あなたのためにコーヒーを淹れる。
師匠が養子の話を持ちかけてくださったのは、ヴァンダル清貧院を訪ねる前日のことだった。
あの人を見送った次の日のことだった。せっかくここまで来たのだから、清貧院を訪ねておこうということになったのだ。それで、王都の宿で、その話になった。孤児院を出るには養子縁組が必要になる、というのが決まりだったから。
師匠は精一杯俺を気遣って話してくださった。それがよく分かった。普通、養子縁組に子供の意思は関わらない。なのに師匠は俺の意思を一番にしてくださった。それだけでありがたいくらいで、二つ返事で了承したくなった。
……少し考えてから頷いたのは、どうしても、母さんのことが思い出されたからだった。弟のことが忘れられなかったからだ。父さんはもっと前に死んでいたけれど、だからって記憶にないわけではない。
カーミラ様のお言葉がなかったら、最後まで頷けなかったかもしれない。
『自分の所属できる家族が二つになる、って思ったらいいんじゃないかしら』
捨てるわけじゃない、増えるだけだ。所属先が二重になる、ただそれだけのこと。むしろ嬉しいくらいだ。喜ぶべきことだ。
なのにどうしてだろう。どこかにもやもやとしたものが残っている――
院長室を追い出されて、言われた通り外へ行った。相変わらず怖いけれど、自力で、正直に答えれば怒られることはない。下手に誤魔化したり、誰かに答えてもらったりすると、三倍は怒られるのだ。そのことを知ってさえいれば、そこまで恐れることはない……嘘、本当はかなり怖い。じろりと見られるだけで身がすくむ。
ああ、本当に冷や汗ものだった。あれぐらいで済んだのが奇跡に思える。太陽の光が気持ちいい。
と、
「ドゥーイ!」
「ドゥイィ!」
「どぅー!」
まだ舌っ足らずな声が三つ、俺に向かって一直線に駆けてきた。
「アーネ。ロニー。エルマー」
院長にこってり絞られたのだろう。そうでなくても、俺がいない間、ひどくつらい思いをしていたに違いない。三人とも目も頬も真っ赤に腫らして、足や腰にしがみついてきた。この小さな体温を感じるのはかなり久々な気がする。
一番年長のアーネが代表するように顔を上げた。鼻をすすり上げて、涙の隙間を縫って言う。
「ごめんなさい、ドゥーイ。俺たちのせいで、ドゥーイ、大変だったって聞いて、俺、俺たち……」
「うん」
言葉を引き取りたくなったのをぐっとこらえて、しゃがんで聞く姿勢を作る。院長の教えだ。相手の言葉は最後まで真摯に聞きなさい、と。何度も教えこまれてきたし、反対にそうしてもらっていたから、もう身体に染み込んでいる。
三人にも教えは行き届いている。しがみつくのをやめて、気をつけをして、ぐいと涙を拭い取った。
「ごめんなさい。俺たち、入っちゃいけないとこ行って、悪いことして、ドゥーイを置いて逃げました。ごめんなさい」
「ごめんなさい」
「ごぇんあさい」
三人がそろって頭を下げる。すぐにでも撫でてやりたくなったのを我慢する。院長は謝罪と感謝を、と言ったんだから。続きがある。
「うん。いいよ」
「たっ、助けてくれて、ありがとう、ドゥーイ」
「ありがとう」
「あいがと!」
「どういたしまして。三人が無事で良かったよ」
そう言うと三人は再び泣き出した。泣きわめきながらしがみついてくるのをまとめて抱きしめる。涙が熱くて胸がいっぱいになる。あの時は夢中で動いたけれど、動いて良かったと心から思えた。――そう、良かったんだ。おかげで師匠にも会えた。
三人が落ち着くまで、ずっと抱きしめたままでいた。しばらくして、ようやく涙を収めたアーネが顔を上げる。
「ねぇ、ドゥーイ。ドゥーイ、どっか行っちゃうの?」
「え?」
「一緒にいたおじさん、ドゥーイを連れていっちゃう?」
「ドゥウイ、どっかいっちゃうの?」
どうやら、師匠と一緒に来たのを見ていたらしい。アーネはまた泣きそうになっている。ロニーはもう半べそだ。エルマーは理解が追いついていないらしく、俺に抱きついたまま半分うとうとしている。
「どっか行っちゃうっていうか……俺は、あの人の養子になるんだ。だから、」
「やっぱどっか行っちゃうじゃん! やだぁっ!」
「やぁだ!」
俺を引き留めるように二人はまた抱きついてくる。エルマーが驚いて目を開けて、何が何やら分からないまま、二人につられてぐずりだした。
「やだよ、ドゥーイがいなくなっちゃうなんて!」
「やだぁ! ドゥウイはロニーのおにいちゃんなんだ!」
「うわああぁあん!」
「大げさだな。俺は別に、いなくなっちゃうわけじゃないよ」
笑いながら言いたかったのに、まぶたが熱くなってきた。三人につられたのだ。
「また、いつでも会えるんだよ……死ぬわけじゃないんだから……」
三人の泣き声に混ぜるようにして、俺もちょっとだけ泣いた。
(二重どころか、三重だな。……ああ、そっか、これで良いんだ)
そうだよ。俺はこの院のことも、家族同様に好きなんだ。
そしてもちろん、師匠のことも、カーミラ様のことも。
三人が泣き疲れるまで付き合って、どうにかあやして手放して、他の子たちにも挨拶をして回る。ひとしきり騒がれて、叩かれて、撫でられて、惜しまれて、憎まれ口を叩かれて、優しく厳しく送り出される。
もみくちゃにされてから門まで出てくると、そこで師匠が待っていた。
「行こうか、ドゥイリオ」
「はい、師匠」
父とは呼ばない。それは師匠だって分かっている。師匠はあくまで師匠で、俺はあくまで弟子だ。それでいい。それがいい。
代わりに俺はコーヒーを淹れる。これからはあの人のためではなく、師匠のために。そして、同じ鍋で淹れたコーヒーを、一緒に飲み続ける。実を言うとコーヒーは苦手なんだけれど、それでも。もう二度と同じことは繰り返さないと誓ったから、その証明に。そんなことしなくたって師匠は信じてくれていると知っているけれど、俺の気が済まないのだ。
「ドゥーイぃーっ! また来てねー!」
「ドゥィイーっ!」
大きく手を振るアーネとロニーとエルマーに、思い切り手を振り返す。
西日の中で師匠が笑った。
「いい子たちだね」
「はい。……弟みたいなもんです」
今度は笑って言えた。
当然だ。死ぬわけじゃない。俺は生きていく。ここにもまた来る。――いずれは、アラスタの墓地へも行く。今すぐじゃないけれど、いずれ……学校に入ったら、その報告に行きたい。師匠にお願いしよう、受かったら行かせてください、と。
俺は生きていくんだ。師匠のために、俺のために、コーヒーを淹れながら。
おしまい
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