第9話 お風呂パート

 頭上から降り注ぐシャワーが、長い一日で疲れ切った身体の汚れを落としていく。


 志々芽ルビを入力…さんの宿題をあらかた終えて、気付けば随分と遅い時間になっていた。努力に見合った報酬がなければ、もちろん残業代もつかない。しかしこの贖罪しょくざいのおかげで、帰る頃には志々芽さんの機嫌はすこぶる良くなった。上機嫌だった。


 瀬那せな家のバスタブは足の伸ばせる快適な広さに加え、保温・追いだき機能を完備している。ひと通り体を洗うと、最後風呂を堪能するため、温泉の素で白濁色に染まる湯船へ浸かった。


「ふぃー……」


 溶け出す心地である。八週に渡って繰り返してそうな一日を乗り切った達成感が全身を包む。

 よく頑張ったよ、自分史上一番頑張った。自分偉い。僕最高。と、自らを褒めることでセロトニンやドーパミン、β-ベータエンドルフィンが分泌され、脳内に幸せホルモンが溢れる。こうやって自己洗脳に努めないと、教室での黒歴史的一幕のトラウマが浮かんできて死にたくなるのだ。

 いろいろなものを失ったが、十年後の未来から今の自分を客観視すれば、あんな時代もあったねときっと笑って話せる。教室で美女二人に殴られる経験なんて、普通の人にはない武勇伝じゃないか。これも人生のスパイス。ほら、いい思い出だ。


「ごぼごぼごぼごぼっ!!」


 湯船に頭から突っ込んで叫ぶ。どう考えてもスパイスの過剰摂取だ。ナツメグの致死量を軽くかっ込んでいる。

 先程シャワーを浴びながら何度も繰り返した奇行を、浴槽でも二、三度繰り返す。今のうちに発散しておかないと、ベッドの枕でやろうものなら下からユヅキに蹴り上げられる。


 それにしても、なんだか嫌な予感がする。独り言は不吉の前兆。そのうえ、男のお風呂パートがわざわざ用意されているあたり、実に怪しい。

 癒しの入浴タイムで人知れず警戒を強めていると、


『おい』

「ひゃんっ!?」


 突然、浴室ドアの向こうから声が掛かる。ぼやけたシルエットのみだが、声色で義理の姉と認識する。


「ビックリした。なんだよユヅキ」

『こっちが驚くわ。女みたいな声出しやがって』


 あまり女の子に言われるセリフじゃない。ユヅキはもう少し女の子らしい口調を心掛けた方がいいと思う。せめてギャルくらいカジュアルに。


『帰りも遅かったし、なにしてたわけ』

「……ちょっとしたボランティアだよ。てか、ここでする話?」


 部屋かリビングでいいだろ。扉越しで会話するからくぐもって聴こえにくいし。


『じゃあうちも入るから』

「えっ?」


 断る間もなく、浴室ドアがガシャリと開く。奥から現れたのは、すらりと白い小さな体躯。艶やかな黒の長髪を頭上に括ってメガネを掛ける、ぴっちりとバスタオルを巻いたユヅキの姿だった。


「なに見てんの?」

「いや見るだろ。いきなり入ってきたらそら見るだろ。見てしかるべきだろ!」

「見過ぎだろ」


 言われて目を逸らす。理不尽すぎる。というか、いきなり風呂に入ってくるなんてどういうつもりだ。僕の僕は入浴剤の濁りで隠れているからいいものの、もう子どもじゃないんだぞ。


「ププッ。マジで焦ってんじゃん。ほら、実は中に水着着てましたー!」


 ジャジャーンと、ユヅキはタオルを剥いで、白と水色のフリル付きビキニを見せつける。あまり出るとこが出ていない。


「ユヅキ……。おまえ、ベタなラブコメみたいな真似するなよ」

「別に、せっかく新調したから着たかっただけだし。部屋で着ると変でしょ?」

「風呂でも変だよ。部屋で試着のがマシ。恥ずかしくないの?」

「…………まあ」

「出た、羞恥心! な? 普通はそうなるよな!」


 無理して強がっていたらしいユヅキの顔がググーッと赤く染まる。風呂場で水着は、トイレで全裸くらい普通じゃない。

 真っ赤になったユヅキは誤魔化すようにキツく命令する。


「さ、さっさと詰めろよ。入れねーだろ!」

「へ? 湯船に入ってくんの?」

行方ユキカタは水着姿のうちを放置する気? ひとりバスタブに浸かってじっくりと視姦しかんか?」

「愛読書のジャンル考えた方がいいぞ。てかシャワーは」

「身体は綺麗だから。お風呂は一度もう入ったし」


 じゃあなんで入ってきたんだこいつ。

 膝を丸めてつくったスペースに、ユヅキは白磁のような細い脚を一本ずつ入れると、ゆっくりと肩まで浸かった。水位が溢れて排水溝へと流れ落ちる。足の伸ばせるバスタブとはいえ、二人で入ると流石に狭い。

 ユヅキと一緒にお風呂なんていつ以来だ。思春期がひっくり返ってよくわからない時期に突入したのか? 毒が裏返ったァッッみたいな。

 僕が静かに愚考していると。同じく黙っていたユヅキが、深刻な顔で重苦しい口を開いた。


「なあ、行方。……あんた、イジメられてんの?」

「え、なんで?」

「今朝、教室で。あれ、めちゃくちゃ不自然だったろ」

「あー、アレ」


 どう説明すればいいものか。下手に誤解されても困るが、かといって魔法少女や僕を襲った影の話はできない。言っても通じないだろう。いやユヅキなら柔軟に受け入れそうで、むしろ怖くもある。絶対に首を突っ込んでくる。

 考えた結果、


「あれは、遊ばれてたんだ」

「遊ばれてたぁっっ!?」

「うん。たわむれに顔を殴ってもらっただけ。肩パンみたいなもんだ。まあ、一歩間違えたらヘンタイに見えたな」

「いや、立派な変態だったよ。常識の基準値ちゃんと戻しな?」


 いつの間にか、僕の常識基準は大幅にズレていたらしい。どこで狂った。心当たりがありすぎる。

 怪訝な表情のユヅキに、僕は丁寧に弁解する。


「ほら、隣の席の縁ってやつ。変に目立たず過ごすためには、近所付き合いくらいしておいた方がいいだろ?」

「けど……っ」


 ユヅキは開きかけた口を閉じて、神妙な顔で推し黙る。


「もしかして、美女と関わりがあって羨ましいのか?」

「そんなの羨ましいに決まってる! あんたの席、別名桃源郷だし。でも、そういうことじゃなくてさぁ……」


 歯に絹着せぬ物言いが常のユヅキにしては、妙に歯切れが悪い。


「行方が仲良くしてんの見ると、羨ましいより、悔しいっていうか」


 そっぽを向いて、ユヅキは口を尖らせる。

 なるほど、そういうことか。僕のような脇役が中心キャラの美女と仲良しこよしに見える光景は、たしかにアンバランスで気持ちが悪い。美少女に目がないユヅキなら尚更だろう。少し曲解しているが津田の一件もあるし、ユヅキの些細な誤解もしっかりと解消すべきだ。


「わかってると思うけど、ただのおふざけだよ。長い学校生活なんだから、そういうこともある」


 それに、と僕は付け加える。


「気心知れた仲のやつなんて、ユヅキ以外できる気しないよ」


 まさか本当に家族になるとは思ってもみなかったけど、小さな頃から姉弟きょうだいのように育った幼馴染だ。こんないわく憑きで偏屈な僕と一緒にいてくれたのはユヅキだけだった。今更、ユヅキみたいな親密な関係が新たに育まれるとは思えない。

 僕の申し開きに満足したのか。ユヅキは湯船をブクブクと泡立てるのを止め、


「まあ、それならいいけど」

「なんかニヤニヤしてない?」

「う、うっせ。教室でボコられた行方の顔を思い出しただけだわ」


 そう言って、ユヅキはまだ少し腫れの残った僕の両頬を摘む。


「イぃ痛てテテテへへへッ、引っふぁんなっ!」

「上書きだっ」

「なんへふぁでだよ!」


 今朝の出来事から間違ったコミュニケーション手法を学んでしまったらしい。言葉の暴力だけで充分足りている。というかどっちもいらん。よろこぶのは津田ぐらいだ。

 僕を痛めつけてすっかりご機嫌なユヅキは、いつになく優しい言葉を掛けてくる。


「行方、うちにはなんでも話せよ。言いにくいことも全部な?」

「わかった。……さっそくだけどユヅキ」

「なに?」

「早く出てってくれない?」


 長風呂で湯上がる寸前だった。ユヅキもその様子には気付いていただろうに。


「行方が先に出ろよ」

「無理だろ。こっちは装備なしの防御力ゼロだぞ」

「チッ、曇り止めの効力が」

「わざわざメガネ掛けてたの、最初から気になってはいたけど!」


 ユヅキの顔にお湯をぶっかける。普段の状態であれば少しくらい見られても気にしないが、今はマズい。攻撃力だけ2300の突撃部隊みたいになっている。僕も多感なお年頃なのだ。


「成長を観察するのは家族の特権だろー?」

「おまえ、逆のことされたらどうしてた」

「ブラッド・フェスティバル」


 一言だけ言い放つと、メガネをぬぐってユヅキは湯船を出ようとする。持ち上がったふともも、フリルからはみ出た白いお尻が、目の前でわずかに揺れた。血祭りを中二っぽく言うな。

 シャワーで身体を流し終えたユヅキは、浴室のドアに手を掛けて、


「そだ。行方、なんか言い忘れてない?」

「……その水着、似合ってるよ」

「今度プール行こうな?」

「近場は目立つし、遠出してな」

「当然そのつもりっ!」


 フヒヒと矯正具のついた歯を見せて、ユヅキは浴室から出て行く。口開けて笑うところ久しぶりに見たな。

 やり方は強引だが、どうやら心配してくれていたらしい。なんだかんだ義姉あねらしいところがある。つくづく、独りじゃなくて良かった。

 平静をとり戻した浴室で、ようやくひと息ついたところ。身体を拭くシルエット越しに、ユヅキがイタズラっぽく声を掛けてくる。


『明日、教室の空気が楽しみだな?』

「……………」


 仮病しようかな。

 返事せずにいると。満足げな高笑いを残してユヅキは洗面所から出ていった。


「あいつ悪魔かよ」


 すっかりいじり倒されて、癒しの入浴はあえなくタイムオーバーとなる。


「ごぼごぼごぼごぼっ!!」


 とりあえず、ほじくり返されたトラウマのやり場を湯船に吐き出した。このまま沈んでいきたい。

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