第16話 本当に行きたかった場所

 もしも鈴穣スズシゲさんが自分のダブルとも言える人型の影に出遭ったとしたら——


 可能なら会わないに越したことはない。だがそれは喫茶店にふらりと現れたときのように、あの影の気まぐれに左右されるだろう。風来坊のシャドウとか嫌すぎる。

 次元を超えた存在を知る今、僕に明示されたヒントはないように思う。ただ、不穏な予感が的中しないのを祈るだけだ。


 僕の心配をよそに。

 夏の出来事から連想して、鈴穣さんは夏休みの思い出を回顧かいこしているようだった。


「本当に楽しい思い出がいっぱい。今年の夏ほどたくさん遊んだことなかったなぁ」

「意外だね。もっとキラキラした青春を享楽きょうらくしてきたものかと」

「それが愬等サクラくんにとっての私のイメージ? 中学までの私は青春なんてほど遠いよ。ほとんどの時間を、部活の空手にせいを出してたくらい」

「帯持ち格闘技はそれだったんだね。空手だけに、セイッ! って感じ?」

「え? う、うん」


 スベった感じになる。というかスベりまくった。この空気どうしようみたいな目をさせるつもりはなかったのに。

 つまらないダジャレをこぼしてびしょ濡れのトークを拭き取るため、僕はこの夏で唯一彼女と関わった話題へとシフトさせる。


「リゾートバイトに応募したきっかけは、やっぱり志々芽シシメさん?」

「うん。スマホでオモシロそうな求人が載ってたから一緒に行こう、って」


 おそらく同じ広告を見たのだろう。志々芽さんからシェアされたインスタのおもしろ動画がきっかけで見つけた求人。彼女が同じものを発見していたとしても不思議ではない。偶然とは必然の上に成り立っているのだとつくづく実感する。


「一週間近くも家を離れて、ご両親は反対しなかったの? またイメージで語って申し訳ないけど、鈴穣さんの家庭は外泊とか厳しそう」

「これも社会経験だ、って前向きに捉えてたよ。近場じゃないから学校にバレるリスクもないなって」

「へぇ、進歩的なご両親だね。僕なら可愛いむすめを外にやる勇気ないなぁ」

「かっ、可愛い!? ……あ、そっか。親にとって子どもはそうだよね。うちはそれほど過保護じゃなくて、可愛い子には旅をさせよ……いや可愛いなんてっ。せ、千尋せんじんの谷にドンと突き落とす家庭だからっ!」


 鈴穣さんが焦って取り繕う。獅子も我が子を落とすときはできるだけ優しく転がすはず。

 そのままの意味で言ったつもりだけど、志々芽さんがナルシストとしょうす割には案外自己評価が低いのかな。万人が見て万人が可愛いの太鼓判を押す鈴穣さんに浜辺近くのリゾバを許可するのは、スラム街へお遣いを頼むくらい危険な挑戦と思うのだけど。


「でも社会経験の一環にしては、随分と遊んじゃったね」

「海水浴もだけど、花火が楽しかったなぁ。まさに青春って感じがして」


 リゾートバイト最終日、旅館の気遣いで手持ち花火に興じた夜に鈴穣さんが触れる。ドラマでしか見ないことをまさか僕が体験するとは。手持ち花火だけでけっこうはしゃいだなぁと、逆転したLOVEの綴りスペルを志々芽さんが間違えずにえがいたシーンをハイライトとして思い出す。


「ビーチに寝転がって、流星群にみんなでお願い事して」

「それ僕いなかったかも」

「そうだったっけ。ご、ごめんね」


 鈴穣さんはまたしても慌てるが、リア充らしい青春の一コマに僕がいなくて安心する。トイレにかこつけて離脱したときだろうか。想像するだけで恐ろしいイベントが開催されていたらしい。この夏のリア充ムーブは、アラバスタ編のフィナーレのやつとか五人の指でつくるスター型の写真を撮っただけで満腹。撮影者の立場でご馳走さま。


 カロリー高めなイベントの思い出を缶コーヒーで流し込みつつ、白いワンピースで天使みたいな鈴穣さんを眺める。

 柔和で整ったルックスと穏やかな美声に、清楚をあしらった芸術品。その上、温厚篤実おんこうとくじつな性格は、クラスの男子たちが褒め称えるを通り越して崇拝するだけある。

 普段の教室でこれほど彼女と会話する機会はなかった。しかし話してみると、完全無欠な全体像だけでなく、意外と天然な部分やおちゃめな一面も見え隠れしている。志々芽さんを印象で誤解していたのと同じように、目の前の鈴穣さんも普通の高校生、才色兼備なだけの女の子で。

 高嶺の花のレッテルを貼って、遥か遠い存在に仕立て上げていた自分が恥ずかしくなる。


「鈴穣さんが清楚風パリピじゃないと知れてよかったよ」

「愬等くんはけっこう私を誤解してるのかもね」


 少しずつほどいていけたらいいな、と鈴穣さんは照れたように指を合わせる。

 話すほどギャップの見つかる彼女を、僕も不思議ともっと知りたい気持ちになっていた。


「そうだね。ついでに僕の誤解も解きたいんだけど、浮かれてなければあんな寒いジョーク飛ばさないから」

「えっ、ジョーク?」


 空手にセイッと精を出したのやつ。スベる以前にそもそも通じていなかったらしい。

 不要な言い訳が見事に裏目に出たが、まあそれは別にいいとして。大事なのはこっち。


「それにね。僕は倹約家でわりとドケチだけど、デートで見栄を張るくらいできる」

「えっと、それって……?」

「うん。だから、このあとは鈴穣さんの本当に行きたかったところに行こう!」


 僕の生態に合ったプランを提供してくれたことには感謝しかない。下調べの時間や、道中の気遣いもそう。

 だけど、せっかく鈴穣さんが勇気を出して誘ってくれたのに、お金を使いたくない、目立ちたくもないなんてダサい男のまま、人生初のデートを終えてなるものか。奮発してやる。目立つのもドンとこい。たとえ高級ディナーのフルコースだって皿洗いしてでも払ってみせる!


「う、うん! それなら次の行き先は、私の行きたかった場所にするね。……本当に奢らなくて大丈夫?」

「大丈夫に決まってる! でも軽々しく奢るなんて言われるとヒモになっちゃうよ!」

「ええっ!? どうしよう、やしなえる職に就けるかな……」


 いや冗談と言う前に、鈴穣さんは「同棲かぁ」と叶わない妄想を膨らませる。今はこうしてデートをできていても、鈴穣さんの進路に僕のような人物は関わってこないだろうに……。

 そう偏屈に考えてしまうのは、やっぱり特殊な生い立ちが僕を臆病にさせるからだろうか。




 図書館をあとにして、熱線の降り注ぐ中、再び歩いてセンター街へ。

 人混みの中、エレベーターが到着したのは商業ビルの最上階。去年オープンしたばかりの、街の景色を一望できるのが売りの展望デッキだった。

 三層の構造になっており、アヴァンギャルドなモニュメント、展望カフェや地元名物のお土産コーナーと、それなりに整えられてはいるものの。東京や大阪などの都会と違い、ここから一望する風景にそれほど魅力があるとは思えないのだけれど。鈴穣さんの希望を叶えるのが主目的とはいえ、果たして割高な入場料に見合うだろうか。


「ここから見える夕日がすごく綺麗らしいよ」

「なるほどね」


 自然現象が相まれば、違った付加価値がつくもの。そう聞くと、ただの展望ビルがこれだけの人だかりを生む理由がわかる。鏡みたいに反射する湖や青色に変化する洞窟だって、言ってみれば自然の影響でえスポット化した僻地へきちなのである。


「高いところから見下ろすときに、見ろ人がゴミのようだ。ってつい言いそうになるのは、もう遺伝子にジブリが浸透してるのかな」

「言いそうになるかな?」

「鈴穣さんの遺伝子は抵抗力が強いんだね」

「遺伝子ってそういうものじゃない気がするけど……」


 ただし、その夕暮れにはまだしばらく時間がある。フロアを歩いて住み慣れた街の地味な屋根群を眺めつつ、中都市の生んだ1000年に二人目の美少女としばしの歓談と楽しんでいると。


「ひゃんっ!?」

「えっ、なにっ?」


 突如として、けたたましいアラームが鳴り響く。

 胸騒ぎをかき立てるその甲高い音は事態の緊急性を予感させる。来場者たちはにわかにざわつき、その後に続くアナウンスで、次第に混乱の狂騒へと変貌していった。


『テロ組織が侵入しました。係員の誘導に従って、速やかに避難してください——』


 テロ!? ここは米花町べいかちょうかよ。それともダイ・ハードなニューヨーク市警が観光客にでも混じってんのか。


 地上32階の密室。唯一の脱出ルートであるエレベーターに向けて、四方から疑念と焦燥をともなった人波が押し寄せはじめる。誘導の係員は一体どこにいる。いや、係員だってテロリズムの最中さなかで職務を全うするほど給料をもらっていないはず。責めるのはよくない。


「愬等くん、さっき女の子みたいな声でびっくりしてたね」

「シッ! 今はシリアスな状況だから」


 僕は人差し指を立てて鈴穣さんを制する。ノミの心臓を前にもユヅキにツッコまれたな。むしろ動揺してない鈴穣さんの肝が据わりすぎな気がする。


 しかしこの平和で令和な時代に、地方都市でいきなりテロが起きるなんてだれに想像できるだろう。普通に考えて避難訓練の誤放送とか。……まさか人型の影シャドウの影響で、脅威が現実へと波及した? 現実世界を彷徨うろつくヤツがいるのだから、その可能性を軽んじて否定できない。つい先日、巨大なシャドウがこの一帯をぶち壊して暴れるのを見たばかりなだけに、妙な納得感がある。


 三層構造のうち、階下に繋がるエレベーターは一箇所。もしテロ組織が占拠するなら当然押さえにくるはず。シャドウの仕業ならその行動パターンを読むのは難しいが、いずれにせよここにとどまるのは最善と思えない。非常階段とかないのだろうか。フロアを見渡すも見栄え重視の入り組んだ構造のせいかすぐに見当たらない。


「愬等くん、大丈夫だよ」


 僕の焦りを見てとったか、鈴穣さんがバッグから紙を取り出す。


「場内のマップを印刷してきたの」

「リスクマネジメント能力!」


 普段からテスト対策の万全な鈴穣さんは、流石の先読みぶりをここでも発揮。あのメモみたくデートプランに関わるすべてを準備万端に整えてきたらしい。脱出ルートを背中に彫ってきたとか言い出さなくてよかった。


 冷静を取り繕うも、逼迫ひっぱくした状況には変わりなく。襲いくる人混みに押されて、鈴穣さんが少しずつ流されていく。せっかくの脱出マップも彼女の手からひらりと飛んでいってしまった。

 放置された荷物に足をとられてころげながらも、エスカレーター側に流される鈴穣さんをなんとか引っ張り上げて。そのまま、かばうように彼女に覆い被さり、無秩序な圧力にひたすら耐える時間が過ぎる。


 混乱の合図がスピーカーなら、その収束も放送からだった。


『ご退場の皆さまにお伝え申し上げます。先ほどのアナウンスは誤った放送です。ご迷惑をおかけして、誠に申し訳ございません。繰り返します、先ほどの——』


 ところどころで悪態や罵声が飛び交うものの、大した怪我人もいないらしく全体として安堵した空気が漂う。アナウンスを傾聴したところ、どうやら避難訓練用の録音が誤って流れてしまったらしい。ここは犯罪都市じゃないのだから、そりゃ最初に思い当たったけども。


「誤報でよかったね」

「管理者の引責は堅いだろうなぁ」

「寛大な処遇であってほしいね」


 次第に落ち着きを取り戻したデッキのベンチに、僕たちはようやく腰を下ろす。

 別世界パラレルワールドで火事現場から逃げたり、トラックが飛んできたりと散々な目に遭ってきたおかげか、こうした日頃の警戒を思い出す体験はあながち悪くない。大概の避難訓練は事前告知されるので、結果としていつもより臨場感のあるシミュレーションになった。近年は様々な施設でテロ対応訓練しているとテレビ報道で聞いた覚えがあるし、百年後の未来を想像する以前に、日本の治安をうれうことがありそう。


「さっ、愬等くん! それ……っ」

「ん?」


 鈴穣さんがおっとり目を見開く。その視線の先は僕のひざで、グレーの薄いチノパンにじんわりと血がにじんでいた。


「さっきコケたときかな」

「……私を、助けようとして?」

「痛みもないし平気だよ。鈴穣さんが傷モノになるくらいなら、身代わりになれて光栄というか。いつか孫に自慢できるしね」


 鈴穣さんはバッグから絆創膏を取り出して、僕の傷口に処置を施す。勲章が貼られたおかげで、ただの擦り傷が名誉の負傷に様変わりした。


「一生がしません」

「ダメだよ。家に帰ったら、ちゃんと清潔なものに取り替えてね?」


 アイドルに握手してもらったファンみたいな発言はすぐにとがめられる。そんな真面目に応えなくても、と思うがそれだけ心配してくれたらしい。

 人生で初めてのデートというのに、とんでもないトラブルに見舞われてしまった。僕の人生はが多すぎる気がしないか。そういう星の下に生まれたのだろうか。

 ホッとして油断したのか、忘れられない初デートになったとついこぼしてしまう。それを聞いて、鈴穣さんは微笑むと、


「うん、絶対に忘れられない思い出。……実は私も、初めてのデートだったし」

「えっ」

「ほ、ホントだよ? デートとか青春なんて、本当にまったく縁がなくてっ」

「いやっ、そうじゃなくて!」


 嘘だろ……?

 なんでここにいるんだよ。


 鈴穣さんの肩越し、少し離れたデッキ通路にを見つける。

 全身真っ黒であきらかに異質な存在。フロアの雑踏で不自然に立ちつくし、しかしすれ違うだれもが気に留めない。

 夏休み終盤に喫茶店を訪れ、あの日の別世界パラレルワールドで僕をトラックから身をていして守った。

 隣に座る、彼女そっくりの——


「————っ!!」

「ど、どうしたの?」


 僕が急に立ち上がると、その不審な挙動に鈴穣さんも驚く。彼女の驚いた表情は、今日のデートで何度か見た顔だった。

 しかし。フロアに佇む目の前のは、一度だって見たことがない。


 こちらを睨みつけた表情に宿るのは、今までとまったく違う、き出しの敵意。

 鈴穣さんと瓜二つの顔をした人型の影シャドウは、その美貌をゆがめていた。


「なんで……っ」


 こんな人混みの中でも現れるのかよ。草むらとか洞窟、喫茶店や別世界パラレルワールド以外でエンカウントとか聞いてない。目が合ったら近付いてきて強制バトルか!?


 一触即発の状況で、僕は動くに動けぬジレンマと人知れず闘っていた。不幸中の幸いはだれにも見えていないこと。不幸中の不幸は、僕にしか見えておらず、ヘタに動けばどう見ても不審者となってしまうことだ。

 しかも今は、僕ひとりじゃない。シャドウのオリジン——鈴穣さんと一緒にいる。

 ドッペルゲンガーとの遭遇に、最悪の展開シナリオが浮かぶ。せめて鈴穣さんだけでも逃さなければ。不自然にならないよう冷静に、可及的かきゅうてき速やかに!


「えっ? 黒焦げの、人……?」


 周りのだれにも見えないはずのシャドウ。僕以外でそれを認識できる人がいるわけない、のに。


「違う、人じゃない……影? 愬等くんにも見えるの?」

「……鈴穣さん、も?」

「う、うん。……なに、あの黒い——」


 鈴穣さんの言葉に反応するように、それとも最初はじめからそのつもりだったのか。

 フロアのシャドウは、にわかに直立の姿勢を崩す。身をかがめるその構えは、今にも飛びかかろうと準備する野生動物のようで。


「鈴穣さん下がって……いやっ、逃げて!」


 事態に追いつけずぼんやりと座る鈴穣さんの前へと、僕は一歩二歩と進み出る。飛んでくるトラックを止めるほど強大な腕力のシャドウに立ちはだかったところで、きっと路傍ろぼうの石くらい役に立たないだろう。ヤツの一撃で木っ端微塵に消し飛ばされるかもしれない。だけど一分一秒でも、彼女の逃げる時間をなんとか稼ぎ出さないと!


 視線の先で、タンッ。とシャドウが跳ねた。夜の屋上で見たシャドウと違い、アスリートのように二足を駆けてグンとその距離を詰めてくる。

 そして瞬く間に僕の前へと——


「クソッかかってこっ、怖ぇええええっ……っえ!?」


 刹那、視界が揺れる。肩の感触に、横から強い力ではじき飛ばされたのだと気付く、と同時に——

 パァンッ! と衝突音。

 迫りくる黒い影と、白のワンピース姿のコントラストが目の前で交錯した。


「…………!」

「くっ……!」


 僕を弾いた鈴穣さんが、鏡写しと拳を交えて顔をしかめる。

 腕力は黒い方が上回ったらしく。白い方は受け流すように身体を捻ると、反動を使って即座に蹴りを突き上げた。


「セイッッ!!」

「…………!!」


 シャドウは真っ黒な身体をの字に曲げて吹っ飛ぶ。が、空中でバランスを取り戻すと、片手で支えるようにズザザッと正対を維持しながらフロアに着地した。そのまま何事もなかったようにすっくと立ち上がる姿は、未来からタイムリープしてきた暗殺マシーンを彷彿とさせる。

 目の前で起こる、まるで格闘マンガみたいなバトル光景に、


「え、どういう状況?」

「逃げて愬等くん!」


 いつの間にか立場が逆転していた。弾かれた先の手すりで身体を支える僕の呟きに、鈴穣さんが勇ましく声を立てる。彼女はすでに平静を取り戻し、次の衝突に向けた構えを毅然ととっていた。

 その真剣な視線は、デートをぶち壊したテロリストを真っ直ぐ捉え、


「…………!」

ァっ!!」


 再度飛びかかるシャドウを正面から迎え撃った。腰を落として伸びる切れ味鋭い正拳突きに、教室でぶったときの彼女はだいぶ手加減してくれたのだと理解する。

 交錯する同じ顔、同じ体躯、色違いカラバリの二人。がむしゃらに襲いくるパワー特化のシャドウに対し、鈴穣さんは技術を駆使して柔軟に応戦する。

 タン、タン、タンタンタンと、リズムよくぶつかり合うその一挙手一投足は、まるで洗練された演舞を見せられているよう。もしくはプロ格闘ゲーマーによる複雑なコマンド入力。ミラーバトルかよ。


ッ!」

「…………!」


 互角に繰り広げられた格闘は、鈴穣さんの回し蹴りによって再び距離をとるかたちになる。その緊迫した空気にまるで別の世界観に紛れ込んだ錯覚を起こすも、ふとももをつねろうと現実の光景は変わらない。

 とりあえず邪魔にならないよう、すみっこで無言の解説者になる決意をした。


「…………」


 これだけやり合うとシャドウは流石に警戒を強めたようで、次の出方を慎重に窺う態勢をとるように見えた。


ッ」


 一方で鈴穣さんも、内股で両拳を左右に開き、空手道に古くから伝わる、守りの型——呼吸のコントロールによって完成されるこの型は、完全になされた時にはあらゆる打撃に耐えると言われる、三戦サンチンの構えをとった。こうして解説が流暢に出てくるということは義姉ユヅキのマンガで載ってたに違いない。息抜きの読書もほどほどにしておこう。

 鈴穣さんの構えが本当に三戦なのかわからないが、そのよどみない動きは一朝一夕に身につくものじゃない。帯持ちとは聞いていたけど素人の僕でも長い研鑽けんさんが見てとれた。どうりで親御さんがリゾバを許すわけだ。自衛力が高すぎる。


 しかし、これだけの大立ち回りを見せられて、観覧者もきっとざわついているに違いない。僕からは二人の極限バトルだが、一般人にはワンピース美女の織りなすアクション激しめな一人芝居である。……いや、待て。だれかパンチラの期待できるポジションに陣取っていたりしないか!? そんなの僕が許さない!

 と、周囲を見渡すも。

 混み合っていたはずの展望フロアには人っ子ひとり見当たらず。いつの間にか、喧騒も雑踏も煙のように消え去っていた。

 フロア一面の窓ガラスから見える広い空が暗澹あんたんにごっており、僕はそこで別世界パラレルワールドへと入り込んでいたことに気付く。

 となると部外者は排除され、この隔離空間には僕とシャドウしか残らない、と思っていたのに。


 ……どうしているの、鈴穣さん?

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