テディベアの復讐

楠 悠未

第1話

 三日月の嘲笑を背に歩き回る。大声で泣くことも出来ない真夜中の町は冷たくて、裸の足は悲鳴をあげる。


 眠れなくなったのはいつからだろう。


 病院でもらった睡眠導入剤は悪夢を見る副作用付きで、飲んでも飲まなくても同じだった。

 極端で真っ黒な願望だけが肥大し、正常な自分がすり減っていく感覚。正常な、自分? せいじょう? 正常だったときが、あったでしょうか。果たして。正じょう。せいじょう、とは、なんでしょう?


 眠れなくなったのはいつからだろう。


 あの子の家へ遊びに行った日は、頭が痛くて痛くてたまらなかった。そこかしこに甘ったるい幸せの匂いが染み付いていて、グラグラに酔う。

 お父さんに買ってもらったというブロンドのテディベアが鎮座したベッドは、お姫様が眠る場所みたいで、棚に並んだ写真は家族みんなが笑っていて不気味だった。こめかみの締め付けに耐えながら食べたショートケーキの味は思い出せない。


 胸がむかむかして、このまま留まっていたら破裂してしまう、と思った私はあの子がトイレに立った瞬間にその家から逃げた。


 そう。

 私、

 逃げました。

 あの子のテディベアを盗んで。

 逃げました。


 枕元に置いたテディベアは、あの子の部屋にあったときより可愛くはなかったけれど、私は毎日一緒に眠った。ときどき、頬ずりもした。愛されたいので愛そうと思いました。

 でも、あの子と引き離されたテディベアは怒っているらしかった。

 テディベアは、ささやかな復讐として私の夢を食べるようになった。私の幸せがまぶたの裏にしかないことを知ったのだろう。私の心がふわふわするような夢はすべて食べ、代わりに悪夢を注ぐ。夢の中への逃避を許されなくなって、気がおかしくなりそうだった私が「返してよ!」と詰め寄ると、テディベアはクックッと笑った。気持ち悪くなって窓から捨てたけれど、翌朝にはちゃんと枕元に座っていて、隣の町に捨てても戻ってきて、もっと遠くに捨てたけれどやっぱり戻ってきて。罪、という言葉がふとよぎり。指の隙間から醜いものがどろりと溢れ。


 もっと、遠くへ捨てれば。もっともっと。もっともっともっと遠く、深く、埋めちゃえば。遠く遠く。誰にも見えない場所に。


 笑うテディベアを片手に抱き、這いずり回る。夜の澄んだ空気は痛い。

 眠らなくなったのはいつからだろう。

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テディベアの復讐 楠 悠未 @hanamochi_ifu

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