それでは、特別な淹れ方を教えよう。
朝起きたら自分の今日一日を占う。そして記録を取る。
『俺は几帳面じゃねぇから、日記ってなると毎日は無理なんだよな。占いならいけるんだけどよ』
そう言って、毎朝この机に向かっていた姿が思い起こされる。どうやら、相続した財産の中には彼の癖も含まれていたらしい――ああ、くそっ、まただ。思わず舌を打つ。彼を思い出すたびに、矛盾した感情が砂嵐のように渦を巻く。こんな矛盾を俺が持つはずないのに! すべて、俺を煩わせたすべてはすべて自然な状態に収まったのだから、もう――
――深呼吸を一つ。カードを切り、三枚引く。たったそれだけの小さな習慣で心が凪ぐ。
逆位置の『彷徨う追跡者』。正位置の『過去のもの』。正位置の『共鳴』。
(珍しい。不思議な三枚だな)
それもあの場所へ行く今日に限って。何かが起こりそうな予感を持たされるが、どうせ大したことにはなるまい。大方、何か忘れていたものを見つけるくらいだろう。
人混みに紛れ込めるよう、できる限り地味なマントを羽織った。家を出て、花を買い、それを魔法で隠してから南へ向かう。歩くのは嫌いだ。余計なことを考えるばかりで、いつまで経っても目的地に着かないような気になるから。無論、そんなことはないのだが。
一時間ほど歩いて、ようやく目的地の近くにたどり着く。
この辺りは治安が悪い。
ここ数年は、アラスタからの流入民が原因だ、と声高に言われているが、それは半分嘘だ。王都南の治安の悪さは根っからのものである。そこへアラスタ蜂起によって生まれた大量の失業者たちと孤児たちが流れ込んできて、町の規模が拡大したというだけ。
物乞いの数を数えながら歩けば、たった数メートルで両手の指が足りなくなる。数秒おきに別々の方向から怒鳴り声が聞こえてくる。こちらに向かって走ってくる子どもとは決してぶつかってはならない。摺られてもいい財布があるなら話は別だが。もし、どうしても人の命が必要ならば、裏道を歩けばいい。売ってくれる人に出会えるだろう。うっかり自分が売られる羽目になる可能性もあるが。
こんなところ、俺だって理由もなく歩こうとは思わない。ここは俺の生まれた土地だが、それが何だというのだろう。まともな建物も数えるほどしかなく、来るたび道が変わっているような町に、愛着なんて湧くわけがない。
(さて、どのルートが一番安全だろうか)
知らないルートを占うことはできないから、事前に見てくることはできなかった。かといって、こんな場所で占いの道具を広げたら何をされるか分からない。己の勘と感覚で進むしかない、というのは、毎年のことだが少々心もとなく思う。
少し先の屋台で怒号。意味のない叫び声を上げながら、十歳くらいの子どもが二、三人、脇を駆けていった。
そして、屋台の店主に頭を下げる少年がいる。
「本当にすみませんでした!」
「謝りゃすまされると思ってんじゃねぇぞクソガキども! 商品に手ェ付けたんだ、金を出せ金を!」
「俺が持っているのはこれだけです。足りますか?」
少年が布の袋を差し出した。厚みと音から察するに、それなりの額が入っているようだ。少なくとも、屋台の焼きムジネが五匹は買えそうである。店主がひったくるようにしてそれを受け取り、中を覗き込んだ。
その一瞬。店主の目が暗く光って、少年を一瞥した。
計算したのだ、と俺は察した。少年は、十五歳くらいだろうか、体つきはまだ育ちきっていないが、すっきりとした賢そうな顔立ちの子だった。――要するに
店主はその企みを目の奥へ巧妙に隠した。布袋をポケットにきっちりとしまいこみ、いかにも不機嫌そうに、横柄に腕を組む。
「足りねぇな。全っ然足りねぇ!」
「そんな……」
「あのガキどもは俺の商品のほぼ全部に唾吹っかけていきやがったんだぜ!」
「そうか、なら金貨一枚で足りるな」
――助けに入るつもりなどこれっぽっちもなかったのに、気が付いたら金貨を男の目の前に放り投げていた。
反射的にそれを掴んだ男が、呆けた目で俺を見る。
俺はそれを無視して、少年に話しかけた。
「道案内を頼みたい。シルヴェーヌ孤児院が今どこにあるか、知っているか」
少年の真ん丸の瞳が俺を見上げた。青空のような透き通った瞳。それが一つまばたきをして――やはり賢い子であるらしい――すぐに状況を飲み込んだ。
「はい、知っています。ついてきてください」
俺たちは素早くその場を離れた。予期せぬ巨額の収入を得た店主が、おこぼれを狙う連中にたかられて、さらに喉を嗄らす。この町はいつだって平等を好むのだ。
しばらく歩いてから、少年がふとこちらを見上げた。
「あの、ありがとうございます。助けに入ってくださって」
言葉遣いがずいぶんしっかりしていた。どうやら、きちんとしつけられているらしい。
「ヴァンダル清貧院か?」
「はい、そうです」
なるほど、合点がいった。最も王都に近く、教会が取り仕切っているあの孤児院にいるなら、この辺りの治安の悪さに慣れていないのも当然だ。
「この辺りへは来ちゃいけない、と言われているのに、下の子たちが勝手に入り込んでしまって。それであんな騒ぎに……」
「ちょうどいい機会だ、覚えておきなさい。あの手の人間に素直な謝罪は無意味だ。そして、この辺りにはあの手の人間しかいない。逃げるのが最も賢い選択だ。その点で、君は下の子たちにも劣っている」
少年がじっとこちらを見ている。素直な、綺麗な瞳。そのうえ、わずかながら
「さらに言うと、俺のような人間の言うことも聞く必要はない。適当なタイミングで逃げ出すべきだな」
「はい、あの……確かに……見知らぬ人には絶対についていくな、と言われています。ですが――」
彼は言いにくそうにこちらを窺いながら、ようやく言葉をつなげた。
「――その、さっき、一瞬だけ、王国騎士団の紋章が見えました。騎士団の方が悪いことをするとは思えないし……その……」
たったそれだけで? と詰ろうとした俺の口は、続く言葉ではたと止まった。
「シルヴェーヌ孤児院って、昔、火事で燃えてしまった場所ですよね? 当時の占術師長様が、その場所を墓地にして、管理所を作って、別のところに新しい孤児院を建てた、と聞いています。……毎年、火事が起きた頃に、花を持ってくる方がいる、とも」
思いのほか情報通だった。驚いて少し絶句した隙に、彼はすんなりと話を進めてしまう。
「今の安全なルートを知っています。任せてください」
「……この辺りは立ち入り禁止なんじゃなかったのか」
「ええ、決まりの上では。俺はめったに来ないんですけど、時々は年上の子たちと一緒に来るので」
少年はそう言ってにっこりと笑った。
見た目よりはずっとしたたかであるらしい。結構なことだ。
墓地は無事、そこにあった。さすがにこの場所の連中であっても、墓を荒らすほどの非常識は持ち合わせていない。墓守が優秀というわけではない、ということは、そいつが管理所の中で寝こけていることで証明された。
来るたび少しずつ墓の数は増えている。だが、最も古い石碑は中央に建てられたままだ。
シルヴェーヌ孤児院跡地。この場で散った幼き魂たちに、安らかな風を。――石碑に刻まれた文言は、彼が綴ったものである。
マントの内側から花を取り出し、石碑の前に置く。ひざまずき、手を組み、短く祈る。祈る言葉などとうに失ったが、ここに来ることはやめられない。矛盾。矛盾。矛盾ばかりが存在する。ああ、腹が立つ。
溜め息をついて立ち上がる。
ふと横を見ると、ただついてきただけの少年が、固く指を組んで祈っていた。目を瞑り、うつむき、眉根を寄せ、ひどく思い詰めたような様子で。
不可解さが不快に変わり、俺は尖った声を出した。
「どうして君が祈る」
少年は肩を揺らして、ぱっと指を解いた。俺を見上げた目がわずかに潤んでいる。
「すみません。俺……」
と、彼はまたうつむいた。
「俺まだ、行けていないなって、思い出してしまって……」
今度は不可解さが勝った。
「どこに?」
「……アラスタに。共同墓地ができた、ってもうずっと前に聞いたんですが」
「君はアラスタ蜂起で孤児になったのか」
俺の不躾な質問に、彼は素直に頷いた。
なるほど。つまり彼は――
――不意に、今朝の占いの結果が脳裏にまたたいた。
逆位置の『彷徨う追跡者』。目的のものが見つかる。ときにそれは、長く追い求めていたものである。
正位置の『過去のもの』。なにか忘れているものを暗示する。積極的に動くことを奨励する。
正位置の『共鳴』。賛同者の存在を示唆する。と同時に、それは復讐の成功をほのめかす。
正しい解釈をしよう。見つかるのは賛同者。そしてそれは、俺がずっと求めていたもの。――忘れていたもの、山奥に追いやって忘れたふりをしていたが、いまだに、ことあるごとに名前を聞く
それが今見つかったということか?
ならば――積極的に動け。
俺は少年の前に膝をついて、顔を覗き込んだ。
「彼らのために祈ってくれてありがとう。さっきはきつい言い方になってしまって悪かった。この場所に来るのは俺にとって、少しつらいことなんだ」
少年がおずおずと視線を上げた。目が合う。
「火事が起きたとき、俺はここにいなかったんだ。いたずらしたのを怒られて、逃げ出して……」
青い目があからさまに揺れた。その反応に、俺は自分の予想が当たっていたことを確信する。アラスタに共同墓地ができたのは五年前だ。家族を失っておきながら、五年間も行くのを避けているならば、そこへ行けない理由があるはず――たとえば、家族を置いて自分だけ逃げた、とか。
「戻ってきたらみんないなくなっていた。俺だけが生き残ってしまったんだ」
嘘は言っていない、少ししか。生き残ったのは俺だけではなく、五人。五人でろうそくにいたずらをして、逃げ出して――それが火事の原因になったかもしれない、と考え、恐れ、隠れたのだ。最終的に、関係なかったことは騎士団の調べで証明されたが。当てもなく彷徨っていた先々で、年下四人を食わせるために盗みを働いて、やがて師匠に捕まったのである。
『俺はガキが死ぬのを見るのがこの世の何より嫌いでね。ガキどもに目の前で死なれるくらいなら、俺が死んだほうがよっぽどマシだ』
師匠はそう言って、俺たち全員を保護した。墓地を造り、孤児院を建てた。
そうだ、俺は死にそうだったのだ。師匠に出会ったときは、盗みに入った店の店主に殴られて。――あのころは、アイツのせいで師匠が変わってしまって。
そんな昔のことを思い出しても、今度は砂嵐が起きなかった。そうだ、やはりこれだったんだ。俺にはまだもう一つ、障害が残っていた。
少年の拳が細かく震えている。
「あの、俺……俺も、逃げ出したんです。家族を、置いて……俺だけ……」
俺は驚いたように息を呑んでみせた。それから少年の肩に手を置く。
「言わなくていい。つらいだろう」
彼は唇を引き結んで、瞳を乾かそうと必死に目を見開いていた。
開かれた瞳ほど、魔力を注ぎやすい場所はない。
「……こんなこと、君に伝えるべきではないかもしれないが……」
慎重に魔力を流し込みながら、言葉を選ぶ。賢い子であることは察している。魔力もあるのだし、何よりアイツのところへ送り込むのだ。万全を期したほうがいい。
「……アラスタの悲劇は、ある男のせいで引き起こされたんだ」
「え……?」
「この墓地を造ってくださった人――俺の師匠も、その男に殺された」
「っ……」
少年が息を呑んだ。魔法で多少なり雰囲気に引きずり込んでいるとはいえ、素晴らしく素直な反応。
「俺は何もできなかった。何もできずに、みすみす……師匠を殺されてしまった。……君の家族も」
すまなかった、としおらしく謝る。少年はぶんぶんと首を振った。
「あなたのせいではないってことぐらい分かります。謝らないでください」
「ありがとう。……実は、俺は今、ひどく迷っているんだ」
「何に、ですか」
「……君を巻き込んでしまっていいものか、と」
曖昧にぼかした言葉の内側を、賢い彼は正確にくみ取った。純粋な――少しばかり透明すぎる――瞳が真っ直ぐに俺を見る。
「俺に、何かできることがありますか」
むしろ、君にしかできないことがある。
さあ、特別なコーヒーの淹れ方を教えてあげよう。
☆
ヨーゼフ師の家は、弟子ならば自由に出入りできるようになっていた。それは今でも変わっていない。
「おい、兄弟子、いるか?」
バルタザールは非番であっても、大抵家にこもっている。だから今日もいるだろうと踏んで来たのだが。
「珍しい、外か」
エッダは頭を掻いた。
「まぁいいか。本を借りに来ただけだし。書き置きでも残しときゃ大丈夫だろ」
書斎に入る。
と、デスクの上に開きっぱなしのノートを見つけて、思わず足が止まった。
(珍しいな。兄弟子が片付けを忘れるなんて)
好奇心に負けたエッダは、ちょっとだけ中を覗いた。今日の日付で、ささやかな占いの結果が記されている。師匠のようだな、やっぱり似たもの親子か、と微笑ましくなる。
「いい感じの結果だな」
逆位置の『彷徨う追跡者』。目的のものが見つかる。ときにそれは、長く追い求めていたものである。
正位置の『過去のもの』。なにか忘れているものを暗示する。積極的に動くことを奨励する。
正位置の『共鳴』。賛同者の存在を示唆する。と同時に、それは復讐の成功をほのめかす。
「……女か弟子でも見つけてくんのかな」
孤立しがちな兄弟子が忘れているもの、求めているものといえば、人のぬくもりだろう。彼に賛同し、彼に付き従い、時には彼を支えてくれるような良い人がそばに来てくれたなら、それは不遇だった過去へ復讐を遂げた、とも解釈できる。
「これを機に、兄弟子ももうちょっと丸くなってくれりゃあいいんだけどなぁ」
エッダは小さく呟いて、そのノートに背を向けた。
おしまい
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