第4話 刺客

『逃げてッ!』


 切羽詰まった女の声で目を覚ます。そこにはだれの姿もない。しかしぼんやりとした頭を起こす間もなく、火の手が迫っていることが、異様な熱気と黒煙の流れで確認できた。


「どこだよここ!?」


 考える前に、背後に伸びた階段を駆け上がる。見覚えのある風景。おそらく、というか間違いなく日々通う高校の校舎だ。


 どうしてこんなところにいる。重篤じゅうとく夢遊病パラソニアムでも発症したか? 意識が覚醒するまで、僕は倒れていたのか立っていたのかすら覚えていない。記憶の最後は、たしか二段ベッドを登って眠りについたはずなのだが。


 二階の廊下にたどり着くも。奥の方はすでに黒煙が充満しており、中から炎が獣のように襲ってくるのが見えた。バリンバリンと廊下の窓ガラスが連鎖して弾けていく。


 再び階段を駆け登る。火事の現場で高所に逃げるなんて愚の骨頂、だろうが知ったこっちゃない。濡れたハンカチで口を塞いで床に伏せましょうなんてサバイバル教本の学びを冷静に思い出したところで、火の手の追及が予断を許さないこの状況ではなんの意味もなかった。立ち止まったら丸焦げの死体になるだけだ。


 ガシャガシャガシャ。と熱風と黒煙に混じって、下から追いかけてくる別の気配があった。確認する暇はない。立ち昇ってくる煙からとにかく逃げないと。

 駆け上がれ。もっと上へ。もっと。屋上。しまった普段は鍵が掛かって。くそっダメもとでっ。やった開いてる——


 迫りくる炎から逃れるよう必死に重い扉を閉め、フェンスの方へと駆けだす。

 ここから助けを呼べば。


「……え?」


 屋上から見渡す街の景色は、ただの静寂だった。

 サイレン音は遠くでさえ響いてこない。おかしい。普段からパトロールを欠かさない警察官がこの惨状を見逃すはずがない。いや、こんなに燃え盛る校舎を、街の人間が誰ひとり気付かない事態はあり得るはずがなかった。そのいびつさが恐怖をあおぐ。


 よく見下ろすと、この歪さの原因は、ある境界線が引かれているからだと気付く。校門の内側、春に新入生の入学を彩るソメイヨシノの枝木は原型を留めないほどに焼け落ち、立派だった樹幹の面影だけが燻っている。一方で、学校の敷地から外側。秋には色を変えて通学を見守る銀杏いちょうが今も繁々とした姿で並んでいた。その代わり映えない様子はこちらの火の粉すら及んでいないのだろう。

 要するに、この学校の敷地内だけが世間と隔離していた。


 まるで夢の中に迷い込んだような。

 だけど。熱気と焦燥で玉のように流れるこの汗の感覚は、明晰夢めいせきむと逃避するにはいささかリアルすぎる。

 困惑するままに立ち尽くしていると、


 ドンドンドンッ。背後の屋上扉で、なにかがしたたかに打ちつけられる轟音が鳴り響いた。かと思えば、錆びた鉄の軋む重い音と共に、その分厚い鉄扉がグニャリとねじ切れる。

 飛び出すように大きな火の手が吹き、中から現れたのは、


「焦げた、人間……?」


 いや違う。影だ。人型の影が、ゆっくりと歩み出て———

 ソイツはこちらを認めると、間髪入れず四肢で跳ねるように迫ってきた。


「———っ!?」


 目前で飛び掛かる影の細腕が、猛獣の爪のごとく鋭く、僕を引き裂こうとした瞬間。


「強めのっ、パンチ!」


 大気を震わす破裂音と共に、離れた屋上の入り口で爆風が上がる。その粉塵の先で、ガラガラと崩れ落ちるコンクリートに埋もれる人型の影は、今まさに襲いかかろうとしたヤツの姿だ。

 あまりの急展開に唖然とするしかない僕の隣に、シュタッと軽やかに着地したのは。


「ふぅーっ、超間に合った! 今のタイミング、エモくなかった?」

「し、志々芽シシメさん……?」

「そー! あ、違。あたしは、えっと……魔法少女!」

「うん、だから志々芽さんが魔法少女でしょ?」

「違くて! 名前は決めてないけどナゾの魔法少女なんだって!」


 その魔法少女は必死に身バレ拒否する。以前自分から秘密を明かしておいて、どうやら今度は正体不明の魔法少女ということにしたいらしい。

 しかし、暗くてわかりづらいが、どう見てもコスプレした志々芽さんでしかない。

 というかそのコスチューム。


「その格好、なんか既視感のある……」

「アガるっしょ! YouTubeで昔のアニメ掘ってたから、当然インスパイアされたよね」


 そう言って、ギャルな美少女戦士が魔改造セーラー服姿で有名なポーズを決める。版権ギリギリだ。


「あの、志……魔法少女さん。どうなってるんですか? 僕ずっと混乱してて」


 目が覚めてから不条理の連発で、もはや思考回路はショート寸前だった。


「ふふん、大丈夫。あたしが来たからもう安心。悪の手先は徹底的にボコすから!」


 ピッと凛々しい魔法少女の視線に追随すると。どうやら人型の影はまだ動けるようで、瓦礫がれきを押しのけて立ち上がろうとしていた。


「危ないからユクエは草葉の陰まで下がってて!」

「死んでるじゃん」


 僕のツッコミが届く間もなく、志々芽さんは拳を振りかぶって突撃していった。屋上の入り口がその上に設置された貯水槽ごと木っ端微塵に吹き飛び、時間を置いてゲリラ豪雨のように頭上から水流が降り注いだ。

 考えたくもないがこれは現実なのだ。水浸しの身体がそう告げている。冷や水をぶっかけられても、まだ目が覚めないのだから。


 もはや目で追えないが、今も遠くから轟音が響いてくる。志々芽さんが戻ってこないのを考えるに、戦闘は依然として継続中なのかもしれない。


「魔法って本当にあるんだな……」


 思わず呟かずにはいられなかった。


「せや、奇跡も魔法もあるんやで」


 独り言に返事をしたのは、いつの間にか僕の肩に乗る小さな珍獣だった。僕は思いっきり手で払う。その小動物は素早く飛び上がって避けると、シャボン玉のような速度で再び僕の肩に降り立った。


「ひどいなーじぶん」

「ごめん、グリモン。急に驚かすから、服の虫に気付いたときと同じ反応してしまった」

「虫ケラと一緒にせんといてや。次やったら奥歯ガタガタ言わすで」


 愛玩動物のキメラみたいな可愛らしい姿とは裏腹に、珍獣グリモンは胡散臭い関西弁で脅しにかけてくる。魔法少女とマスコットキャラはセット商品のような風潮があるとはいえ、ギャルとコテコテなまりな珍獣の組み合わせはなかなかに強烈だ。


「どや、変身したカノンは目のやり場に困るやろ」


 パートナーポジの未確認生物UMAは、立場に似つかわしくない口調で僕に話しかけた。


「あんなにきわどい格好で外に出て、大丈夫なの? 羞恥心とか」

「だれもカノンやなんて気付けへん。変身したおかげで認識阻害の魔法がかかっとる」


 グリモンは校舎から飛んできた火の粉をフッと吹き払う。


「この場もそうや。結界内は本来ならだれも近寄れへんし、異変にも勘づかへん。隔離された別世界パラレルワールド。明日になったら綺麗な学校に元通りや」

「ん? じゃあ僕はどうなる」

「ニイチャンはすでに魔法の存在を知ってしもたからなぁ。ワイの姿が見えるんがその確たる証拠やな」


 グリモンは愛玩動物の無表情のまま、しかしどこか笑って見えた。


「……まさか」


 この状況は、僕が魔法の存在を知ってしまったから巻き込まれたのだろうか。


「勘違いせんときや。巻き込んだわけとちゃうで。この世界におる原因はおのれ自身。心当たりあるやろ」

「…………」


 僕を襲った人型の影。アイツの表情は憤怒に歪んでいた。その後の行動から察しても、その対象は、おそらく僕なのだろう。


「恨まれる経験は初めてか?」

「ここまで酷いのは初めてだよ。目立たずが僕のポリシーだったのに」

「ええやん。苦労は買ってでもした方がええしな」


 振り払おうとしたが避けられた。一言多い珍獣だ。


「はー、倒してきたー。瞬殺シュンコロ


 グリモンと小競り合いしている間に、闘いを終えた志々芽さんが颯爽と戻ってきた。


瞬殺しゅんさつではないけど、ありがとう志々芽さん」

「ハァ? 違うんですケドー?」


 この後に及んで健気に隠そうとする志々芽さんに、僕は肩の上の珍獣を指差す。


「グリモンもいるし、もう身バレしてるから」

「そー? ま、いっか。てかユクエが無事でホントよかった」

「志々芽さんこそ、怪我はなかった?」

「余裕っ!」


 志々芽さんはいい笑顔でひたいの汗を拭う。すすの汚れが線を引いた。ついさっきまで激しい肉弾戦を繰り広げていたとは思えないほど元気ハツラツとしている。美少女戦士風の衣装も、砂ぼこりの汚れこそあるものの破れひとつ見当たらなかった。

 志々芽さんが強いのか、魔法がそれほどまでに強力なのか。しかし、あのような激しい戦闘を目の当たりにすると流石に不安だ。


「ニイチャン、心配したフリして少しくらい衣装はだけてたらって思てるやろ」

「この陰獣っ!」


 再びグリモンを強く払おうとするも、今度は志々芽さんの肩へと軽やかに逃げていった。


「へぇ、見ない間にすっかりトモダチだね」


 パリピな発想力で志々芽さんが誤解する。別にじゃれ合ってたわけじゃない。


「あのね。助けてもらったし、本気で心配もするよ」

「へーきへーき。もう何度も倒してっし、ただの影じゃん」


 彼女は平然とそう言ったが。アイツと目が合った瞬間を思い出すと、今でも僕は背筋が凍る。ただの影。もしかして、志々芽さんには本当にそう見えているのか。


 セーラー服がはち切れそうなほどグッと伸びをして、志々芽さんは気持ちよさそうに達成感を吐き出した。


「ガチ疲れたぁ。深夜のバトルって肌に悪すぎ。でも、これでテストの分はクリアだね」

「え? それって——」

「ご苦労さん。そろそろ夢から覚めるときやな」


 妙なタイミングでグリモンが割って入る。ちょっと待ってまだ聞いておきたいことが。


「起きたらすべて元通りや」


 その言葉を聞いて、まぶたがやけに重い。僕は次第に意識が遠くなるのを感じた。






「んっ——」

「うわぁっ!?」


 目を開けると、正面にいたユヅキがのけぞった。


「なんなのっ、急に目を覚ますな!」


 そのユヅキは朝に相応しくない第一声をかけてくる。


「ユヅキ? なんで僕の布団に?」

「うなされてたから叩き起こそうとしただけ。別にあんたの寝顔なんて見てないし」


 隣に横たわっていた義姉あねは不機嫌そうに起き上がると、まだ困惑したままの僕に怪訝な目を向ける。


「ていうかうるさいんだけど。朝からなに?」

「なにって、寝起きだけど」

「はぁー、眠っても起きててもうるさいやつ」


 悪態をつきながらユヅキがベッドを降りる。起こしにきてくれたのはありがたいが、ご丁寧にわざわざ布団に潜り込む必要はあったのだろうか。


「……ユヅキ、なんかニュースなかった? 学校が全焼したとか」

「サボりの口実を大事件に求めんな? 残念だけど台風すら来てないから」


 現実は晴天のもと平和そのものらしい。となれば昨夜の出来事は夢か幻。でなければ、グリモンの言うように別世界パラレルワールドで起こったことなのだろう。


「さっさと起きて支度すれば? 汗臭いしシャワーも浴びとけー? 時間差通学はあんたの希望なんだから、うちより先に出発しなよ」


 掛けていたメガネを机に置いて、ユヅキは生意気な表情を残して部屋を出ていく。間違ってはいないが、彼女は一言言わないと気の済まない面倒くさいところがある。


 二段ベッドから降りて、寝巻きのシャツを脱ぎ捨てる。寝汗はぐっしょりとかいていたが、そこに焦げや煤汚れはなかった。


「……元通り、ね」


 起きたらすべてが元通りになる。

 グリモンはそう言ったが、間違っている。

 魔法という存在が、現実と妄想の区切りをあやふやにしていた。だが、たとえ夢のような別世界パラレルワールドの出来事であっても。あの体験は僕の中で鮮明に残っている。


「自分でつけた傷までは治せなかったみたいだな」


 鏡の前に立つと、首元に入る赤い線が確認できた。グリモンを払うフリして自ら引っ掻いた甲斐があった。


「……テストの分、って言ってたな」


 嫌な予感が当たらなければいい。だけど、嫌な予感ってやつはなぜか当たると相場が決まっている。


「あの珍獣。魔法でどうにかできないか尋ねていたのに、願いを叶えるなんて返してきた時点で怪しいと思った」


 志々芽さんとグリモンの関係は、おそらく僕と担任田中のそれに近い。魔法少女とマスコットの信頼関係なんて10年も前に崩れてんだよ。


 独り言はここまでにして、立ち向かうべき目標を定める。

 僕はふたつの決意を胸に秘めていた。

 ひとつは志々芽さんのこと。安易に魔法を使えと言ってしまったのは僕だし、助けてもらった恩を返さないといけない。

 そのために、まずはもうひとつの問題を早急に片付けなければ。


 僕に恨みを持つ人間がいるというのは、こんなにも寝覚めが悪いのだ。

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