第23話 変わる現実

 暖かな陽光の差す、晴れ渡った火曜日。

 三連休が明けて本来であれば憂鬱な登校日だが、僕は心機一転の清々しさでこの朝を迎えていた。

 テレビから流れる報道バラエティ。トントンとまな板が叩かれ、炊飯器が炊き立ての合図を鳴らす。当たり前に享受していた文明の香りがいかに素晴らしいか、失って初めて気付かされる。


「おはよう、朝ごはんできてるよ」

「おっ。あ、ありがとう……。愬等サクラ……」

「いいよ、このくらい。ふた晩を一緒に過ごした仲だろ?」


 居候の身である僕が朝食のセッティングをしていたところに、その家主がぼんやりと降りてきた。しいて説明する余地のない男子高校生、毒にも薬にもならない平々凡々。なにを隠そう津田ツダである。どうでもいいので隠しておきたかった。


 日曜の夜。ユヅキとケンカして、「出てけっ」と追い出された僕は路頭に迷った。養父母が帰る頃には戻れるだろうけど、登校日までの二夜をどこかで明かさないといけない。未成年ではマン喫もホテルも無理。そこで白羽の矢が立ったのがクラスメートの津田だった。

 人型の影シャドウの一件から時たま話す仲になり、二学期に入ると人知れずコソコソと会話する程度には距離を縮めていた。ついでにライン交換までしていたおかげで、僕は野宿をまぬがれることができたのだ。

 まあ、この二日間を津田とどう過ごしたなんて誰も興味ないから端折はしょるとして。


「愬等。おまえ、料理上手なんだな……この味噌汁、なんだかお袋の味がする」

「その味噌汁は津田くんのお母さんがつくったからね」

「……この目玉焼きは?」

「それも君のお母さん。僕は並べただけ」

「…………」


 なぜか叙述トリックを仕掛けたみたいな会話になったが、朝ごはんできてるよとしか言ってないのに勝手に勘違いされても。

 そんなこんなで出発時間。玄関口まで見送る津田母に、別れの挨拶を告げる。


「津田のお母さん。突然お世話になって、ご迷惑をおかけしました」

「いいのいいの。ソイツの友だちが遊びにくるなんて珍しいから。また来てね」

「……あ、ハイ。またお邪魔します。ありがとうございました」


 たしかに津田の名前は素逸ソイツだけど、キラキラを通り越して、親から呼ばれてこんな可哀想な名前はないなと思った。

 別世界パラレルワールドで歴史遺物になりかけた家をあとにして、初めてだれかと一緒に登校する。その相手が津田というのが思い出になるにしては弱すぎた。




 教室に入って最後部の席に着く。二学期の席替えを終えても、引きのいいくじ運のおかげで再び居眠りに特化した定位置を確保している。

 そして隣の席には、今度は左右を入れ替わったかたちで、すでに僕のカノジョが座っていた。


「おっ、おはよう、愬等くん!」

「おはよう鈴穣スズシゲさん」

「今日は珍しく早いねっ」

「前に早く来たときはいい思い出にならなかったから、塗り替えたくてね」


 そんなことがあったの? と当時僕を殴った有段者は穏やかに微笑む。

 策略に巻き込まれた被害者とはいえ、クラスメートをぶった日が鈴穣さんにとってどの位置付けか気になるところ。少なくとも僕のポジションが一転した日には違いない。夏休み直前から今日まで、津田や彼女を除くと、触らぬ陰キャに祟りなしとばかりにクラスメート危うきに近寄らず状態だった。


「なんだか、緊張するね……」

「うん、ドキドキする」


 それはもちろん、初カノジョができての初会話ということもある。期間限定とはいえ、僕たちは清いお付き合いの一歩を踏み出したのだ。

 しかし、僕の心臓が高鳴る理由はほかにもあった。


「おい、嘘だろ」

「キイィィッ! 鈴穣さんと自然に会話してやがるッ!」

「あの噂は、まさか本当……」


 教室がざわついている。なんだかモブっぽい会話がところどころで繰り広げられていた。

 鈴穣さんはその様子に気付かないようで、昨日の祝日をどう過ごしていたのか尋ねてきた。僕は津田との一日を無視してなにもしてなかったよと答えた。


「オイオイオイ」

「死ぬわアイツ」

「ほう高嶺の花と楽しくおしゃべりですか……。大したものですね」


 僕たちへの視線は次第に熱を帯びていく。あまり気にしてこなかったが、この教室には様々な類のクラスメートがいたらしい。

 その中から、鈴穣さんの友人らしきひとりが意を決して近付いてきた。


「ねえハルカ。日曜、この人と一緒にいるところを見かけたんだけど……」


 学校の人に見つかりませんように、と僕が余計なフラグを立てたばっかりに、案の定見られていたらしい。通信の発達した狭い学校社会において、不穏な噂はリレーランナーのごとく駆け巡る。どうりで登校途中から嫌な視線をぶつけられるわけだ。


 この人と呼ばれた僕はチラリと鈴穣さんを見る。さとい優等生にわざわざ助言はいらない。僕たちの関係をどう扱うかは鈴穣さんに一任しているものの、バレれば学校中からイジメや私刑リンチの憂き目に遭う僕の立場をおもんぱかってくれるはず。


 そこで教室の妙な空気感を感じとったのか、鈴穣さんは立ち上がると、教室の全員に向けて発表するような態度をとる。たしかに、言い訳するなら一気に済ませた方がいい。図書館をデートコースに据えて、しっかりと理論武装しているので問題はないのだ。

 鈴穣さんは一呼吸おいて、


「ここにいる愬等くんと、付き合っています」

「鈴穣さんっ!?」


 どかんっと爆発みたいな反応と共に、教室がガヤガヤざわざわとした喧騒に包まれる。僕すら予想だにしない告白に、カノジョの友人が中途半端な笑顔を引き攣らせた。


「ま、マジ? 冗談だよね?」

「マジです。私たち、付き合ってます。愬等くんの内向的でクラスに馴染めない様子とか、そもそも教室にいた? みたいな印象とか、いつも寝てばかりの変わった部分を含めて、私が一方的に好きになりました」


 反駁はんばくの余地を丁寧に潰しながら、凛と背筋を伸ばして、鈴穣さんは僕らの関係を暴露した。


「キイィィッ! キイィッ!」

「クソッ! ヤツはどんな黒魔術を編み出したんだ!」

「素直清楚いいね、素直に推せる」

「あの冴えない男を許容できる包容力。バブみを感じる……っ」


 聖徳太子のごとく聴き分けたところ、鈴穣さんは一部男子の間でニッチな人気を得たらしい。

 しかし、大勢は敵視の向きが強い。ただでさえ微妙な立場の僕。今度の規模は学年、いや学校中の男子、また崇拝する一部女子を敵に回して、場合によっては度重なる拷問の末にすべての爪を剥がされ四肢を裂かれて火炙りに遭うかもしれない。どうしよう、勝手な被害妄想が止まらない……。


 そこを見通しての鈴穣さんの第三声は、


「愬等くんに危害を加える人は私が容赦しません。報復できないよう徹底的に叩きのめします。拳で」


 空手帯持ちの握りこぶしを掲げる。僕の懸念に対してとんでもない解決策を提示した。


「えっ、愬等が鈴穣さんと……?」

「ぼくたちの憧れ……高嶺に咲く一輪の可憐な花が……」

「くぅぅ、ヤンデレ要素まで持ってやがるのかよ……っ」

「陰キャに優しい清楚は存在した! 彼女は女神だっ!」


 津田とモブっぽい声に紛れて、一部男子に神格化までされたよう。

 賑やかな教室を見渡してまるで学園ラブコメだなぁと傍観したいが、残念ながら当事者。さっきから冷や汗がだくだくと流れてミイラ化の一歩手前まできている。違う世界線に紛れ込んだとかじゃないよね。助けてグリモン。


 そこかしこで狂乱の盛り上がりを見せる教室。だが、その空気に水を差したのは、


「それで、今日別れるんだよな?」


 シン——と教室が静まり返る。

 いつの間にか鈴穣さんの前に歩み出た女の子に、クラス中の視線が集まった。たぶん僕だけ、二、三度まばたきを入れて目を擦った。


行方ユキカタと付き合うってやつ。期間限定だろ? それ、今日までだから」

「……ユヅキ?」


 いくら姿が変貌しようと一緒に暮らす家族を見間違えたりしない。どちらかといえば家での彼女に寄せていて、それでもなお目を見張る大変身を遂げている。

 しかし大多数の知る学校でのユヅキとは、思わず感嘆の声が漏れるほどまったくの別人だった。

 いつもはお団子に括った髪をバッと下ろし、その髪色は明るいブラウンに染められている。コンタクトを入れたのか普段学校で見せる目つきと違い、メガネを掛けたときのようにパッチリと見開かれており。

 綺麗に並んだ歯を見せて、薄くメイクを施したアフター姿のユヅキ——主力に引けをとらない美少女は、ニッと笑う。


「コイツ、うちの婚約者だし」


 たしかに約束したけど、それは小さい頃の話で。と伝える前に。再びヒートアップしたクラスメートたちのどよめき、どっかんどっかんとウーハーの弾けた大騒ぎが教室に響き渡った。


「ええっ! あれが、瀬那セナさん?」

「え、ユヅキ? うそ?」

「ボクは見抜いてた。彼女がダイヤの原石だってことを」

「愬等との親しげな様子、婚約者という発言。すでにただならぬ関係が予想されますね」


 外野モブとユヅキの友人と考察厨が舞って乱れて、もはやお祭り騒ぎ。僕の心臓と相成って太鼓のリズムすら聴こえてきそう。

 一度着いた火を絶やすなとばかりに、音頭取りのユヅキは遠慮なく薪をべる。


「鈴穣さんさぁ、行方のどこが好きなわけ?」

「全部だよ」


 ピシャリとした剣呑けんのんな口調の返しに、隣に立つ鈴穣さんを見る。スンと真剣な表情は、展望ビルでシャドウと対峙したときと同じ、研ぎ澄まされた目をしている。

 一方で、変貌を遂げたユヅキも負けていない。


「ふぅん。全部ねぇ。じゃあコイツのちんこも見たことあんの?」

「なに言い出すんだ?」


 飛びかけた意識を抑えるのに必死な僕も思わずくちばしを挟む。だが、ユヅキは相対する鈴穣さんから目線を外さない。お互いにバチバチと視線をぶつけ合っている。当事者なのにすっかり蚊帳の外に置かれた僕だった。


「ないよ。まだね」

「へぇ、そう。うちは、コイツの背中のホクロからケツの穴まで見たことあんの。ちなみに……」


 これ、とユヅキは親指と人差し指を広げる。


「通常時はこのくらい」

「ユヅキおまえマジでなに言っちゃってんのっ!?」


 咄嗟に立ち上がってその手を掴む。こいつ鬼か。なんで身体測定でも記録しない箇所をクラス中に晒されなきゃいけない。露骨なマウントでももっと考えて発言してくれ。くしくも視界の隅にハァハァしてるドMの津田が映ったので目線を移動パンした。


「ユヅキ。ちょっと落ち着こう、ね?」

「愬等くんは口を出さないで」

「え、あれ鈴穣さんも……?」


 クラスが息を呑んで見守る中、僕を放置して決闘デュエルは目まぐるしく変化する。今度は鈴穣さんのターン。


「一日中デートして、私はいっぱい愬等くんのカッコいいところを見てきたよ。きっと、瀬那さんの知らないステキな一面を知ってる」

「デ……っ、うちは行方の全裸を見て、アイツあんな一面あるんだなってのを知ってる」

「キイィイィイッ!」


 すぐにユヅキ。一面のニュアンスが違う。戦いのベクトルが違いすぎて会話が噛み合っていない。思考もなにもかもが追いつかず、僕が奇声を発してしっかりと狼狽している間にも二人は駆け引きを続けていた。


「期間限定なんて日和ひよった女に、行方はやれないね」

「べつにそれは、理由があるし……。でも瀬那さんも、今頃になって出てくるなんておかしいよね?」


 家庭の事情だったり僕たっての希望とかいろいろあるのだけど、意外とレスバトル強者な鈴穣さんはしっかりと突くべきところ突いていく。

 ユヅキはその言葉を待ってたかのようにフンと鼻を鳴らした。


「ハンデってやつ。うちはもう遠慮する気ないから」


 そこでユヅキは僕を見ると、


「うちのこと、家族だって思ってるよな?」


 いきなりこちらに振られる。さっきからえっえっとしか声の出ない僕だったが、そう問われて咄嗟に出る返事は、


「お、思ってる」

「ほらな?」

「でもそれは一緒に住んでる——」


「一緒に、住んでるぅぅッッ!?」


 ついポロッと溢した一言で、クラスを巻き込んでの大リアクションを引き出してしまう。その勢いで僕の意識はスッと身体を離れた。


「これがハンデの理由。同棲してるアドバンテージあるし」

「そんな……っ」


 ユヅキと鈴穣さんの公開討論を少し離れた場所で見る。のめり込んで拝聴するとこの微かな意識すら消え去りそう。

 宙に漂ったままこうして俯瞰ふかんで教室を眺めると、今まで無視していたクラスメートの存在が浮き彫りになる。僕からしたらモブで、あっちにしてもそうだっただろうけど、彼ら彼女らも一人ひとりがそこにいて確かな個性を発揮している。その声や姿を収める僕の視野も、この数ヶ月で一気に広がったものだ。でも、早く戻りたい。戻りたくないけど、このまま天に召されるのは勘弁してほしい。


「なになに? うたげ?」


 最高潮にボルテージのブチ上がった教室に、遅れて現れたのはパリピ代表の志々芽シシメさん。麦わらの船長みたいなノリで教室へと登場した。陽の引力に導かれて、僕の意識も干からびかけの身体へとただいましていく。

 鈴穣さんやクラスメートたちはつい志々芽さんに気を取られるものの——

 ユヅキだけが、意識の戻った僕を見つめていた。


「死ぬほど愛してるよ行方。うちはすでに覚悟できたから、あんたも覚悟しろよ?」


 ユヅキが本気の目で宣告する。僕たちの間にある縮まらない関係は、もはや彼女にとって意味を成さない。小さな頃からよく知るユヅキ。らしくないキャラを演じてまで、いろいろな理屈を吹っ飛ばすに充分な本音を吐き出されて、それを一刀両断できる刃を僕は持ち合わせていなかった。


「マジ? ハルカとユクエ付き合って……瀬那さんが婚約者ぁ? え、なになに。恋のライバルって感じじゃん。アオハルーっ!」


 ギャルのコミュ力と察知力で、一瞬のうちに状況を聞き出して把握した志々芽さんが割って入る。ユヅキだけはそれを無視して、さっさと背を向けて最前列の自分の席へと戻っていった。予期したように担任の田中がチャイムと共に到来し、ひとまずの収拾は無理やりなかたちで決着した。

 一学期とはほぼ左右反転の座席。田中に急かされるように、僕の左手に志々芽さんが着く。その顔はなぜか微妙な表情をして見えた。


「どうしたの、志々芽さん」

「いや、なんでも。あれ、いつもどーりだよ?」

「そこ、チャイムなったんだからしゃべんなー。停学に処すぞ?」


 田中によって追及は遮られる。その間に志々芽さんは顔を伏せて、授業をサボるポーズを決め込んだ。


 無言のまま隣に座る鈴穣さん、ユヅキの後ろ姿を眺めて、僕は新しい景色を受け入れるしかなかった。環境は大きく変化した。平穏や陰キャなどと言い訳するのは、もはや逃げ道を探す卑怯者の行為でしかない。

 この景色が登り坂なのか、下り坂なのか、それともまさかなのかはわからない。グリモンがかき混ぜていったのは、僕の願いを叶える意図があってのこと。なにがあっても、僕はこの道を進んでいかないといけない。


 ただ、過去に類を見ない修羅場の渦中で、僕はすっかりと見過ごしていた。

 志々芽さんとの間にできている、その微妙な距離感を。

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