飲んだ後は

第1話 沼地の生徒たち


「おい、馬鹿、待て! そっちには行くなって言われてただろ!」

「うるさい! ついてくんな馬鹿!」

「もう集合時間になるぞ、戻らねぇと!」

「うるさいって言ってるだろ!」


 クルトはカイを怒鳴りつけて、無視して進んだ。方向なんて知ったことではない。時間なんてどうでもいい。夕闇の迫る山の中、草木をかき分けて、とにかく前へ、前へ。

 不意に足下が空を切った。


「あっ」

「クルト!」


 ――その沼地は、少しくぼんだところにあったのだ。


「いってぇ……」

「ちゃんと前を見ろよ、馬鹿……」


 気がついたときには二人とも崖の下に落ちて、泥まみれになっていた。クルトは跳ねっ返りの赤い前髪から泥をこそげ落として、ゆっくりと立ち上がった。カイは飛び退くように起き上がって、制服についてしまった泥をひどく気にしている。

 崖自体はたいした高さでなかった。しかし、クルトはその崖に触れて眉をひそめる。


「柔らかすぎる。これじゃ登れないや」

「何のんきに言ってんだよ。大体、柔らかくなきゃ落ちてなかったっての」


 落ちる直前、カイは確かにクルトの腕を掴んでいたのだ。足下さえ確かだったなら落ちるわけがない。踏ん張った瞬間にぐにゃりと崩れて、あっという間に足を取られていたのだ。

 カイは大きく溜め息をついた。


「向こう側にもう少しなだらかな坂がある。あっちから戻ろうぜ」

「うん――」


 大人しく頷いてしまってから、クルトははたと我に返った。


「なんでお前の言うことを聞かなきゃいけないんだよ!」

「んなこと言ってる場合か!」

「大体お前がついてこなければ、こんなことにはならなかったんだ!」

「そもそもお前が逃げ出さなきゃそれで済んでただろ?!」

「追いかけてくるから逃げたんだろうが!」

「単独行動は禁止って聞いてなかったのか馬鹿!」

「うるさい間抜け!」

「あほ!」

「カス!」

「チビ!」

「言ったなこの野郎!」

「やんのかオラ!」


 いきり立って互いの胸ぐらを掴んだ瞬間、魔物のうなり声が聞こえてきて、二人はぴたりと動きを止めた。


「……なぁ、先生、なんて言ってたっけ」

「……ヤープ山の西側の沼地は毒草と魔物の巣窟だから、絶対に近付くな、と」


 魔物のうなり声は泥の中から聞こえてくる。沼地がぽこぽこと泡立って、そこに生き物の存在を示している。

 クルトはごくりと唾を飲み込んだ。


「泥の中に潜む魔物って――」

「――スワンプファンドだ。逃げるぞ!」


 カイがクルトの腕を掴んで走り出したのと同時、泥の塊のような犬が飛び出してきた。


「走りじゃ敵わないよ! 戦ったほうがいい! 一匹くらいなら――」

「あいつらは群れる! 囲まれたらおしまいだぞ!」


 カイに正論を叩きつけられて、クルトはぐっと押し黙った。とすると、なだらかな坂に向かって直線ではなく崖沿いに走っているのも、囲まれるのを防ぐためだったらしい。こういう頭の良さを目の当たりにするたび、クルトはいたたまれなくなる。掴まれている腕が痛い。振り払いたくなったのを唇を噛んで我慢して、今は足を動かすことに集中する。

 ちらりと後ろ――もうほとんど真横だったが――をうかがうと、一匹だったはずの犬は三匹に増えていた。そしてその三匹が一斉に飛びかかってくる。


「くそっ!」


 カイが立ち止まり、クルトを崖側に押しつけながら、剣を抜き放った。堅い音が鳴り響き、退けられた一匹目が不満げなうなり声を上げる。

 しかし、慌てて振り返ったクルトが見たのは、真っ赤な血しぶきだった。


「カイ!」

「っ……おらっ!」


 左肩に噛みついていた二匹目の胴体に、カイは剣を突き立てた。仕留めた魔物の死体を無理やり引き剥がして、泥に落とす。

 カイは、ふぅ、と大きな息を吐いた。目の前では、二匹に減ったはずだった犬が、反対に五匹に増えて威嚇している。沼地の泡を見るに、もっともっと大量に潜んでいそうだ。


「後ろの崖、登れるよな」


 大きな背中越しに聞かれる。登れない、とは言わせないような口調だった。


「登って、先生を呼んでこい。先生ならなんとかしてくれる」

「でも、それじゃあカイが」

「一人なら耐えられる。行け!」


 厳しく命じられて、クルトは崖に手を掛けた。カイの言う通りだ。この場面で占術師の自分は役に立たない。――情けない。恥ずかしい。せめてこの崖くらい登ってみせなくては。


(泣くな、馬鹿!)


 これ以上恥をさらしてなるものか――と、歯を食いしばって、柔らかな地面に手を埋める。柔らかすぎて、引っかかる場所がない。見回したところでツタの一本もない。駄目だ、登れない。後ろではカイが必死に戦っているのが分かる。


(せめて僕がもう少しまともに魔法を使えたら――)


 クルトが目を閉じた、そのときだった。


「おおわぁああ!」

「うわっ!」


 情けない悲鳴を上げて何か――いや、誰かが崖をずり落ちてきた。咄嗟に飛び退いたクルトの目の前で、男性は腰をさすりながら座り込んでいる。壮年を過ぎ、老年にさしかかろうかといった年頃に見えた。彼から濃い湿気・・が漂ってきていることに気付き、クルトは息をのむ。


「あいたた……よい、しょと」


 男性は涙目になりながら、ひらりと一枚のカードを取り出した。


(あれは――『猫』?)


 占い用のカードだ。『猫』。庇護の象徴。

 そんなもので何を、と困惑するクルトの前で、男性はカードをぺたりと地面に置き、


「《我らは猫。まったき加護を与えよ》」


 呟いた瞬間、カイと競り合っていた犬が弾き飛ばされた。


「おわっ」


 カイの剣にも反対向きの力がかかったらしい。カイがたたらを踏んで、踏みとどまれずしりもちをつく。


「結界……?」


 カードを中心とした半径二メートル程度に、結界が張られていた。犬たちはその外側で、ぐるぐるとうなりながら、時折飛びかかってきては弾き返されて悲鳴を上げている。

 呆然とするカイとクルトに向けて、


「さて、これで耐えきれるだろ。あとは助けを待とうか」


 男性はそう言って微笑んだ。

 先に立ち直ったのはカイだった。


「あの、あなたは」

「僕? 僕はこの山に住んでるただの老人だよ」


 そんなわけあるか、とクルトは心の中で叫んだ。そんなわけがない。これだけ濃い湿気を持っていて、占い用のカードを起点に結界を一瞬で構築しておいて、ただの老人だって? そんなわけが!

 男性は眉をひそめ、カイのことを見た。そこで初めてカイのことに意識がいって、クルトは拳を握りしめる。


「君、ひどい怪我だ」

「いえ、この程度」


 ことさら強気に首を振ってみせたカイは、誰がどう見ても“この程度”とは言えない負傷具合だった。肩の傷はもちろん、足にも腕にも噛み傷切り傷が数え切れないほどある。顔色も悪い。しりもちをついたきり立ち上がろうとしないどころか、剣を納めることすらしないでいるのは、そうするだけの体力が残っていないからだろう。


「怪我を甘く見てはいけないよ。やっぱり呼びにやったほうが良さそうだな。《おいで》」


 男性が次に取り出したのは、『彷徨う追跡者』のカードだった。上下逆さまに持ち、再び呟く。


「《我らを捜すものを捜せ――」

「ジーク!」

「っと、来てくれたね」


 男性が嬉しそうに微笑んで、カードをいそいそとしまった。

 崖上を見上げる。もうすっかり闇に沈んでしまって、そこに人がいること以外は分からなかった。声から判断するに女性、それもそこまで若くない女性だ。その声が闇を切り裂くように飛んでくる。


「報告」

「学生二名を保護。内一名が中程度の負傷。三方にスワンプファンド、数不明。以上」


 やっぱりただの老人なんかじゃない、とクルトは確信した。報告の仕方が騎士団のそれだ。しかもかなり年季の入った。

 そしてそれは女性のほうも同じだった。


「無傷の学生、負傷者を背負いなさい」

「はっ、はい!」


 上官の命令さながらの指示に、思わず思い切り返事をしてしまう。カイに手を貸すと、カイは大人しくクルトに掴まった。もう意識が飛びかけているらしい。


「ジーク、先導の犬を出しなさい。合図で東側に全力で攻撃。学生は合図後、先導に従って進行。私がしんがりを務める。以上。三、二、一、ゴー!」


 テンポの速い命令は実戦用のものだ。クルトは言われたことをただ忠実にこなすだけの駒になる。足下にスワンプファンドとは違う、黒い犬が寄り添ってきた。『完遂』のカードに描かれている犬だ、と思ったが先か、目の前で爆発が起き、その爆煙が収まらないうちに黒い犬が走り出す。クルトはカイを引きずるようにしながら、必死にその尻尾を追いかけていった。

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