紅茶のおともに十年前の話を。

 雛の一件以来、ジークは何かにつけて私に頼み事をするようになった。嘘、それはちょっと言い過ぎたわ。正確に言うならば、彼は自分でできないことはすべて誰かに頼んでいた。適した人材に適した仕事を割り振って、そうやって物事を綺麗に回していた。そうなると、頼まれるほうも嬉しいものだ。簡単ではないけれど頑張ればできる、という程度の仕事を貰って、成果を挙げて、彼に褒められて感謝される。そのサイクルは人を虜にする。わざとやってるのか天然なのか――わざとだとしたら相当に計算高い人間だと思うけれど、絶対に計算だろうと思わせないあたりがまた上手い。

 そういう人の使い方は貴族らしいけれど、表情やしゃべり方や仕草なんかは緩くて、気取ったところなんか欠片もなかった。かといって、舐めてかかれば返り討ちにあう、と予感させる空恐ろしさも隠し持っていて、やっぱり貴族らしいと言うほかない。

 彼と私が同期だと知ったのはしばらく経ってからだった。三つ年上だけれど、学校ではなく、今の占術師長の門下で学んできたから、遅れて入団したらしい。

 ともあれ、同期ということと、早めに顔と名前を知ったということが原因だったのだろう。あとは、私が目立つから声を掛けやすかったというのもあるかもしれない。何かにつけて頼まれ事をされることが多くなって、私も特に気負うことなくそれに応えていたのだ。すべて業務上関わりのあることだったから。私事を混ぜ込むような非常識さを持ち合わせていたら、私は全力で距離を置いていただろう。

 噂になるのは仕方がない。けれどそれを、


「最近、ギレス家のご子息が懇意にしてくださってるんですって?」


 母が曲解したのだった。

 急に実家に呼ばれて、久々に顔を合わせた直後にそう言われたから、私は思い切り顔をしかめた。


「懇意? 仕事上の付き合いをそう呼ぶとは知らなかったわ」

「恥ずかしがる必要ないじゃない。良かったわ、このまま一生独身で通すのかと思ってたから。そんなことにならなくて本当に良かった」

「……今のところそのつもりなんだけど」


 言いながら、嫌な予感がした。母は妙な行動力を持っている人だ。私の母だと言われたら納得するほかないけれど、敵に回すととてつもなく厄介になる。そういえば異様に上機嫌だ。

 鼻歌でも歌い出しそうな調子で、母は言った。


「あら、駄目よ。家格の違いを、向こうは気にしないっておっしゃってくださったんだから」


 ……は?


「明日、ご挨拶に行って、正式に婚約を結ぶことになってるのよ」

「ちょっと待って、何を勝手に!」

「ギレス様は喜んでいらっしゃったわ。きっと向こうも困っていらしたんじゃないかしら。ちょうどいいじゃない、お互い騎士団にいて、見知った相手なんだから」

「だからって勝手に話を進めないでもらえる? 私は結婚なんて――」

「その方のこと嫌いなの?」


 ずばりと聞かれて思わず硬直した。


「どうしても嫌いな相手だって言うなら仕方ないわ、なかったことにしましょう。まだお互い検討の段階だもの、どうにでもできるわよ。どうする?」

「それは……」

「あなたが頼み事をよく聞いてるって時点で、まんざらでもないのだろうなと思っていたの。そうでしょう?」


 言葉を失った私に、「ほら、明日の支度をしてきなさい」と母は勝ち誇った顔で言った。

 ……これだから母を敵に回すのは嫌なのよ!

 その夜は眠れなかった。眠れるわけないじゃない。いくらなんでも急すぎる。

 確かに、ジークのことが嫌いかと言われたらそうじゃないけれど。どちらかといえば――いや、それはどうでもいい。家が家である以上、結婚だのなんだのにある程度の制限や、強制力が発生することも理解している。……だから、彼で良かった。嫌いな相手ではないのだから、幸せなことだ。

 そう思いながら寝返りを打つ。

 でも、結婚なんて。きっといろいろな制限がつく、今まで以上に。結婚後って騎士団にいられるのかしら。やっぱり、辞めることになるのかしら。私はそれでいいの? 剣を極めようという志は、もう捨ててもいいの? ……ジークでなかったら、はっきり断れたのに。

 溜め息をついて、もう一度寝返り。

 待って、もしも向こうが私のことを嫌っていたらどうするの? いや、嫌ってはいないにしても、好きでなかったら?

 背筋がすっと冷えたような感覚がして――って、なんでそんなことに怯えなきゃいけないのよ! お互い貴族同士、愛のない結婚なんて覚悟の上でしょう? 知ったことじゃないわ!

 私は頭を枕に叩きつけて、瞼をぎゅっと閉じた。


(でも、どうせ結婚するのなら)


 愛されたいと願うのは自然よね――なんて、やだ、なにを考えているの? こんなの私の柄じゃないわ。


(……ああ、もうやだ、眠れない!)


 まんじりともできないまま、夜が明けてーーそして、その日がやってくる。私の人生が大きく変わった、その日が。


   ☆


「断りに来た」


 時間に遅れて、そのうえ普段着で現れたジークは開口一番そう言った。

 父も母も、ギレス公も硬直した。ジークの兄が額を押さえて溜め息をつく。私といえば――恥ずかしいことだが――何が起きたのか理解できなくて、ぼうっとしていた。


「やだよ、結婚なんて。婚約もしない」

「ジークムント」

「それを言うためだけに来たんだ。それじゃあ」


 と、即座に踵を返した彼の前に、彼の兄が立ちはだかった。


「ジーク、せめて理由を話していきなさい。その言い方では、まるで彼女を嫌っているように聞こえるよ」


 ジークはあからさまに眉をひそめながら、はっきりと言った。


「今は占術師として働くことに集中したいから。だから、結婚なんてしている暇はない」


 容赦なく、無慈悲に、情のために志を捨てる気はないと言い切られて。

 両断された気がした。

 私の甘えや、緩みや、妥協や――芽生えかけていた淡い、小さな恋心とか――そういった中途半端なものがすべて、断ち切られて消えていく。

 痛みは、一瞬だった。

 一瞬で過ぎていき、代わりに恥ずかしさがこみ上げてくる。恥ずかしい……ああ、なんて恥ずかしい! なんて浅はかなの! 一瞬でも、誰かに愛されて平穏に過ごすほうが幸せかもしれない、なんて考えて、唯々諾々と流されようとしたなんて!


「それに、嫌うも何も彼女とはしょ――」

「ちょうどよかったわ」


 まだ何か言おうとしていたジークを、私は遮った。


「断ってくださってありがとう。私も断りたいと思っていたの」


 両親が咎めるような目を向けてきたが、何も言わなかった。いいえ、もう何も言わせないわ。断ったのは向こうだもの。


「ギレス公、たいへん光栄なお話をありがとうございました。わたくしはこれで失礼いたします」


 できるかぎり綺麗に微笑んで、できるかぎり丁寧に礼をして、私は出口に向かう。

 ジークとすれ違う。彼は怪訝そうな顔付きで、私のほうをじっと見つめていた。何よ、何か文句があるの? 私を容赦なく振っておいて。少しだけ睨んでしまったけれど、これくらい許されてしかるべきよね。

 部屋を後にする。ヒールを高らかに鳴らして廊下を突き進む。

 決めた。二度とこんなドレスは着ない。二度とこんな化粧なんてしない。浮ついた心なんていらない。すべてを剣に捧げ、剣術を極めるのだ。当初の予定通りに。


(そうよ、むしろこれは好都合だわ)


 騎士団を辞めずに済んだ。今まで通り、好きなことをして過ごしていいのだ。これに懲りて、少なくとも数年間は、両親も私のことを放っておくだろう。ありがたいことだ。


(良かったのよ、望まない結婚なんていらない。そんなもの私の幸せじゃない)


 良かったのだ、と言い聞かせる。良かったのだ、これでいい。これが望みだ。私だってもともと断ろうとしていたのだし。良かった――。

 目頭の熱を意地で振り払う。

 ――もう二度と、誰かに心を傾けたりはしない。


   ☆


 それから数日間、ジークの態度はわずかによそよそしくなった。さすがの彼も少しは気にするのね、と思ったけれど、それに合わせてやる気はまったくなかった。普段通り、何事もなかったかのように振る舞う。正しくない噂を消すにはそれが一番。吹っ切ってしまった後は、かえってやりやすくなったぐらいだった。余計な感情がすっきり消えて、目標が明確になって、無駄に意識する必要がなくなったから。やがてジークのほうも元通りになると、噂は噂として消えていった。

 ――事の真相を知ったときには、もう十年の月日が経っていた。ジークはともかく私のほうは完全に行き遅れである。お互い、浮いた話なんてあれっきりで、噂されることすらないぐらいに枯れていた。一方で、彼は占術師長になり、私は第二大隊長になっていたのだから、志はほとんど果たされたと言っていいだろう。

 そんなある日に、偶然、ジークの兄のヴィルフリート様にお会いしたのだった。その頃すでに、ジークの父は亡くなっていたため、彼が家督を継いでいらした。


「やあ、カーミラ嬢。こんにちは」


 いまだに“嬢”なんてつけて呼ばれると、どうにもこそばゆい。いくら十歳近く上の方とはいえ、こちらももう三十一なのだから。こういうところ、本当にジークとそっくりだなと思う。異母兄弟だからか、顔立ちや体つきはまったく似ていないけれど、雰囲気なんかはそっくりだ。


「ごきげんよう、ヴィルフリート様。ご無沙汰しております」

「そうだね。最後に会ったのは――」


 と、ちょっと考えて、それからやや言いにくそうに、


「そっか、ジークとの婚約話があったときか」

「そうですね」

「あのときはごめんね。ジークのやつ、君が君だと分からなかったみたいで」

「……はい?」


 咄嗟に、言葉の意味が分からなかった。君が君だと分からなかった? それって……。

 ヴィルフリート様は困ったように微笑んだ。


「父が手紙で、婚約相手はカーミラ嬢だと伝えてあったんだけどさ。あいつ、ろくに読まずに捨てたらしい。婚約、って単語を見た瞬間に捨てたって言ってた」

「はあ」

「だからね、ドレス姿の君のこと、カーミラ嬢によく似た別人だって思いこんだらしい。父がわざと君に似た人を用意したんだと思って、余計に腹が立ったって」


 よく似たも何も本人だったのに、と彼は溜め息まじりに続けた。私はあっけにとられてしまって何も言えない。


「君が出ていった後になって、ようやく気が付いたらしくてさ。慌てふためいて“追いかけて謝らなきゃ”なんて言い出したものだから、こっちも慌てて止めたんだよ。もう遅いからやめろ、触れるな、ってさ。カーミラ嬢だと分かってたら婚約したのか、って聞いたら、それは……なんて濁すし」


 よく止めてくださった。さすが、賢明なご判断だ。いくら私でも、あのときに追いかけてこられたら激怒していたかもしれない。


「懐かしいな」

「ええ、本当に」


 懐かしい、と言えるだけの時が経ってしまった。私だって、あのときの焦げ付くような感情にはもう実感がない。結局、部屋で一人少しだけ泣いたのだ。悔しかったし、恥ずかしかったしで、どうしようもなくて。

 本当に若かった。若くて可愛らしくて、まだずっと柔らかかった自分を、私はあの夜に切り捨てたのだった。

 ふいに、ヴィルフリート様がじっと私を見た。


「ねぇ、カーミラ嬢」

「なんでしょう」

「もし今、ジークが君に結婚を申し込んだら、受けてくれる?」


 私は挑発するように笑う。


「彼が私に直接、面と向かってそう言えたなら、謹んでお受けしますけれど?」

「なるほどね。それはあいつにはちょっと難しそうだ」

「ちょうどいい試練でしょう。本気ならばそれぐらいしてもらわなくては」

「そうだね。あいつは一人でも平気な奴だし、欲しいものほど欲しいと言わないから」


 彼は兄らしくゆったりと頷いた。


「それにしても、カーミラ嬢には隊服が本当によく似合うね。ジークのあのときの気持ちが、少しだけ分かったような気がするよ」

「ドレス姿が想像できない、ということですか?」

「その姿が一番君らしくて美しいってことさ」

「……お上手ですこと」


 兄弟揃って、まったく。これで浮き名を流すことがないのだから、いったいどういうバランス感覚を持っているのだろう。

 私は苦笑して、辞去の礼をとった。

 ――そんな話をした数日後に、アラスタで堤防が決壊したのだった。

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