第11話 珍客

 ようやくと言っていい夏休みが始まった。


 終業までのわずかな期間。息を潜めて日々を過ごし、悠久にも感じられるときを経て開放される。教室での身の置き場のない空気は、針のむしろとはこのことかとあらためて語源を調べるに至った。剣山の敷物って拷問器具かよ。

 目立たず生きようと努めてきたはずが、一度の過ちで見事に悪目立ちである。厄介なトラブルを避けるクラスの風潮から、上靴やイスに画鋲がびょうが撒かれはしないものの、隣の志々芽シシメさんや鈴穣スズシゲさんから声を掛けられる度にビクリと体が跳ねる始末だった。


 しかし、僕にはマインドセットの特技がある。前向きに物事を考えるポジティブシンキング。先入観を捨ててフラットに物事を受け入れるオープンマインド。瞬発的に怒らず六秒を数えるアンガーマネジメント。どんなに嫌なことがあっても長期的な視野で俯瞰ふかんすれば、あゝ僕の悩みはこんなにもちっぽけなものかと———


「なんかグッタリしてるね」

「……店主マスター。いや、もうすぐ学校が始まることを思い出しまして」


 八月も終盤。長いはずの夏休みは、かくも短く終焉しゅうえんを告げようとしていた。

 例年と違っていろいろあった夏だったが、こうして場面カットされているということは番外の短編でまとめられるくらい本編に影響のない出来事なのだろう。自分で言ってて意味不明である。


「おや、珍しい」

「すみません、態度に出してしまって……」

「そうじゃなくて、行方ユキカタくんは学校の話を滅多にしないからね。まあ、ボクも学生の頃は、休みの終わりが近づくにつれ憂鬱になったものだよ」

「それが、夏休み前から尾を引いているんです」


 僕のぼやきを聞いた実年じつねん後半の店主は、気遣う視線をこちらに向けた。冷房の効いた店内とはいえ、フォーマルなイートンコートを着こなしピチッと蝶ネクタイを巻くところに矜持プライドが見える。とてもダンディーだ。


「たしかにときどき、憂いを帯びたため息をついてたよねぇ。疲れているなら、今日くらいは早く上がる?」

「いえっ! むしろ朝まで働かせてください!」

「ご存じと思うけど、うちは遅くても19時には閉まるんだ。まあ、よかったら余りのケーキはいくらでも持ち帰っていいよ」

「あ、ありがとうございます! ……問おう。あなたが僕のマスターか」

「は? そうだよ。とりあえず、珈琲をお客さんのところに運んでくれるかい」


 口髭もダンディーな店主は、コトンと小さな音を鳴らしてカップを置く。カウンター越しにれたてを受け取り、新聞を広げる常連のテーブルへと丁寧に移した。この動作も慣れたもので、むしろ洗練されてきたと密かに自負している。


 大通りを外れた細道にある、個人経営のおもむきある喫茶店。幼少期から本当の両親と通っていた縁もあり、高校生になったタイミングでアルバイトに勤めさせていただいている。この夏も都合の許すかぎり通い詰めていた。


「どうも、行方くん」

「おっちゃん、あれから奥さまの様子はどう?」

「ああ。仮想通貨の損失を補填ほてんするまでは、口聞いてくれないねぇ」

「景気の悪い話だ……」


 年配の常連はすっかり顔見知りで、新規のお客も見事に中年や老人。その微かな加齢臭もかんばしい珈琲の香りが打ち消しており、騒がしい学校と違い、蝶々ちょうちょが迷い込んできそうなくらい実に落ち着いている。ちなみに常連たちは、男はおっちゃん、女性はおねえさんと呼ぶとウケが良い。できるだけ統一して呼ぶようにしていた。


 常連のおっちゃんはカップをすすり、なにを思ったか進路について尋ねてくる。


「マスターもそろそろいい年だし、卒業したあと、行方くんが継いだらどうだ?」

「勝手に失礼なことを言わないでください。マスターはまだまだ現役ですよ」

「まあまあ。この店が長く続いてくれないと、居場所がなくて困るんだ。家庭は針のむしろでよぉ」

「出た、拷問器具」


 喫茶店を継ぐ。その選択肢を考えないこともなかった。店主はバリスタの腕もたしかで、この道を進むなら最適な師匠だろう。こだわりの調度品に、こじんまりしつつも格式高そうな店内の雰囲気はマーベラス。本来の居場所はここでは、と思うくらい居心地がいい。


「マスターは尊敬してるけど、小規模飲食は利益率が低いので」

「最近の子はシビアだな……」


 残念ながら時給が安く勤務時間も短い。大学をどこにするか考える以前に、高校卒業と同時に辞めることは固く心に決めていた。ドライな僕だった。マスターも寂しそうにこちらを見つめていた。その視線は胸が痛い。


 店内が常連たちで埋まると、とくに注文を取る必要もなくなり、いつものように暇な時間が訪れる。僕は勝手にこの余暇を、薄給職場における福利厚生代わりの有給休暇と見なしている。マスターの淹れてくれた珈琲を片手に、ブログの案を練ったり、将来おこしたい事業なんかに胸をせたりするのである。


 思い返してみると、夏の間、志々芽さんと勉強することはなかった。せいぜい序盤に宿題の残りを僕ひとりで片付けたくらい。夏休みの志々芽さんは多忙を極めており、遊びに遊び、祭りに花火に海水浴にリゾバと、勉強に割く余剰よじょうは一ミリもなさそうだった。まさかリゾートバイトの勤め先が被るとは思わなかったが。女子高生があんな水着を着てしまっていいものかね。

 まあ、高校生にとって一年目の夏休みはそのくらい自由でいいのだ。中学の頃に比べて行動範囲が広がり、受験のしがらみもない。同じような自由を次に満喫できるのは、進路が決まって卒業までの待機期間くらいだろう。

 友達がたくさんいるのだし、僕も勤労を謳歌おうかできるので、それでいいのだが。


 グリモンもすっかり息を潜めて、平和な夏休み。むしろそれが違和感に思うのは、人生に平坦な道が突然とひらかれてしまったからなのかも。


「あ、はーい。いらっしゃいませー」


 カランコロン。入り口のドアベルが鳴る。

 何名さまでしょうか。と声を掛けようと振り向く、が。


「なん、……で」


 しかし店に入ってきたのは、頭のてっぺんからつま先に至るまで、全身真っ黒の人——

 人型の影だった。


「お、なんだ。突風でも吹いたか?」

「台風の予報はなかったけどねぇ」


 そんじょそこらの強風ではビクともしない、反動のある木製扉。常連のおっちゃんやマスターは、ひとりでに開く入り口に首を傾げている。その不可解な現象の原因が見えているのは、どうやら僕だけらしい。


 カラン、と小さな余韻を残してゆっくり閉まる扉の前で、その影は直立不動のまま立っている。マスターたちの反応を見ても、ここは紛れもない現実世界。別世界パラレルワールドじゃないとしたら、この状況は一体なんだ。

 その姿をしっかりと認めながら、僕は動くことができない。独りだけ他人と違うモノを見て場を乱さないよう空気を読んだのか、それとも以前の恐怖を思い出して足がすくんでいるのか。どちらも理由としてあったが、それ以上に気になったのは、その表情——


 茫然ぼうぜんたたずんでいた人型の影が、おもむろに歩み出す。そのまま、僕の隣をスッと静かに横切って、空席のカウンターに腰を下ろした。ギッと椅子の軋む音が鳴る。


「行方くーん、ケーキはどれが余ってる? ひとつ注文したいんだけど」

「ケーキはもう売り切れですよ、おっちゃん」

「紅茶シフォンもタルトも余ってるよ……」


 マスターが悲しそうに口を挟む。どちらも持ち帰りたくて嘘をついた僕である。


「…………」


 影は彫刻のように微動だにせず、じっとカウンターと向かい合っている。座敷童ざしきわらしというか、カオナシというか。なんとも不気味ではあるものの、そこに敵意は感じられない。


「おっちゃんの糖質制限に協力しただけです。だって、長生きしてほしいからっ」

「行方くん……!」

「頼むから売上に貢献してよぉ」


 喫茶店はなごやかな雰囲気のまま。閉店時間が近付いて、今日のバイトも区切りとなる。

 いつの間にやら。目を離した隙に、人型の影は音もなく消えていた。

 僕は紅茶シフォンとタルトを片手に、釈然としない気持ちで帰途につくのだった。

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