いつか、ぬいぐるみになるとしても

コオロギ

いつか、ぬいぐるみになるとしても

 二、三日前から、マンションのエレベーター横に、二体のぬいぐるみが現れるようになった。どうもこのマンション内の誰かがそこに置き去りにしたものと思われる。どちらも耳の垂れたイヌのぬいぐるみで、親子のようにも、兄弟のようにも見えた。

 彼らの頭上にはいつも『いってらっしゃい』『おかえりなさい』と吹き出しが出ている。馬鹿なことを、と思いながら、エレベーターが来る間ずっと目を逸らしていた。

 エレベーターに乗り込み、自分の住む階に到着する間、それでも押し付けられた罪悪感を振り払うことができない。……可哀そうに……見て見ぬふりをする俺は最低だ……ぬいぐるみだからって捨ててしまう奴が悪いに決まっている……仕方がない……俺にはどうすることもできない……俺が拾ってやればいい?……。

 冗談じゃない。

 いつ自分がぬいぐるみになってしまうか分からないのに、誰とも知らない他人にまで手を差し伸べられるほど、俺は子どもじゃない。


 父がぬいぐるみになったと母から連絡が入ったのは三か月前だった。ちょうど正月休みに入るタイミングだったので、そのまま実家に向かった。

 父はダイニングキッチンのいつもの席に座っていた。

 『おかえり』と吹き出しが云う。

「可愛くなっちゃったでしょう」

 母は困ったように笑って、すきやきの鍋をコンロの上に置いた。

 皿と箸は、赤いタコのぬいぐるみとなった父の前にも用意されていた。そこに、母によって卵が割り入れられ、菜箸で溶かれる。

「母さんが作ったんだ」

 朝のトーストとコーヒーの用意は母が、昼はそれぞれが好きなように別々でというのが彼らの間でのルールだった。父は自炊して食べることが多く、母は外食で済ますことが多かった。夕飯は父の担当で、いつでも一汁三菜をテーブルに並べるような人だった。

「まさかこの年になってから料理するようになるなんてね。わたしもびっくり」

「外で食べたらいいのに」

「悪いかなと思って」

 母は小さく呟いた。

 母が、母の作ったすき焼きをそれぞれの器によそう。ふわりと甘辛いにおいが食卓に漂う。

『おいしいよ。ありがとう』

 ぬいぐるみの頭上に吹き出しが浮かぶ。タコが牛を食うのか、と思う。父の器の中身は、一切減ることはないけれど。

「父さん、どんな感じなの?」

 気持ち声を落として、母に尋ねる。

 母は頬に手を当てて、少し考えるような間の後で、

「まったく同じではないのかもしれないわね」

 と云った。

 母の顔を見つめてみても、その表情を読むことがどうしてもできなかった。

 その後は黙ってすき焼きを食べた。母のすき焼きは、父のすき焼きの味によく似ていた。

 ぬいぐるみとは、何なのだろう。

 夜、ベッドに横たわって考える。

 翌朝目を覚ました時、もし、ぬいぐるみになっていたら。

 自分の中身が、すべて真っ白な、ふわふわの真綿に変わり、皮膚は赤や青や緑のカラフルなフェルトに変わり、目玉は瑞々しさのない干からびたプラスチックに変わり、鼻と口は茶色い糸で縫い付けられる。

 それのどこに自分は存在するのだろう。

 ぬいぐるみになったら分かるのだろうか。

 俺は。

 ぬいぐるみにはなりたくないと思った。

『またおいで』

 一泊だけして、翌朝実家を後にするとき、母にだっこされたぬいぐるみの上の吹き出しにはそう記されていた。母はタコの足を一本掴んで、ばいばい、と左右に振った。


 朝は何ともなかったはずだった。

 残業で疲れ切った状態で帰宅すると、エレベーター横の様子がおかしいことに気が付いた。近付くにつれ、それが何なのかが分かった。

 イヌのぬいぐるみの、片割れの首がもげていた。

 もう一体のぬいぐるみが、胴体だけのぬいぐるみの横でずっと『助けてください』『助けてください』を吹き出しを出し続けている。

「なんで……」

 深夜の玄関ホールは静まり返っていて、当然、ここには自分しかいないし、この惨状について説明してくれる誰かはいない。

 一メートルほど離れたホールの隅に、ぬいぐるみの頭部が埃にまみれて転がっていて、こちらに向かってあっかんべーをしていた。

 はっとして、押し忘れていたエレベーターのボタンを押す。

 早く帰らないと。

 今日は残業で疲れていて、だからさっさと風呂に入って寝て、また明日も朝から仕事に行かなければならない。

 目の端に、ぬいぐるみの吹き出しがずっとちらついている。

「……ああ、くそ!」

 エレベーターが一階に到着する音と、自身の吐いた悪態がホールに響き渡る。

 俺は乱暴に二匹とその頭部を胸に抱き上げてエレベーターに乗り込む。

 いつ自分がぬいぐるみになってしまうか分からないのに、誰とも知らない他人にまで手を差し伸べられるほど、俺は子どもじゃない。

 ただ、相手がぬいぐるみだからといって、あっさり切り捨てられるほど、俺は大人でもないんだ。


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