さて、コーヒーを淹れようか。
井ノ下功
バルタザール
淹れる前に、ひとつの願いをかけて。
予兆は確かにあった。それは認めよう。
だが、挽回のチャンスもたくさんあったはずなのだ。そして結果がこれということは、俺はそのチャンスのことごとくを逃してきたのだろう。
「そういう運命だ、っつって、諦めるべきなんだろうけどなぁ」
息を吐いて、ゆっくりと体を起こした。たったそれだけで胸が苦しくなる。咳を抑え込んで、ベッドの上でもう一度溜め息。
「
ずいぶんと苦しい老衰もあったもんだ。老いるのは初めてだから、これが普通だと言われたら納得するほかないが。
サイドテーブルにノートが二冊積まれている。どちらもエッダに持ってこいと言ったものだ。そのうちの古いほうを手に取る。個人的な占いを記したノート。一四六九年の出来事。
「十七年前か。そりゃ、大きくもなるわな」
正位置の『押し売り』と正位置の『二十六通りの死因』、正位置の『静寂の西側』。それが、バルに出会う直前にした占いの結果だった。突然子どもがやってくる、先行き不安定――過去の俺はそんな解釈をしている。
「まぁ、間違っちゃいないな」
完璧とはとても言えないが。だいたい、『押し売り』と『二十六通りの死因』が正位置で重なった時点で、“自分に対して死が押しつけられる”と読み解くべき可能性を考えなけりゃならないだろう。それを丸っと排除してやがる。
……そんなだから、この様だ。
溜め息を重ねたとき、病室がノックされた。最大限の気遣いがされたささやかなノック。俺が返事をするより早く、扉はそっと開かれた。
騎士団長が俺を見て、顔をぎゅっとしかめた。
「なんだ、起きてたなら返事をしろよ」
「待つ気もなかったくせに何言ってんだてめぇ」
「このところは寝てばかりだと聞いていたからな」
「誰に?」
「エッダ以外にいないだろ」
それもそうか、と俺は頷いた。エッダは最後に入ってきた弟子で、口も態度も最悪なくせに存外繊細で気が利くところを見せるのだ。あとの二人とは大違い。
「ゆっくり座らねぇと、その椅子壊れるぞ」
団長は一瞬びくりと固まってから、そろそろと丸椅子に腰を下ろした。みしり、と音を立てて、ぎりぎりのところで椅子が耐える。後からついてきた大人しそうな若者が、半歩後ろにそっと控えた。
俺より
「で、何の用だ。わざわざ高等事務官を連れてこいなんて言いやがって」
「きっちり察して用意してきたくせに、しらばっくれてんじゃねぇよ。とっとと出すもん出せ」
「……遺言を用意するにはまだ早いんじゃないのか」
「ああ、俺の見立てじゃあ、まだあと一週間は猶予があるな。だが、まぁ、そんな見立てもあってないようなもんだし――」
喉に何かが引っかかったような感覚があり、一つ咳が飛び出したらもう止まらなくなった。団長が慌てた様子を見せたのが分かったから、片手を挙げて制する。しばらくすれば収まるのだ。
咳はひどく乾いていて、紙やすりを無限に吐き出しているような気分になる。一つ吐き出すごとに喉が擦れて傷ついていく。長く続くと血が滲むこともあるくらいだが、幸いにして今回はそうなる前に収まった。
呼吸を落ち着けて姿勢を正すと、団長と目が合った。なんとも情けねぇツラ。団長なんて座に収まって貫禄もついたが、根っこの部分はなんら変わっちゃいないらしい。
「少し話すとすぐこれだ。まったく最悪なもんだよ、老衰ってのは」
「本当に病気じゃないのか。老衰って年でもないだろう」
「その辺のことは医者に聞け。俺は門外漢だ。……ともあれ、こんな調子なんだ。ギリギリまで待ったら、ペンを持つことすら難しくなるだろうよ」
それに、と俺は続けた。
「いよいよってなったら弟子どもが来るだろうからな。その後に書いたら、ぎゃんぎゃんわめきそうなのがいるんでね」
「あぁ」
団長は苦笑して頷いた。バルとジークの仲の悪さは知っているらしい。エッダは気を遣ってあまり話してくれないが、俺がいないせいで悪化していることだろう。
「さて、もう書くことは決めてんだ。きつくなる前にとっとと書かせてくれ」
「分かった」
団長の指示に従って、事務官が素早く紙とペンを出した。占い用のノートと同じ、ナダァカモン製の紙と、スミレ色のインク。決して改竄されることのない特殊な記録。
今までの三倍くらい遅いスピードで、俺はようやく短い文を書き上げた。自分の署名ぐらいは、と思ったが、結局ペン先は震えて、情けない不格好なサインが刻まれる。
「読み上げてくれ」
「『ヨーゼフ・ガブリエル・レームブルックの死後、その財産はすべて養子バルタザール・レームブルックのものとなる。また、ジークムント・アルブレヒト・ギレスを、後任の占術師長に指名する』……これでいいのか」
「ああ」
「本当に? 一番弟子じゃなくて?」
「確認すんなよ。すげぇ悩んだ後だってのに。揺らぐだろ」
団長の暑苦しい目がじっとこちらを見ていた。真の意図を聞き出すまでサインはしない、と大音声で語っている。
俺は息の調子を慎重に確かめてから、ゆっくりと口を割った。
「占いの腕はどっちもどっちだ。どちらが上とは言えない、というか、状況によってまちまちなんだよな」
それはちょうど、カードの正位置と逆位置のように。同じカードであっても、正位置がほしい状況と逆位置がほしい状況はまったく別だ。
「バルはとんでもなく粘着質で、細かくてしつこくて、魔力の質も粘度が高くて重苦しくて、何より融通がきかねぇ――あ、これ褒めてるからな」
「本気か? けなしてるようにしか聞こえなかったぞ」
「褒め言葉褒め言葉。すげー褒めてる。そこがバルのいいところだからな。ジークはもちろん、俺も持ってない、あいつだけの“特別”だ」
綺麗な言葉を使うなら、“集中力が高い”とでも言うべきか。ともあれバルには、目標と定めたならば、それがどんなに遠くにあろうと必ず達成する集中力と持久力がある。そのうえ、目標の達成に必要とあらば、たとえ専門外のことであっても柔軟に取り入れるような、器用さと視野の広さも持っているのだ。一度定めた目標を簡単に変えられない、というところは、融通がきかないと言うほかないが、それが美点となるか欠点となるかは目標次第。
しかし、だ。
「人の上に立つには向いてない」
この一言に尽きる。
「リーダーの気質じゃないんだ、あいつは。有事の際には誰より頼りになるだろうけどよ」
あいつは“人に任せる”ということができないのだ。自分でやるのが最も早く、最も効率よく、最も上手くいくと思っている。それはそれで間違っちゃいないが、リーダーには向いていない。
なんとなく察しているような面持ちで団長は頷いた。俺は水を一口含んでから話を続ける。
「それに対してジークはな、あいつは本当にわがままな坊ちゃんだよ。またそのわがままに自覚がない、ってのが厄介なんだ。分かってて言うわがままならまだ可愛げもあるけどよ、さらっと無茶苦茶なこと言っておいて、それがどんなに無茶苦茶か分かってないできょとんとしたツラ晒されると、まぁ腹が立つぜ」
「それも褒め言葉か?」
「はぁ? 今のが褒め言葉に聞こえたのか。どんな耳してんだお前」
「今度はけなしてたのか……!」
「当然だろ。これはあいつの悪いところだ。直せっつったって絶対に直らない、骨の芯まで染みついた気質だ」
天性のものなのか、それとも生まれ育ちがそうさせたのか、あるいはその両方か。ジークには、他人が自分のために動くことを、当然のように受け止める節がある。さすがに礼ぐらいは言うが、“代わりに自分が”とは考えることすらしていないだろう。
「そのくせ、人の輪の中心にはだいたいジークがいる」
これもまた天性の気質と言うべきだ。わがままで自分勝手で、それなのになぜか愛されているのだから。
「人使いも、荒いと言えば荒いが、まぁ使えないよりは使えたほうがリーダー向きだろ」
「そうだな」
と、団長はにやりとした。
「こっちとしては助かるよ。ギレス家の三男のほうが何かと都合がいいからな」
「その辺のことは勝手にやってくれ」
政治的な争いごとは面倒で仕方がない。そういうところを加味しても、やはりジークが師長になるべきなのだろう。正当化された気分になって、心の中で唾を吐く。
立会人として団長の署名が刻まれ、効力を認められた遺言書は、事務官の持つ箱にしまわれた。俺が死ぬまで、二度と開かれることはない。
「じゃ、後はよろしくな」
「ああ」
団長はさっと席を立った。壊れかけの丸椅子を重圧から解放し――そのまま、うつむきがちに佇んでいる。
「なんだよ、まだなんか文句あんのか」
「いや」
彼はゆるゆると首を振って、軽く溜め息のようなものを吐いてから、ふと顔を上げた。老いの分だけ深く、色濃くなった緑の瞳。皺の増えた頬がぴくりと痙攣するように震えた。これで微笑んだつもりらしい。
「長く、世話になったな」
「おう、世話してやったな。まったく手のかかるガキどもだったぜ、どいつもこいつも」
「あんたその調子で星々の庭園に行くつもりか? 追い出されるぞ」
「いいねぇ、望むところだ。星々の庭園なんて退屈そうだからな」
「言ってろ」
そう吐き捨てたのを最後に、彼はもう何も言わなかった。ただ深々と頭を下げて、後は毅然とした態度で病室を出ていく。団長、というよりは彼――テオドールらしい別れの挨拶だ。事務官が軽く礼をして後に続いた。
陰鬱な静寂が戻ってくる。
「……ふぅ」
たったこの程度。わずかに話しただけで、もうだめだ。体を起こしていることすらつらくて、のろのろと横たわる。
独りだと余計なことばかり考えてしまう。本当にこれで良かったのだろうか。もう後戻りはできないが、しかし。
――本当に、ジークで良かったのか。
何千回と考えたことが、性懲りもなくまたやってきた。
先のことを占ったのだ。何度も、何度も条件を変えて、できる限り精密に、全力で。
この先、王国はこれまでになかった波乱に襲われるだろう。そして深い傷を負う。バルとジーク、どちらが占術師長になっても、傷を負うという予想に変わりはなかった。
だが――俺はぎゅっと目を瞑った――ああ、どうか、弟子たちよ。この罪深い師を許してくれ。
バルを占術師長にしたほうが傷は
王国が負う傷より、弟子の負う傷が浅くなるほうを選んだ俺を。
己のせいで国が傷ついたとなれば、バルはきっと独りで命を絶つ。あいつは己の失敗を過剰に責め立てる
――もしかして、こういう過保護がバルをねじ曲げてしまったのかもしれないが。
「悪い、二人とも……」
それでも、俺は、お前らが笑って死ねるような未来を選びたい。その可能性が少しでも高いほうを選びたい。そのためなら誰が犠牲になってもいいと思ってしまっている。俺はわがままでバカでどうしようもない愚か者だ。分かってる。分かってるよ。
だから殺されるのだ、と。
「俺がもうちょい賢けりゃあな……」
予兆は、気づいただけでは意味がないのだ。
神々の守る星々の庭園に、俺は行けないだろう。当然だ。すべてを見逃した挙げ句、未来までねじ曲げようとしているのだから。
何度目かも分からない溜め息をついたとき、ふと泥のような眠気に襲われた。意識が泥沼に沈んでいく。次に目を開けられるかどうかは分からない。自分でも分かるくらいに弱々しく、薄っぺらい呼吸しかできないのだ。いつ死んだっておかしくない。だが、遺言書はきちんと残した。
あと、俺にできることは――
(……どうか、みんな幸せに……)
――ただ、そう願う。
おしまい
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