公民館にて

@me262

第1話

 だいぶ昔のことだ。

 私が幼稚園に通っていた頃、地元の公民館で大道芸の国際イベントが開催された。世界中の大道芸人たちが集まって芸を披露するというので、娯楽の少なかった当時は大勢の観客が集まった。私も母親と一緒にホールの観客席に座り、ジャグリングや一輪車、ナイフ投げなどを観て楽しんでいた。そして最後に、あの腹話術師がステージに現れた。

 どこの国の出身かはわからないが、日本人とは異なる顔立ちをした大柄の腹話術師は茶色の熊のぬいぐるみを小脇に抱えていた。腹話術に使うのは人形の筈。物珍しさに私は興味を抱いた。

 腹話術師は観客席に一礼すると、太く、アクセントの強い日本語でぬいぐるみに語りかけた。すると熊のぬいぐるみも腹話術師に甲高い言葉を返す。無論腹話術師は口を全く開いていないし、明らかに声質も違う。彼らがどのような会話を交わしたのかは覚えていないが、軽妙洒脱なトークに私も、他の観客たちも大笑いしていた。

 その内、腹話術師とぬいぐるみは口喧嘩を始めて、腹を立てたぬいぐるみが、もう帰ると言い出した。腹話術師は帰るなら1人で帰れ、できるものならなと挑発する。ぬいぐるみは甲高い声でわめきたてた後、なんと1人で床に降り立ち、珍妙なダンスを始めた。

「すごい!」

「何だあれ、ロボットなのか?」

 思いもよらない展開に子供たちは歓声を上げ、大人たちは驚嘆のどよめきを上げた。勿論私は前者だ。

 腹話術師は慌てて、勝手に躍り続けるぬいぐるみを追いかけてステージのあちこちを駆け回る。やがて2人は下手に立つと、揃って一礼して袖に消えていった。

 ホールは一際大きな拍手に包まれた。間違いなく、その日1番の素晴らしい芸だった。

 イベントが終わった後、興奮を押さえきれない私は、母親がトイレに行く間、待っていろという言いつけを守らずに席を離れて腹話術師を探しに行った。そして全くの偶然に腹話術師が使っているシャワー室にたどり着いた。

 もう1度あのぬいぐるみに会いたい。その衝動に突き動かされていた私は、何も考えずにシャワー室に入り込んでいた。棚に置かれた籠には腹話術師が着ていた派手な衣装が入っている。そして隣の籠には、あの熊のぬいぐるみが置かれていた。しかし、その様子は私の思っていたものと違っていた。

 それは脱け殻のようにすっかり萎んで背中を上にしていた。そしてその背中には全開にしたファスナーがあり、中身は薄っぺらいフェルト生地だけだった。

 この時、私は漸くそれまでぬいぐるみだと思っていたそれが、実は着ぐるみであることに気づいた。だが、これ程小さな着ぐるみなどあるのか?ステージにいた茶色の熊は、当時の私よりも小さかったのだ。

 部屋の隅には曇りガラスで覆われたシャワーブースがあり、激しい水音に混じって腹話術師と、もう1人の声が聞こえる。

 甲高く鋭い口調と、太い涙声から、腹話術師が何者かに一方的に責められているようだ。

 来てはいけないところに来てしまった。

 私は理屈抜きでそう感じたが、足がすくんでその場から動けず、シャワーが止まって曇りガラスのドアが開いていくのを見つめることしかできなかった。

 ドアが開ききり、腹話術師の毛むくじゃらで大柄な身体が出てくる。それに続き、小さな何かが姿を現した。そして、それを見た瞬間、私は気を失った。

 再び目を覚ますと、私は公民館のロビーにある長椅子に横たわり、母親が心配そうに見下ろしていた。職員が誰もいない廊下にうずくまる私を見つけて、母親を探してくれたらしい。幸いただ失神していただけで大事には至らなかったが、私は母親にこっぴどく叱られた。

 それ以来、件の腹話術師を見たことはない。シャワー室で私が何を見たのかも覚えていない。とは言え、子どもを育てる身となった今でも、テレビなどで腹話術師の芸を見かけると無意識に身構えてしまう。

 皆さんも注意した方がいい。彼の連れているのが、ただの人形なら問題ない。しかし、もしもぬいぐるみならば、背中にファスナーの有無を確かめることを薦める。あなたの、好奇心の強い子どもを守るために。

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