香りに誘われ口を滑らす。


 エッダ様がいらっしゃったのは、二十週目“祝宴”の終わる頃、俺がカーミラ様――じゃなかった、カーミラさんに軽々とあしらわれて地面に寝転がっているときだった。カーミラ様――カーミラさんは本当にお強い。これで左腕を負傷してるなんて、疑うわけじゃないけど、本当かよって思う。どこからどんな風に、どれだけ力をこめて打ち込んでも、さらりと流されてしまうんだ。今のところ、鍛えられているっていうよりは、遊んでもらっている、っていう感じ。情けないなぁ……なんて、灰色に曇った空を見上げながら思っていたところに、馬の走る振動が伝わってきたのだ。


「どなたか、いらっしゃるみたいです」

「あら、誰かしら――ああ、エッダね」


 カーミラさ、ん、は、なめらかな動作で木剣を拾い上げた。俺が落としたやつだ。来客とあれば授業はいったん中止。俺も背中の土を払いながら立ち上がり、出迎える準備のために家へ駆け戻った。


「師匠」


 師匠はいつものように、ソファの背に軽く腰をかけて、本を読みふけっていらした。ソファの上にはすでに読み終えたらしい本の山ができている。


「師匠」


 もう一度呼んで、ようやく師匠は目を上げた。目元に一瞬だけにじんだ“邪魔された不機嫌さ”はすぐに消えて、穏やかな笑顔がこちらを向く。


「うん、どうした?」

「エッダ様がいらっしゃいました」

「エッダが? 何だろう」


 師匠はぱたぱたと瞬きをして、本を閉じた。それをそのままソファの山のてっぺんに置き、首をひねりだす。


「うーん……ああ、そういえば、今朝の君の占い、逆位置の『完遂』と逆位置の『押し売り』に、正位置の『猫』だったね」

「はい、そうです」


 俺は本を片付けながら頷いた。


「『完遂』と『押し売り』がどっちも逆位置なのが気になるね。どうやらよくない知らせのようだけど、予想通りでもあるのか」

「『猫』が正位置なので、危険はないと思っていいですよね」

「うん、基本的にはね。ただ、三枚目に出てきた場合、前二枚への対応次第になることが多いから、油断は禁物かな」


 なるほど、そうなのか。ちゃんと覚えておこう。後でノートに残しておこうと決めて、最後の一冊を本棚に押し込む。


「あ、本。ありがとう」

「いえ」


 師匠は片付けが下手だ。というか、片付ける、という行動の優先順位が極端に低い。下手したら選択肢にない。放っておくと散らかす一方だから、こうやって定期的に片付けないとひどいことになってしまうのだ。ちなみに、集中を乱されると“ちょっと嫌だな”って顔をするけれど、読みかけの本を片付けられることについては何も気にしない。しばらくすると平気で続きを読み始めるから、どこまで読んだかきっちり覚えている――か、常に適当に読んでいる――のだろう。

 飲み物の用意は俺が手を出さないほうがいいかな、と思ったときに、玄関が開いた。


「ジーク、エッダが来たわよ」

「よお、兄弟子。ドゥイリオ」


 エッダ様はぞんざいに片手を挙げて、マントを脱いだ。占術師長の隊服をやや着心地悪そうにしていらっしゃる。

 じろり、と鋭い氷のような目が師匠を見て、それから俺を見た。


「しっかし、本当に変わりばえしねぇなお前ら。いや、ドゥイリオはちょっと背が伸びたか?」

「はい。少しですが」

「カーミラ様のおかげで食生活もまともになったろ。良かったな。兄弟子一人のためにカーミラ様が山奥へ籠もるとあっちゃあ損害がでかすぎるが、未来あるガキのためになってると思や多少は……いや、やっぱマイナスだな。お前らにカーミラ様はもったいねぇ。今からでも遅くねぇから騎士団に返せ」

「そういうことは本人に言ってくれ、エッダ」

「本人が選んだんだから言っても仕方ねぇだろ。八つ当たりだ、分かれ、ボケ」


 なるほど、とあまりよく分かっていないような調子で呟いて、師匠はソファに腰掛けた。キッチンのほうへ引っ込んでいたカーミラ様がいらして、紅茶をテーブルに並べる。

 何かお話があるのだろう。だとしたら俺は邪魔だ。そう思って部屋に戻ろうとした途端、


「待て、ドゥイリオ」


 エッダ様に止められた。


「お前にも関わりのある話だ。座れ」

「……はい」


 なんだろう、と思いながら、師匠に手招かれて隣に座る。

 エッダ様は何か言いにくそうなことを言うときのお顔をしていらした。それでなんとなく怖くなる。逆位置の『完遂』が脳裏をちらつく。あれは俺じゃなくて師匠を占ったものだけど。

 ふ、とひとつ短い溜め息をついて、エッダ様は振り切ったような顔になった。


「面倒だからぱっぱと言うぞ。――バルタザールの処刑の日取りが決まった」


 心臓が跳ねた。あの人の処刑の日取り。

 あの人のことは今でも俺の中で“あの人”のままだった。最初、顔を合わせたときに、あの人は名乗ってくれなくて。それでそのまま“あの人”が定着してしまったのだ。もちろん、今はもう知っているけれど。

 あの人が――何て言えばいいのだろう。殺されるとは違うし、死んでしまうとも違う――処刑される。


「“宵闇”の十五日目だ。執行の直前に、身内と関係者だけ、会って話すことが許されている。今回の場合は、兄弟子とあたしとドゥイリオだな。どうする、来るか」

「行かないよ」


 師匠は即答した。すると思った。予想通りだったのに、俺の胸がぎしりと音を立てる。


「僕が行ったら、アイツはきっと嫌がるだろうから」


 そう、師匠ならそう言うのだ。きっと嫌がる、と。嫌がっているのは、少なくともお互い様なのに。

 エッダ様がこちらを見た。


「お前はどうする、ドゥイリオ?」

「え」

「こいつが行かなくてもあたしは行くからな、お前が行きたいならついでに連れていってやる」

「エッダ――」

「黙れ、兄弟子。これはドゥイリオが決めることだ。そうだろ?」


 エッダ様に睨まれて、師匠は黙り込んだ。不服そうな顔になっているけれど、黙るってことは正論と認めているということだ。


「どうする?」


 改めて問われる。エッダ様に見据えられて、俺は耐えきれずうつむいた。

 考えが上手くまとまらない。言葉にならない。ぐちゃぐちゃでどろどろで、そのうえ焦げ臭い。でも待たれている。とにかく、聞かれたことに答えなくては。自分に正直に。


「俺は、行きたい、です」


 師匠が息を吸ったのが分かった。止められたり、理由を聞かれたりする前に――俺が怖じ気づいてしまう前に、急いで続きを。

 師匠のほうを振り向く。


「でも、俺が行くなら師匠も行くべきだと思います」


 え、と師匠がきょとんとした。


「あの、こんなことを言うのは、本当に生意気だと自分でも思うんですけど……」


 俺はなんとなくあの人の気持ちが分かる気がするのだ。本当に、なんとなく、でしかないし、それだって勘違いかもしれないけれど。

 師匠に行ってもらわなくてはいけない、と思った。自信はないけれど、そんな気がする。さいごのさいごまで、あの人は師匠の目に映らないのか――と、そう思ったら胸がきりりと痛んだから。

 ひどいことをされた、とは思っている。俺がまんまと騙されたことも理解している。けれど、それでも、分かるんだ。騙されたからこそ、分かる。

 俺はたぶん、あの人と同じものを抱えている。

 あの人と同じ――どうしようもない寂しさを。

 もしあの人の企み通りになっていたら、俺はあの人のようになっていただろう。もしも騙されたまま、師匠を――殺していたら――俺はたぶん、俺の行いを全力で正当化して、あの人のことをいよいよ盲信して、二度と止まれない人間になっていただろう。


「……師匠は、あの人の弟弟子なんですよね。だったら、さいごを見送りに行くべきだと思います。どんなに嫌でも」


 師匠は分かりやすく嫌そうな顔をしていた。けれど何も言わない。だから俺は言葉を重ねる。


「師匠が行かないのでしたら俺も行きません。……できれば、俺は行きたいと思いますが……でも、師匠に従います」


 我ながらずるい言い方だ。分かってて言ったんだけど。こうやって言えば、師匠は断らない。元々、どうしても嫌だ、というよりは、なんとなく嫌だ、というぐらいだと思う。――そして、そうやって“どうしても”と言ってくれないことが、余計にあの人を苛立たせたのだと思う……なんて、それはあんまりにもあの人に偏った見方かもしれないけれど。

 師匠は諦めたように息を吐いて、苦笑した。


「分かったよ、ドゥイリオ。それなら、僕も行こう」

「すみません、わがままを言って。ありがとうございます」

「いや、君が正しいと思うよ。僕はつい逃げてしまうからね。よくない癖だ」


 師匠はそう言って弱々しく微笑んで、そっとティーカップを持ち上げた。

 しばらくゆっくりとして、エッダ様は席を立った。先んじて馬を用意しておく。

 帰られる直前、俺から手綱を貰いながら、エッダ様は言った。


「説得してくれてありがとな」

「はい?」

「兄弟子さ。どうにかして引っ張り出してぇとあたしも思ってたんだ。あたしはもう何度か面会に行ってるから、話すことも特にねぇけどよ。……最期くらい、なぁ」


 そう言って、エッダ様は俺の頭を軽く叩くように撫でて、颯爽と馬にまたがった。お前は間違ってない、と言われたような気分だった。


   ☆


 あっという間に寒くなって、木々の葉がすっかり枯れ落ちた頃、その日はやってきた。

 騎士団に両脇を固められて、ゆっくりと監獄から出てきたあの人は、ひどくやつれていた。髭が伸び、髪の毛もボサボサで、突き出た頬骨とぎらぎらした目が異様に目立っていた。――囚人用の簡素な服と重たげな拘束具を、居心地よさそうに纏っていた。

 あの人は俺たちの前まで連れてこられると、師匠を見て目を見開いた。まさかいるとは思っていなかったらしい。そして嘲るように片側の頬を持ち上げる。

 掠れた声。


「無様な最期を笑いに来たか。いい趣味だな」

「笑いに来たんじゃない。見送りに来たんだ」

「ほう?」

「本当は来たくなかったんだけど。ドゥイリオがどうしてもって言うから」


 あの人はぎゅっと眉をひそめ、俺を見下ろした。


「余計なことを。嫌がらせとしては素晴らしい出来だな」

「あ、あの」

「恨み言なら言いたいだけ言うといい。どうせこれで最期だ。存分に罵れ」

「いえ――」


 俺は今日までずっと考えていた。この人に何を言おうか、と。償うために死ぬこの人の最期に、何を言うべきなのか、と。


「――恨み言は、もちろん、ありますが、でも、言いません。俺の人生は確かに、あなたによって狂ったけれど……でも、狂った先に、師匠がいました。あなたがいなかったら、俺は師匠に出会えませんでした。だから――その点だけは、感謝している、と、そのことを伝えたくて」


 師匠が頭上で驚いているのが気配で分かった。もちろん、あの人だって目を見開いている。俺は意識的に無視して続けた。


「幸い、本当に幸せなことですが、俺はこの先・・・で償うことを許されました。俺は、俺がしたことを絶対に忘れませんし――あなたが俺にしたことも、絶対に忘れません。良いことも悪いことも、全部、あなたのことは全部覚えています。だから――」


 寂しがらないでください。あなたはきちんと存在していたし、その存在は俺に影響を残した。悪い影響だけでなく、感謝されるような影響も。

 だから、あなたの命には価値があった。

 ――そこまで言う勇気はないけれど。


「だから……ええと……」


 まずい、言葉を見失った。言いよどんでパニックになって、ますます言葉がこんがらがる。


「ふっ、ははっ」


 突然響いた笑い声が、誰のものか一瞬分からなかった。


「はははははっ!」


 あの人だった。明るい声音。力の抜けた笑顔。嫌味など一切混じっていない笑顔になると、眉間の皺もなくなって、意外なほど若々しく見えた。

 あの人は笑いながら、くたりと膝を折った。深くうつむいて、その下で笑いを振り払うように溜め息をつく。


「はぁ、まったく……馬鹿じゃないのか、君は。物事を肯定的に捉えすぎだ。そんなんだから騙されるんだよ。今回の件で懲りなかったのか? 人の性が善であるなど、願望に過ぎないと知りなさい」


 彼は膝をついたまま俺を見ていた。いつかと同じような立ち位置だったのに、正逆がひっくり返ったような感じがした。どちらが正なのかは分からない。


「たとえ願望でも、俺は信じたいと思います」

「……好きにしろ」


 夕闇のような深い藍色の瞳が、軽く頷いて、君はそれでいい、と告げたように見えた。

 ふいに、その瞳の中に一番星がいたずらっぽく光った。


「ああ、だが、この先で償うというのなら、君にはまずやるべきことがあるんじゃないのか」


 やるべきこと?

 首を傾げた俺に、その人は言った。


「ヴァンダル清貧院に事情を説明したか?」


 あ、と俺は固まった。そういえば、この人に出会って、そのまま師匠のところへ直行したから、清貧院では“失踪した”という扱いになっていることだろう。まずい、すっかり忘れて放置していた。


「アラスタの共同墓地へは?」


 う。そういえば、その話をした。こっちは――忘れたふりをしていた。俺はまだ逃げ続けている。


「……まだ、です」

「その様子は、話してすらいなかったな」


 ふふ、と彼は愉快そうに鼻を鳴らした。ちらりと師匠のほうを見て、いっそう満足げになったから、きっと師匠は“面白くない!”って顔をしているのだろう。

 それから彼はゆっくりと立ち上がった。


「まぁ、せいぜい足掻くといいだろう。――濁るなよ」


 そう言って、彼はもう誰とも視線を合わせずに背を向けた。

 長い廊下の、この先は絞首台だ。首に縄を掛けられたら、後は一人にされ、外からの操作で床板が落とされる。誰も彼の死の瞬間を見届けないらしい。罪人の遺体は関係者による検分ののち、北の谷底に落とされる決まりだ。墓はない。

 あの人の姿が扉の向こうに消える。

 エッダ様が無表情で言った。


「あとはあたしがやっとくから、もう帰っていいぞ」

「うん。……行こう、ドゥイリオ」

「はい」


 俺は師匠の後について、あの人に背を向けた。


   ★


 首に縄がかかる。視界が布で覆われる。

 そんな状況だというのに、


「ふふっ」


 思い出して、意味もなく笑ってしまった。

 ジークムントのあの顔。アイツの知らない情報を俺が言ったら、途端に子供のようにむっとして、俺を睨んで。ああ、あれは本当に愉快だった。


「ふふふ……っ」


 笑いが止まらない。止まらなくて涙がにじむ。

 俺を忘れないと言ったあの少年を。俺に散々利用されて、騙されて、その挙げ句に“感謝している”などと言い放ったあの愚かな少年。――あの立派な少年。

 あの馬鹿よりもエッダが師になったほうがいいんじゃないだろうか。そのほうが絶対に彼のためになると思う。あのときに言ってやるべきだったか――まぁ、もう遅い。それに、あの少年なら誰が師であっても問題ないだろう。たとえ、あれだけの馬鹿であろうと。

 扉の閉まる音がした。いよいよだ。

 床板が落ちる。

 首に縄が食い込む――。


 師匠。


 俺は止まれなかった。止めてくれる人もいなかった。

 師匠――。

 あなたを殺して、後悔すらしなかった。そうするのが当然だと思った。

 師匠……。

 こんな結末を迎えたけれど、やっぱり後悔はしていない。もし時が戻ったなら、俺は同じことを繰り返すだろう。次はもっと上手に、完璧にこなして、完全に邪魔者を取り除いてみせるだろう。そうしたら、こんな結末にはならないはずだ。

 師匠。

 ――けれど、時が戻ることを望みはしない。もし時が戻って、もっと上手にできてしまったら、次はあの少年を濁らせるだろうから。


『あーあ、ったく、俺もたいがい、馬鹿なガキを拾ったもんだなぁ』


 師匠。そうだ、あなたは確かにそうおっしゃった。俺を拾ってくれたときに。


『ま、いいぜ。拾ったからには責任がある。俺がガキの世話をするなんて、とびっきりの“特別”だからな? 感謝しろよ』


 どうして忘れていたのだろう。

 師匠――


     おしまい

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