第26話 気付き
放課後、
そこはかとなく落ち着かない香りが鼻腔をくすぐる。
それでも、目の前のタスクと向き合っていれば、自然と気にならなくなるもので。
「そうそう。その公式で合ってる」
「あーね。このタイプは
「うん、意味がわからない。でもそれでいこ!」
「へぇ、計算ミスもあまりない。志々芽さん、数学と相性いいのかもね」
「マジ? ガチればワールドカップ出れる?」
「数学オリンピック? そうだなぁ、ギリいけるかもね」
志々芽さんの実力を鑑みると、禁術の研究に没頭する魔術師くらい生涯を捧げれば出場できるかも。
学校祭を週末に控えた準備期間。猶予のない中間考査スケジュールを考慮し、準備が終わるとすぐに、志々芽さんの家庭教師を敢行していた。
グリモンと志々芽さんの契約が切れても、僕と田中の取引は未だ続行中。
しかし今回は、志々芽さんのやる気が違う。殊勝な態度で机に張りつく彼女を見ていると、教える側にもやりがいが
勉強を見る過程で、だんだんと志々芽さんの特徴も見えてくる。言葉よりも
おかげで教科に偏りはあるものの、少しずつ進歩が見えてきた。
「当たり前だけどさ、まだまだユクエには追いつけないね」
「勉強歴一週間の志々芽さんに追いつかれたらショックで出家しちゃうよ」
「普段どーやって勉強してんの? あたしもマネしてみよっかな」
「うーん、あまり効率的じゃないかも。基本は、教科書を端から端まで丸暗記。覚えられるまで何周もね。あと、数学や英語は握力がなくなるまで問題を解きまくる、くらいかな」
「めっちゃ
あたしもやってみよーと前向きな返事をする志々芽さん。千里の道も一歩からの精神が根付いてきたよう。彼女は苦行マラソンを延々と走り続けるやりこみ勢なので、案外こなせてしまうかもしれない。
ふたたび、机の問題集と向き合う彼女を見ながら、やはりちょっとした違和感が拭えない。
会話の雰囲気は変わらない。いや、変わらないように努めているといった感じ。だが以前よりも間合いが遠く、目も合わない。明らかに微妙な距離感になっていた。
思い当たるとすれば、教室での修羅場を公開したせいか。
かといって、それらをあけっぴろげにするタイミングがなかったのも事実。とくにここ一週間はいろいろなことが起こりすぎて、自分自身ですら胸の内をうまく消化できていなかった。まあ、もはや言い訳にすぎないけど。
「ねえ志々芽さん、学校祭の休憩時間は——」
「あっ、飲み物とってくんね。ユクエは
「え、うん。粗茶が好きなわけじゃないけど、ありがとう」
志々芽さんはトテトテと階下へ向かってしまう。
この通り、勉強以外の話題に言及させてくれない。実はすでに嫌われていて、かろうじて避けられない理由は家庭教師だからでは。とマイナス思考が邪魔をしてくる。
調子に乗りすぎていたのかも。元々、住む世界が違う人だしなぁ。
「ニイチャン、浮気はあかんで」
「鈴穣さんの許可はとってるよ。ていうか普通に出てくるなよグリモン」
肩のりサイズの珍獣が、召喚もされずにぽわんと現れる。ルール遵守とかないのかコイツ。
「アレはあくまで魔法少女感を際立たせる演出や。ミニスカが絶妙な風でピラピラとか最高やったやろ?」
「この名プロデューサーめ」
魔法少女がいなくなり用無しのマスコットは、コロコロと暇そうにテーブルを転がる。無害認定されてからというもの、こうして露骨に媚びるゆるキャラアピールを僕はしっかりと見抜いていた。今更好感度が上がったりはしない。
「でも正直なところ、グリモンがいてくれて助かるよ。なんか微妙に気まずいんだよね」
「こっちは
「鵜呑みはしないけど聞いてやるよ」
「めっちゃ偉そうやんジブン」
そう簡単に手のひらを返すほど、僕はまっすぐな性格をしちゃいない。一難去ってまた一難に備えておく臆病者なのだ。
そうこうしているうちに、炭酸飲料と紙コップ、スナックを両手に志々芽さんが戻ってくる。粗茶でもなかった。
「ちょい休憩しよーぜ」
そう言ってテーブルを挟んだ僕の向かいに腰を下ろす。スナック袋を開ける志々芽さんの端正な顔を、僕は黙ってジッと凝視した。
「ん、なに?」
「…………」
「え、めっちゃ見てくんじゃん。まつ毛抜けてる?」
「…………」
「……ねえ、見すぎ。ユクエ……」
意志の強い彼女の瞳が、わずかに揺れている。どうしてそんな表情をするのだろう。どうして、目が離せない。吸い込まれるような感覚……。
気が付くと、志々芽さんの顔が、僕の目の前まで近付いていた。ババッと僕がまばたきをしたことで、志々芽さんも正気に戻ったよう。一気に先程以上の距離をとった。
「え、なんなのっ。急にマジで」
「ごっ、ごめん。グリモンが一分間見つめろって言うから……」
珍獣のアドバイスに従ったまで。実際は三十秒ともない時間だったが、効果はてきめん。僕はすっかりと気付いてしまう。もしかすると志々芽さんは——
しかし、先に口を開いたのは、
「ユクエ、お願い」
志々芽さんは身体ごと顔を
「中間テスト終わったらもう勉強、教えてくんなくていい。……
***
「はぁ……っ、はぁ……っ!」
人混みの中を縫うように進む。どうしてこんなに人が多いんだ。学校祭だからか! わかってるよチクショウッ!
食べ物を突き落としながら廊下を駆けるたび、周囲のヘイトが着実に集まってくるのがわかる。人類の敵にでもなった気分だ。しかし、この足を止めることはできない。この場に留まったら、殺される。
「通してっ! どいてっ! すみません、弁償しますあとでっ」
なんだアイツ。どこから現れた。体躯は人並み、一見すると華奢だ。だが、魔法少女の直感力やニオイに頼らなくても、全身の細胞が訴えかけてくる。巨大シャドウの比じゃない。つまり、ヤバさが凝縮されているってことか? フリーザの最終形態かよ。
「どいて、みんな……どけっ! 逃げろっ!」
僕しか見えないんじゃないのかよ。どうして、ほかの人にも見える。危険性はあるのだろうか。愚問。愚問だ。
「え、なに……うぐッ」
「痛ッおい……ごボァ」
通り過ぎた背後から穏やかじゃない声が聞こえる。半分は僕のせい。しかし、もう半分は追いかけてくるなにかの仕業だった。肩が少しぶつかったくらいで、あんな悲鳴が起こるはずない。アイツは、すぐ近くまで来ている。
「ああ、もう……っ!」
方向転換して階段を駆けあがる。プラン変更。まずは人の多い場所から離れないと。それに、このまま脅威を引き連れて教室には戻れない。あそこにはユヅキも、鈴穣さんもいる。クラスメートだって。もはや魔法少女じゃない志々芽さんに
僕が、なんとかしないと。
あの晩の
目も眩むような晴天が突き抜けていた。屋上にはカップルやソロプレイヤーたちが点在している。しかし、狭い廊下や階段よりもよっぽどマシ。
「みんなっ、危険だからここから離れて! 逃げろっ! 」
フェンス側まで走りながら声を上げる。周りはぽかんとした表情でこちらを見るだけ。オオカミ少年の最終フェーズか。こっちは走る正直者だぞ!
グァンッ。鉄を撃ち抜いた甲高い音がつんざくように響き、同時にブオンと空を割く物体が視界を横切った。それはフェンスを超えて回転しながら宙を舞う。屋上扉だった。
近くで叫び声。屋上にいた人たちが散らすように端の方へ避けていく。
僕はフェンスを背に、屋上入口へと向き合った。そこにいたのは、最悪な予想どおり。
「はぁ……っ、はぁ……っ」
呼吸が小刻みに荒くなり、息苦しい。ここまで走ってきたせいもある。だが、なによりも恐怖が勝っていた。
手足がうまく動かない。見えないなにかに引っ張られるよう。まるで自分のものじゃないみたい。
遠く、階下で悲鳴が上がる。屋上扉が落ちたのだろう。たしかグラウンドの方。怪我人がいないといいけど。
しかし、視線を外すわけにはいかない。外しようがない。
もう、目が合っている。
『逃げてッ!』
相対するそれは、目測は定まったとばかりに、ゆっくりと一歩ずつ、距離を縮める。
全身、墨を被ったような黒。光を反射せず、飲み込んでしまうほどの。
見れば見るほど、認識が混濁しそうになる
シャドウ。
いや、人型の影。
『逃げてッ!』
いつから、勘違いしていたのだろう。
今まで見てきた
自作自演の
身近な人間の感情をモデルに、ソイツらはカタチを成して現れた。
だとするなら、シャドウは、志々芽さんが創造した?
大きな勘違いだ。
この歪な存在を——こんなにもおぞましいものを、あのまっすぐな彼女が創り出しただなんて。
『逃げてッ!』
「……僕だって逃げたいよ」
志々芽さんには、いや、鈴穣さんたちにも見えない。
なのに、どうして僕にだけ、ヤツらの表情が見える。
僕が特別なチカラを持った人間だからか? 運命に導かれているからか?
思い違いも甚だしい。
『逃げてッ!』『逃げてッ!』『逃げてッ!』
叫び声。耳から離れない。警鐘のように、ずっと鳴り響いている。
あの日から、ずっと。
耳を塞いで、目を逸らしていた事実。
思考が。感情の整理が、追いつかない。
追いつかないが、だけどもう、わかってしまった。思い出してしまった。
どうして、忘れていたのだろう。
こんなにも懐かしい。
『逃げてッ!』『逃げてッ!』『逃げてッ!』『逃げてッ!』『逃げてッ!』
人型の影は、僕の前で歩みを止める。
ああ、やっぱり。
そんな、愉しそうな表情をするなよ。
「そっか、あの日。僕の家族を奪ったのは——」
その顔は。
「僕だったのか」
——————
いきなり気管支炎を発症し、なかなか体力が戻らず更新が遅れてしまいました。
次回は『4/10 月曜日 22時ごろ』を予定しています。
が、体調次第になってしまいそうです。
応援よろしくお願いいたします。
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