第2話 お荷物な占術師
「ふぅ、こんなに動いたのは久々だ」
家に着くなり、男性はそう言って、奥の椅子にぐったりと腰掛けた。
後から来たとは思えないほど早く合流した女性が、クルトの後ろから床を指さす。
「負傷者は床に。服を脱がしておきなさい」
「はい」
明かりの中で改めて女性を見る。豊かな金髪の、年齢を感じさせない立ち姿の女性だった。腰に下げていた細身の剣を壁際に立てかけて、扉の向こう――台所と思われる場所――にさっさと行ってしまう。
「よっこいしょ、と」
男性が老人らしくゆったりと立ち上がる。途端に、台所から女性の声が飛んできた。
「ジーク、無理して動かないでちょうだい」
「平気だよ、カーミラ。薬草を取ってくるだけだから」
「そっちの部屋に入るならついでに貸せる服を二人分持ってきておいて」
「気を遣いながら人を使えるのは才能だなぁ」
穏やかに笑いながら、ジークと呼ばれた男性は別の小さな部屋に入っていった。ちらりと見えた感じは子供部屋のようだった。
「そういえばあなたたち、どうしてあんな場所に?」
台所から顔を出した女性――カーミラと呼ばれていた――に唐突に聞かれて、クルトはびくりと肩を震わせた。
「ええと……ここから、少し北の山地で、野外研修中でして……」
「あの沼地には入るなって言われなかった?」
「……言われました」
「どうして入ってたの」
クルトは黙ってうつむいた。言いたくなかった。言えるものじゃなかった。
答えようとしないクルトに、カーミラは呆れかえった溜め息をついて、台所に引っ込んでいった。沸いたお湯とタオルを持って戻ってくる。そこにジークも出てきて、薬草をいくつかカーミラに渡してから、床に座り込んだままのクルトを覗き込んだ。
「ねぇ、今、野外研修中って言った?」
「あ、はい」
「担当の先生は?」
これも聞かれたくなかった質問だ。けれど、情けない理由よりはましだ。どうせ伝わることだし。クルトは重たい口をようやく動かした。
「……ドゥイリオ・ギレス先生です」
瞬間、ジークはぱっと笑顔になった。
「ああ、ドゥイリオの生徒さんだったか。っと、それじゃあ、早く知らせてあげないと。きっと今頃、ひどく捜してるだろうからね」
ジークは部屋の奥のテーブルに駆け寄って、紙とペンを取った。クルトにはその笑顔の意味も、言葉の意味も分からなかった。思わず尋ねる。
「ドゥイリオ先生のお知り合いなんですか」
「知り合いも何も、彼は僕の弟子だよ」
「えっ」
ドゥイリオ先生がこの人の弟子――ということは、この穏やかな老人が、あの冷血漢の師匠?!
「嘘だ……」
「本当よ。呆けてないで手伝いなさい」
「あっ、はいっ、すみません」
こっちの女性の弟子だと言われたら納得がいくんだけどなぁ、と思いながら、クルトは慌てて向き直った。
カイの怪我は本当にひどかった。泥と血を拭って、傷口があらわになると、そのひどさが際立った。
「スワンプファンドの牙には
後でドゥイリオを叱っておかないと、と言いながらてきぱきと手当を進めていくカーミラ。クルトはただ萎縮しながら指示に従うだけだった。内心は戸惑いと怒りと悔しさでいっぱいだった。
(この人たちは一体……ドゥイリオ先生の師匠ってことは、先生より強いってことだろうか? ――カイは僕をかばったけれど、全然耐えられてなかったじゃないか! もしあのまま置いていっていたら――けれど、それ以上に、僕は何もできなかった……)
一通り手当が終わると、カイの顔色と呼吸はだいぶ落ち着いた。
彼をソファに寝かしてから、クルトは勧められるまま風呂場を借りた。誰のものか分からない服に着替えて、カイの向かいのソファに腰掛ける。ひどく疲れていて、身体は眠りたいと主張しているのに、心だけがかっかと燃え上がって眠れそうになかった。顔をしかめて眠っているカイの姿を見るだけで腹が立ってくる。彼にも、自分にも。
「こっちの君は魔導師だね?」
奥のテーブルの向こう側に腰掛けて、ジークが穏やかに問いかけてきた。彼の手から放たれた二羽目の魔法鳩が窓をくぐり抜けて、夜闇に消えたところだった。カーミラが台所で夕食を作っていて、初夏の夜の湿った空気と温かな香りが部屋中にじんわりと広がっていた。
「はい」
「名前は?」
「クルト・ニークヴィストです」
「ドゥイリオは良い先生をしているかな」
その質問にクルトは言葉を詰まらせた。しかし、
「良くも悪くも正直者であれ、だよ」
――ドゥイリオ先生の口癖でもある言葉を、こんなに穏やかに聞くことになるとは思わなかった。厳しく叱責するときにしか聞いたことがなかったのだ。衝撃で口が滑る。
「……とても、厳しい先生です。いつもしかめっ面だし、言い訳を絶対に許さないし、みんなに怖がられていて……授業は分かりやすいけど……とにかく、怖いです」
「そう」
ふふふ、と彼は楽しそうに笑っていた。カードをテーブルに広げてかき混ぜ始める。
「頑張ってるみたいだね。ドゥイリオらしいな」
「……あなたは、師匠、なのですよね」
「うん、そうだよ」
「ドゥイリオ先生は、弟子のときから、そういう感じだったんですか」
「いや、そんなことはないよ。彼はとても優しい子だ。優しくて素直で、笑顔が可愛くて、本当に良い子でね」
クルトがあまりにも“信じられない”という表情をしていたからだろう。ジークはまた声を上げて笑って、かき混ぜていたカードをまとめた。
「まぁ、そのうちに分かるよ」
彼の弱々しい手がなめらかにカードを切る。余計な力が一切入っていない、慣れた手つきだ。
「あなたは占術師なんですね」
「もうとっくに隠居した身だけどね」
「……さっきの魔法、すごかったです」
クルトは勇気を振り絞って尋ねた。
「あの、どうしたらあんな風に、魔法を使えますか。僕は強くなりたいんです。魔法使いだからって……占術師だからって、守られるばかりじゃ嫌なんです! どうしたら……どうすれば――」
――他の連中にお荷物だと笑われないくらいに――カイを守れるくらいになれますか――そこまでは言葉にならなかった。拳を握りしめてうつむく。それを言葉にできないこともまた自分の弱さのように思えて、一層悔しかった。
ジークはカードを切る手を休めずに答えた。
「それは僕じゃなくてドゥイリオに聞いたほうが良い。僕は教えるのが下手だから」
「っ……」
「たとえば、そうだな……さっきの魔法、どうやってやったか説明しようか」
がくがくと頷いたクルトに、彼は穏やかに微笑んだまま、淡々と語る。
「占い用のカードに魔力を流して、こうしてくださいってお願いしたんだ」
「……え、それだけですか?」
「うん。ほらね、分からないだろ。実を言うと、僕もよく分かっていないんだ。分かってなくてもできてしまうから、教えられないんだよね」
無条件で敵を作りそうな台詞だ。けれど、クルトは敵になれなかった。自然な言い方とさりげない風格が、真実を正直に言っているだけなのだと知らせている。
「だからドゥイリオに聞くべきだね。――あ、ちょうど来たみたいだよ」
家の戸が遠慮がちにノックされた。クルトはその音にすらびくりと背筋を伸ばしてしまう。
「入っていいよ」
「失礼します、師匠」
パッと扉が開いて、ドゥイリオが入ってきた。鋭い青色の目がクルトとカイをじろりと見た。あの目に見られると、クルトはいつも身が凍るような思いになる。間違っているのはいつもこちらだと問答無用で押しつけてくる目。まだ何も言われていないうちから謝りたくなる。
重たいブーツがゴツゴツと床を打つ。騎士団の紺色のマントが、裏地だけ緑色なのは教育者である証拠だ。彼は身を縮こまらせているクルトの脇を通り過ぎ、
「お久しぶりです、師匠。お変わりありませんか」
ジークの前で頭を垂れた。その声が今までに聞いたことがないほど柔らかいものだったから、クルトは度肝を抜かれて呆然とする。
「うん。変わりないよ。君のほうも元気でやっているかい?」
「はい、つつがなく。このたびは本当に申し訳ありませんでした、師匠。お手間を取らせてしまいまして。師匠にお怪我はありませんか」
「大丈夫だよ。カーミラも、擦り傷一つしてないから、安心して」
「はい。ありがとうございます」
穏やかに微笑むその人の横顔はまるで別人だった。クルトの頭の中がパニックを起こす。本当にこれはドゥイリオ先生なのだろうか。いやしかしまさか!
「年末以外で君に会えるなんて、なんだか特別に思えて嬉しいものだね」
「ええ。……きっかけは喜ばしくありませんが」
「全員無事だったんだ。負傷した子も、あれならすぐに治るよ。大事に至らなくて本当に良かった」
「師匠とカーミラさんのおかげです。適切な処置までしていただいて……本当に、ありがとうございました」
再び、ドゥイリオは深々と頭を下げた。その頃にはもうクルトにも理解できていた。ここにいるのは先生じゃない、弟子だ。敬愛する師匠に迷惑をかけたことを反省し、落ち込んでいる弟子。その弟子の頭の上に、師匠がそっと手を置いた。師匠の目が弟子を見ている。底抜けに温かいが、ただ柔らかいだけではなくて、真剣に弟子の反省を受け止めている色。
「これが初めての引率だろ」
「……はい。ですが」
「だから、だよ。少し息を抜いてごらん」
ドゥイリオが息を吸って、ゆっくりと吐くのがクルトにも聞こえた。そしておもむろに上体を起こすと、はにかみながら笑う。
「すみません、師匠。ありがとうございます。落ち着きました」
「うん」
「それでは――」
不意を突くようにしてドゥイリオが振り向いた。ぼうっと二人のやりとりを見ていたクルトは、彼の顔から微笑みが消え、よく見知った冷たさをしていることに気がついて、はっと背筋を伸ばした。
「クルト、報告を」
「は、はいっ!」
いつの間にか弟子は先生に戻っていた。そしてこの先生は言い訳を許さない。嘘も誤魔化しも許さない。報告を、と命じられたら、その言葉通り、起きたことを順序よく正確に報告しなくてはならない。
クルトはパニックでぐちゃぐちゃになっていた頭を無理矢理に回した。
「あの……ええと……」
うまく言葉が出てこない。この数時間で起きた出来事の何もかもが、クルトの手に余っていた。取りこぼしそうになるのを、両手を力一杯握りしめてつなぎ止める。切れ切れの言葉で説明をする。
――班員たちが自分をお荷物だと馬鹿にしていた。それが悔しくて、でも事実だったから何も言えなくて逃げ出した。その拍子に沼地に入ってしまい、魔物に襲われた。そこでカイが怪我をした。先生の師匠に助けられた――
そこまで話し終えると、クルトは黙り込み、うつむいたままじっと涙をこらえた。手のひらに食い込んだ爪の痛みが、涙をぎりぎりのところで引き留めてくれている。ここで泣き出したらあまりにも情けない。
「なるほど、よく分かった」
冷たい声音に押し込まれるようにして、靴の裏が床を擦った。無意識のうちに逃げる体勢になっている。クルトはそのことに気がついたが、しかしどうしようもなかった。弱いから逃げるしかないんだ、と自己弁護が頭の中をぐるぐると回る。弱いから、迷惑をかけてしまう前に、逃げて、逃げて、逃げ切るしかないのだ。
「逃げた先に何があった?」
半歩以上後ろに引かれていた足がびくりと止まった。
「え?」
「弱さから逃げて、その先で何か得られたか?」
顔を上げると、先生と目が合った。こちらを真っ直ぐに見る青い瞳は、やっぱり厳しい冷たさを持ったまま――弟子を見る師匠の目と同じ真剣味を帯びて――クルトの答えを待っている。
クルトは首を横に振った。
「何も……」
むしろ失いかけた。自分の弱さのせいで。
先生はクルトの心の中の声を聞き取ったかのように頷いた。
「そうだろうな。それが分かったなら上等だ。もちろん、逃げるべきときがないわけじゃないけれど、逃げた先には何もない。馬鹿にされるのが悔しいのならなおさら、逃げるのは悪手だ。決して繰り返すな」
「……はい」
頷いた瞬間、緊張が解けて、涙がどっとあふれ出した。止めようと思う暇もなかった。ぼろぼろとこぼれ落ちていく涙を手の甲で無理やり拭い取る。クルトは、先生が何も言わないでいるのを、不思議だとは思わなかった。
「師匠、申し訳ないのですが、一晩彼らに屋根を貸してくださいませんか」
「もちろん構わないよ。最初からそのつもりだったし」
「ありがとうございます。俺は一旦戻るので」
「君も今夜くらいゆっくりしていくといい」
「いえ、そういうわけには――」
「お、来た来た。ちょうど良いタイミングだ」
唐突に窓から飛び込んできた鳩が、ジークの手元で手紙に変わる。それを眺めて楽しそうに微笑むと、彼はドゥイリオへ文面を見せびらかすようにした。
「ほら、いいってさ」
「え?」
「お墨付きが出たんだ。堂々と休んでいくといい」
「いつの間に……」
ドゥイリオは呆れたように、しかしまんざらでもなさそうな調子で溜め息をついた。
「夕飯ができたわ。配膳を手伝ってちょうだい」
カーミラが台所から顔を出して、有無を言わせぬ口調で言った。
「はい、すぐに。クルト、お前も手伝え」
「えっ、あっ、はい!」
クルトは真っ赤に腫れ上がったまぶたをそのままに、ドゥイリオの後について台所へ駆け込んだ。
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