしれないけれど、その辺はわりとどうでもいい。物凄く苦しんだり、痛い思いをして滅ぶというのなら断固拒否するけれど、別にそういうわけでもないようだし。


 それに種を代表して人類を守りたいとなるほど、大それた正義感をあたしは持ち合わせていない。



 それよりも大事なのは食欲だ。


 彼女を食べたいという感情が、種の存続を願う気持ちなんかより、ずっとはるかに勝っている。



 植芝さんの左肩にそっと頭を預ける。彼女は一瞬だけ驚いた素振りを見せたけれど、優しく微笑み、あたしの重さを受け入れてくれた。



 食べられる側の植芝さんは、身体や心の調子によって味が変化する。


 もしかしたら、食べる側のあたしの心の調子でも、植芝さんの身体の味は変化するのだろうか。


 そうだとしたら、この先、未来で食べる植芝さんの味は、今よりもずっともっと美味しい。


 ――絶対、そうに決まっている。



 すっかりと夏の始まりに切り替わった空の下を、あたしたちを乗せた鈍行列車が休み休み走る。


 目的の駅に着くまで、もう少し時間がかかる。それまでの間は、植芝さんをあたしのものとして独占できるはずだ。



(了)

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