第5話 僕をぶってくれ!
普段の学校生活の過ごし方はシンプルである。
一限目までの空白を有意義にしようと向かうのは、屋上入り口前の踊り場。
授業が始まれば、教師のタイプによって隠れて寝るか堂々と寝るかを使い分けて体力温存に努める。担任田中の
昼食。ユヅキの母親が持たせてくれた弁当を持参して教室を出る。教室内で広げるとユヅキと同じメニューをひけらかしてしまう。だけどこの時間帯、中庭や体育館裏など
午後の授業も同様に過ごし、放課後は速やかに帰途につくか、人目を避けてバイト先へ直行する。実に生産性の少ない学校生活だった。
並べてみると余計な労力を費やしている気になるが、人との関わりこそが一番の労力なのである。そこを回避するために、
しかし、今日は違う。
朝一から教室へと直行し、自分の席に大人しく座る。徐々に人の出入りが増えていく景色はなんだか新鮮だった。時間差で登校してきたユヅキも、僕の姿を見かけてギョッとしていた。
「あれ、今日は珍しく早いね」
遅れてきたフローラルが
「おはよう
「おはよう、
環境音楽として常にリピートしたいほど癒しオーラに包まれた声色で、鈴穣
「目が合ったからね」
最初で最後になるかもしれないけど、と口には出さず飲み込んだ。
僕のそっけない態度を不思議がりつつも、鈴穣さんは挨拶まわりにやってきたクラスメートと代わるがわる言葉を交わす。しかしこれから、この平和な光景が唐突に終わりを告げるのだ。
クラスの大半が登校したところで。標的が教室にいるのを確認して、僕はわざとらしく立ち上がって大きな声をあげた。
「鈴穣さんっ!」
「えっ、な、なに?」
当然困惑する隣りの鈴穣さん。すでに申し訳なさが半端ない。だがここでは
「僕をぶってくれ!」
「い、いきなりどうしたの?」
教室中の注目がこちらに集まる。目立たないやつがいきなりおかしなことを物申すのだから当然だろう。そうでなきゃ意味がない。
「なにも考えず、気にせずに殴ってほしい。思いっきり!」
「……それが愬等くんの望み?」
「そう。それだけが望み」
僕は
「ふぅん。じゃあ遠慮なくいくね?」
いい迷惑をかけられているにもかからわず、案外乗り気な鈴穣さんは嬉しそうに覚悟を決める。
「あの、もうちょっと嫌そうな顔でお願い」
「マニアックだね……えいっ!」
姿勢を正した鈴穣さんの正拳突きがシュンと僕の頬を貫く。鈍い音と共に、強い衝撃が反対の頬から通り抜けていった。
「これでいいの?」
「……う」
思いのほか強力な一撃に言葉が出ず、ただ首を縦に振って答えるしかなかった。
教室の空気は見事に凍っていたが、これでいい。涙目でにじむ視界の端に、ソイツの唖然とした表情を
痛みに
「おはよー。ん? だれかの葬式してる?」
空気をあえて読まない
「どしたのユクエ。あ、ハルカおはーっ。チカおっす。ユキチうぇーい」
志々芽さんは頬を抑える僕の姿に気付くと、挨拶を振りまきながらついでのように心配する。
言葉を発せない僕の代わりに鈴穣さんが答えた。
「愬等くんが本気で殴ってほしいって」
「ふぅん。ハルカ
それ聞いてないんですけど。と思うだけに留まる。まだ口が開かないし。鈴穣さんがどの格闘技を修めているのか不明だが、たしかに腰の
「……ひひめはん」
「もしかして、あたし呼んだ?」
僕は呂律の回らない声で志々芽さんに話し掛ける。
「僕を殴っれほひい」
「どした? 黄色い救急車呼んどく?」
それは都市伝説だし、別に頭がイカれたわけでもない。客観的にそう見られて仕方ない言動なのは否定しようがないけど。
「とりま、殴っとくね」
志々芽さんは躊躇せず平手を僕にお見舞いした。痛烈な音が静かな教室に響く。除夜の鐘でもここまでは響き渡らない。
「こんな感じでい?」
「あ、う……」
言葉にならない返事をしようと四苦八苦していると、
「授業始めるぞー。席につけ愚民どもー」
そこにタイミングよく一限目、現国担当教員の田中が教室に顔を出した。教壇に立つと、そこで目ざとく僕に異変に気付く。
「ん、顔がひどいな愬等。邪魔だから保健室に行っていいぞ?」
田中は面倒くさそうに追いやろうとする。せめてひどい顔だろ。心配しろエセ教師。
とりあえず担任の言葉に甘えて、教室からすごすごと出ていくことにした。
ポジティブに思考して、サボる時間をくれたってことでいいですよね。
***
同日、放課後。
僕はそそくさと教室を出ようとするソイツに声をかけた。
「
「……
なにも特別な相手ではない。クラスメートと総称している内の一人である。
毒にも薬にもならない凡庸なクラスメートの津田は、不審がる態度で距離をとった。当然ながら今朝の一件が尾を引いている。その上、さっきから僕が凝視する気配を敏感に察知していたはずで、本当なら今にも無視して逃げたいはずだ。
「用があるのは、むしろ君の方だと思うんだけど。とりあえず、場所を変えようか?」
津田を
「どうして僕を狙った?」
「……なんのこと?」
「昨晩、学校で僕を襲撃しただろ」
グリモンが
「その顔は、津田くん。君だった」
僕は犯人を追い詰める口ぶりで、津田の正体をズバリと指摘した。目の前のクラスメートがあの人型の影を演じていたのか、それとも人型の影がクラスメートのフリをしていたのか。それも今にわかる。
しかし、その津田は合点のいかない様子で繰り返した。
「……なんのこと?」
「いや、だから昨晩ね」
かくかくしかじか。と志々芽さんの秘密に触れないよう昨夜の強襲を説明するも、津田は芯を食わない表情で曖昧に頷いていた。
「うーん、本当になんのことだか。火事も起きてないし」
「あ、あれぇ?」
僕もつられて困惑する。昨夜のことは本当に夢だったのか? たしかに夢のような体験だったけど、首の傷の説明がつかない。まさか寝ぼけてつけたとは思いたくない。
どうする?どーすんの僕?どーすんのよ! と葛藤する僕の前で、津田は少し悩む素振りを見せてから、やむを得ずといった感じで打ち明けた。
「……でも、愬等に嫉妬していたのは事実だ」
「おおっ!? よかった!」
いや良くないけど。でも推理が根底から間違っていたわけじゃなさそうで正直ホッとする。
「やっぱり、僕に嫉妬してたんだな」
「ああ。正直、その影の話はよくわからなかったけれど——」
苦虫を噛んだ表情で、津田は本音を吐き出す。
「あんなのを見せつけられたら、そりゃ悔しいさ」
影の正体は津田と直結していない。魔法が通用する世界だから、その可能性は
「じゃあ、今朝のアレで気は済んだろ。
ギャンブルに勝つ。無意識だとしても、間接的に津田が影を生み出した可能性に賭けていたのだ。
人型の影が見せた、憤怒の表情。それは単なる怒りではなく、嫉妬感情が無意識に生んだ魔物の姿なのだろう。
教室で演じた大舞台は、すべてこのための布石。無意識に化け物が生まれるのなら、その芽を摘んでしまえばいいわけだ。今回はたまたま津田の影だったが、いつ他の人間から恨まれるかわからない。僕のポジションが嫉妬の対象にならないほど絶望的なものになってしまえば、第二、第三の影が生まれる火種はなくなる。要するに、抜本的な改革が今朝の
「ふぅーっ」
僕はようやく珍事のネタばらしができた満足感でいっぱいになる。どうりでドッキリ番組が気持ちいいわけだ。クセになりそう、二度とやりたくないが。
しかし、これが万が一にも津田に響かないとなれば最悪も最悪である。
「え、どういうこと?」
「最悪だ……」
もう死ぬしかないだろこれ。学校生活を賭けた一世一代の大立ち回りがただの徒労に終わってしまった。明日からどんな顔で登校すればいい。いっそ腫れた頬ごと整形するか?
「なんか、ごめんな?」
「…………」
放っておいてくれ。後悔と心から向き合うだけの貴重な時間なので邪魔しないでほしい。今日の出来事を記憶から抹消して、黙ったまま出て行ってください……。
「……愬等になら言ってもいいか」
「俺が嫉妬した理由は、
「……ん??」
「昨日教室で、志々芽さんたちと話す愬等を見つめて、本気で怒った瀬那さんの表情を初めて見た」
流れ変わったな。僕は気持ちを立て直して、津田の独白に耳を傾ける。
「その目には青い炎が灯ったみたいだった。冷たくて。ゾクゾクきた。最高だった」
「ちょっと話の腰を折ろうか」
なんだか風向きがおかしな方に吹いていたので、早々に津田のセリフを中断させる。
「つまり、津田くんは、僕に嫉妬してるように見えたユ……瀬那さんの姿を見て嫉妬してたってこと?」
盛大に見誤っていた。嫉妬の対象がそもそも間違っていたらしい。
「いや、どう見ても瀬那さんは嫉妬してた!」
美女たちと戯れる羨ましさにな! とは言わなかった。というか言う気力が湧かなかった。しかし、これは
そうとわかれば、僕の挫けた膝も骨肉の存在を思い出す。再び立ち上がって津田と向き合うと、バトルフェイズを終えて誤解をとくフェイズへと移行することにした。
「もう正直に言ってしまうけど、瀬那さん、いやユヅキとは幼馴染なんだ」
「それは、不憫な属性だな……」
だれが幼馴染は報われないだよ。勝手に同情すんな。
「でも学校では話しかけない約束をしてるって言ったら、僕らの関係性も想像つくだろ?」
「隠れて付き合ってる?」
「その反対」
「犬猿の仲なのか」
そういうことにしておく。余計な情報はオブラートに包んで、嘘と本当を織り交ぜて説得する。無意識下に恐ろしい化け物を生み出すほどの相手なので、できることなら穏やかにこの場を納めたい。いい加減僕も疲れてきたのだ。
「でも、あんなに憎まれるなんて興奮するなぁ」
その性癖にはタッチせず、自然治癒して真っ当な大人になってくれるようひっそりと願った。
津田の誤解もとけて、ようやくひと段落つく。遠回りしすぎてもはや一周したような疲労感。この筋肉痛はしばらくあとを引くだろう。
今回のケースは、蓋を開ければ矛先は違っていたのだけど、本来の目的は津田だけでなく潜在的に恨みを抱くやつらを根絶やしにすること。それは無事に完遂できたと信じたい。
僕の学校生活の平穏と引き換えに……。
いちおう、その他大勢の代表として津田に反応を聞いておく。
「僕が教室で女子に殴られてるのを見て、どう思った?」
「なにしてんだろうあいつ。一生関わりたくないなって。……あ、でもちょっとだけ羨ましかった」
おまえの性癖はどうでもいいが、この先も無事にぼっちの座をロックできそう。
「時間をつくってくれてありがとう。誤解がとけたみたいでホッとしたよ」
もう帰ろう。と血まみれの老婆くらい重い憑き物を背負った背中を向ける。その曲がった背に津田から声がかかった。
「待ってくれ愬等。あの、よければ瀬那さんとの間を取り持ってくれるとか……」
「ユヅキに近付いたら遠慮なくころすから」
秒で答える。それとこれとは話が違う。貴様ごときが僕の恩人に手を出せると思うなよ。
感情のジェットコースターで心労はすでにピークを超えていた。もっと効率的な手段があったはずだと今更ながらに後悔するも、ともかく問題のひとつは解決へと辿り着いた。終わり良ければすべて良しというのはシェイクスピアだったっけ。もやもやが残るところ含めて僕にぴったりの戯曲。
津田
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