Chapter.5 チューリングラブ

 就寝前のスマホのバッテリ残量は六十二パーセントだった。充電しておかなきゃなと布団に仰向けになったまま、枕元に転がっているはずのケーブル先端を手探りで探す。アプリにメッセージが二件来たのは、そのタイミングでのことだった。


 一件目は姉から。めたくそ長く続いていたので要約すると、彼氏との惚気。まったくお熱いことで。


 二件目は樋口さんからで、内容は明日の出店の打ち合わせだ。大まかなことは金曜日の下校時に聞いていたので、その最終確認のような感じになる。合点承知したよと、あたしは返信した。


 用無しとなったスマホを畳の上に置き、自室の古い板張りの天井を見上げる。会場がお客さんに解放されるのが午前十時。準備に二時間くらい掛かるから、植芝さんと一緒に朝八時頃に来てくれと言われていた。


「今から十時間後、か」


 調理をするのは樋口さんだし、食材になるのは植芝さんだ。あたしは単なる付き添いで、特に仕事があるわけでもない。


 ――それなのに、どうしてこんなに気分が重たいだろう?


 身体を一八〇度反転させ、うつ伏せになって枕に顔をうずめる。漬物石を括り付けて池に投げ込まれたように心が沈む。


 それでもえいやと半身を起こし、蛍光灯からぶら下がっている紐を引っ張って消灯する。


 明日も早い。もう寝よう。



※ ※ ※



 本棚に置いたピンク色の目覚まし時計に目を向ける。蛍光色がぼんやりと発光して浮かぶ二本の針が、今は深夜の三時過ぎであることを示していた。


 寝汗が不快で気持ち悪い。お腹に丸ごと穴が開いているみたい。


 とてつもない飢餓感に、あたしは叩き起こされる。


 襖を勢いよく開けて自室を飛び出し、地響き鳴らして階段を駆け下りる。就寝中の両親に迷惑だなんて、気を遣っている余裕はない。


 台所に飛び込んでヤカンを引っ掴み、水を必要な分だけ入れてコンロに掛ける。お湯が沸くのなんか待っていられない。冷蔵庫を開けて中を漁ると、ラップに包まれた鮭おにぎりが二つあった。


 おにぎり二つとマーガリン、それから紙パックの牛乳を取り出し、食卓に乱暴に置く。邪魔なラップを引き千切って床に捨て、おにぎりに稚拙なパテの補修のようにマーガリンを塗りたくって口に押し込む。突っかかって喉の先へと進まない塊は、牛乳パックの縁を口に押し当てて流し込んだ。




 短い眠りの中で夢として見た光景は、これから数時間後に確実に訪れるもの――中央公園の駐車場に整列する出店の一つで、行列を作る人々に『包々軒』のラーメンが配られている光景だった。


 茶碗より二回り程度大きいプラスチックの丼の中、海苔とメンマとチャーシュー一枚だけが添えられたシンプルなラーメン。スープはもちろん、あたしたちがこの二週間、試行錯誤して調整した植芝さんの出汁のスープだ。


 臨時で設置された簡易テーブルに座りながら、あるいはその辺で立ったまま、『包々軒』のラーメンを食するお客さんたち。舌鼓を打ち、顔を綻ばせるその表情たちだけが、マーカーで色を付けたようにあたしの知覚を捉え、離さない。


 木材を振り回し、その場に乱入したい欲求に襲われた。


 あいつも、こいつも、そいつも、どいつも、あたしに許可なく植芝さんを頬張る連中をぶちのめしたい。植芝さんを食べて「美味しい」とか「深みがある」とか「五臓六腑に染み渡る」とか勝手なことをのたまう奴の顔面にフルスイングしたい。あんたたちが手にしている椀の中身は全部あたしのものだって、手に持っているそれを全部叩き落としてやりたい。


 ――あたし以外の人間が植芝さんを摂取することに、あの一人教室の隅に静かに座っていた植芝さんが、本当は食べてみると美味しいんだって気付いてしまうことに、なぜだかどうしようもなく耐えられない。




 まだ三分には少し早いけれど、そんなことは構うもんか。あたしはカップめんの容器の蓋を剥がし、まだ結構の硬さがある麺を勢いよく啜り込む。重石の代わりに蓋の上に置いていたタイマーが、一分五十秒を示したまま床の上に転がる。


 いつの間にかダイニングの外にはお父さんとお母さんがいて、引き戸の向こうに身体を隠し、顔だけを出してこちらを窺っていた。眠りを妨げられたことに怒るより先に、あたしの深夜の奇行に起こるより先に、突然家に上がり込んだぬらりひょんを遠巻きに観察するかのような表情を浮かべていた。


 あたし今、きっと変な奴だ。狂った奴だ。


 でも、止められなかった。


 咀嚼に伴って動く頬を、いつの間にか流れていた涙が伝う。かき込む豚骨ショウガのしつこくて濃い味は、感情と、涙の薄いしょっぱさと共に、あたしの身体の奥へと飲み込まれていく。


 あたしには母親と衝突をしてまで、恋人と一緒にいることを選んだ姉のことがわからなかった。あたしにはこれまでの生活様式を捨ててまで、この家を出て行った姉のことがわからなかった。――でも、少し理解できた気がした。



 ――誰かを好きって、もしかしたらこういうことだ。

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