番外(1) : 学生に目覚めた日

「社長」

「……」

「社長!」

「……」

「しゃ~ちょ~う~!!!!」

「ああ、ごめん。ちょっと集中してたから」


 栗原はいつも通りの平常運転をしているのだが、社長秘書である秋江から見れば社長業を真面目にやっているとはとても思えなかった。

 この三時間パソコンの前から微動だにせず、ずっとディスプレイを眺め、ブツブツと独り言を言いながら目の前のソースコードを眺めている。


 通常バグの修正はそれ専門の人材が数名いるのだが、生憎今日は全員有給休暇を取っておりここには誰もいない。

 誰か一人は残るのが普通だろうというツッコミは社長一人で複数人分の能力を発揮し、問題を解決しているという答えでこの会社は通っている。


「多分この部分だろうけどな」


 難解なプログラムではあるものの、これは多分ハードウェア、つまりCPU側のバグではないかと目星を付けたのだ。

 メモリーの参照の仕方によっては通常は発生しないエラーが起こり、ブルー画面が表示されるということがわかったのだ。普通は行わない裏技中の裏技である『メモリーの盗み見』と『演算の疑似無限ループ』はデータ処理そのものの高速化はできるのだが、時折重症のエラーが起こる。そんなことを発見したのだった。


 バグがないプログラムは存在しないというのは事実だろうが、それはCPUにも当てはまることを知らない人は案外多い。そして現場だとCPU本体のエラーを上手く回避することも技術として求められる。一流のエンジニアだからわかる開発のツボだ。


「発想自体は良かったんだけど、CPUが対応できないんじゃダメだね。やり直しだ。そうチームの皆に伝えてください」

「あの、社長、今私がここに来たのはそう言う話じゃなくて、午後予定している業界団体での会食の件なのですが」

「ああ、アメリカの……何だっけ、あの有名な投資家を招いてするって奴ね」

「そうです。今回はIT業界が中心なので、社長も出席する予定になっていますけど」

「一力に投げといてよ。アイツの方がそういうパーティーには向いてるの知ってるでしょ」

「副社長から今回は社長に行って欲しいと頼まれています」

「このバグ修正が大変だから無理だと言ってくれないかな」

「もう、いつもそうなんですから。また春満さんに怒られますよ」

「いつものことだから大丈夫。ダイジョ~ブだよ」


 いつも頭の中は開発のことで一杯だから外部との接触は最小限にしている。だから人によっては一力孟あるいは妻の春満が社長であると思っている人もいるほどである。


「ゲンちゃん、また孟君に丸投げしたの」

「人聞きが悪いなぁ。今日は修正チームが誰もいないから俺がやるしかないの」

「それ、急ぎなの」

「まあ、来週中にはクライアントに出さないとな」

「そんなもの半日でできるでしょ。どうして出て行かないのよ」


 秋江から連絡を受けた春満の言うことは尤もで、外交的なことの大半を一力夫妻に押しつけられてきたから不満が溜まっている。


「だからいつまで経っても陰キャボッチ童貞なの。この台詞もう十年以上言い続けているんだからね。わかってるの」

「わかってるけど、売り物を作らないとマズいだろ」

「それをあなた一人でやってたのは昔の話よ。今は優秀なスタッフがいるんだから社長らしいこともやってよ」

「この次はそうするよ」

「いつもこの次ばかりじゃない……もう」


 春満に怒られることに耐性ができているから、栗原自身は特に何も感じていない。

 自分にできることはプログラム開発だけ。たまに経営者としての判断を一寸だけするのが自分の仕事だ。そう思って窓の外を眺めた。


 都心の高層ビルの最上階近くにこのオフィスはある。

 抜群の眺望だが、当たり前の風景にしか見えなくなった今、特に何かを感じることはない。流れゆく雲を見て、あんな風に行き当たりばったりに開発ができれば面白いのにと思うだけだった。



「明日からベトナムに行くの」

「え~、誰と」

「学校の友達とよ。昔は近場しか行かれなかったけど、働くようになったら海外も行かれるからね。ベトナムはフランス領だったから美味しい物があるって話だし」

「いいなぁ」

「貴女だって、学校時代のお友達とお食事を楽しんでいるじゃない」

「だって私の彼氏はその位しか時間が取れないし……この会社に転職させようかな」


 友達か、久しくそんな人間はいないな。

 女子社員の会話を聞いて栗原はそう思った。もう一度学校に通えばああいう会話に入れるのかな……学校ねぇ。いい思い出は少ない……そう言えば碧は今頃どうしているのだろう。あの頃の俺はどうしてたっけ。


 心に細波が起きた。



「社長、春満さんが……」

「さっき怒られたよ。いつものことだから放っておいて」

「いえ、その件ではなくて」

「何なの」

「先月の決算を見て欲しいそうなのですが」

「赤字じゃなければいいよ」


 赤字どころか、普通の暮らしをするのならば人生を何回もやれるだけの金は既に稼いでいるし、従業員への給料だって同世代と比べれば充分すぎる額を払っているはずだ。業績は伸び続けているからそれ以上を求める気は何処にもない。


「また春満さんに怒られますよ」

「いつものことさ。それより……学生か」

「何か言いましたか」

「いや」

「今、学生って言いましたよね」

「聞こえているならそれで良いじゃないか」

「秘書たる者、社長の言葉はきちんと理解しないといけませんから」

「わかったから、いつものように判子を押しといてよ」


 社長室の机の上には誰でも使えるように栗原の印鑑が置いてある。

 セキュリティが大丈夫かと言いたいが、秋江がきちんと管理しているので問題になったことは一度もない。



「学生ね、学生……俺にもワンちゃんあるのかな」


 その夜、いつもの開発用画面ではなく、大学の入試情報を見ていた栗原の姿を誰も知らない。

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