第86話 : 仕事モード

 碧が春満の所で正式に働くことになって、今日が初出勤だ。

 と言っても、今の住まいからの通勤時間は二十数歩程度。時間にして十秒位だ。


 書類をチェックするための別会社扱いだから当然独立会計で、碧の給料をどこかで捻出しなければならない。とは言え、碌に仕事がある訳ではないので当座は春満の給料を減らして碧に渡すという。

 東京の会社では俺同様非常勤の役員を務めていて、その給料は以前と変わらないから碧に渡すくらいの金額ならさほど懐は痛まないだろう位のことはわかる。

 仕事そのものは正式な監査ではないので誰がやっても問題は無いはずだが、いずれは会計関係の資格を持った第三者を入れた方が良いのだろうと言うことは俺でも感じているから、時間を見て高校の同級生で税理士をしている田中に連絡してみる予定でいる。


「あ~ら、いらっしゃい。いえ、お仕事だからお早うございますね。今日からよろしくお願いしますね」


 まだ仕事モードになっていない春満が上下スポーツウェアというラフな格好でやって来る。

 対する碧は初出勤だというので、シンプルな白いブラウスに濃紺のスカートといういでたちだ。


「春満さん、こちらこそよろしくお願い致します。それと、お仕事ですからどの様に呼べばよろしいですか」

「あらあら、そんなに畏まらなくてもいいのよ。今までどおり春満と呼んで」

「春満、ここはオフィスだという扱いだ。オンオフの切り替えはきちんとしないと」

「そうね。それなら私も仕事モードになるからちょっと待ってて」


 流石に会社では春満をお姉さん呼びしなかった。

 今、春満と言っても反発しなかったから既にある程度仕事モードに入っているのだろう。


「お待たせ」


 数分後に現れた春満は全くの別人だった。

 バッチリメイクに襟元にフリルがあしらわれた薄ピンクのブラウス。それに黒のタイトスカート。足下がスリッパでなければ東京のオフィス街にいても何等違和感のない格好だ。

 短時間でここまでできるのだからやはり只者ではない。


「それでは仕事の説明をするわ。ゲンちゃんも社外取締役として聞いていてね」


 出されたのは一枚の書類。事務分掌と各業務の具体的内容が書かれている。

 非常によく出来ており、やるべき事の概要が全て理解できてしまう。これだけのことができるのにどうして家事だけ……


「ゲンちゃん、ちゃんと聞いてるの。失礼なこと考えていないでしょうね」


 仕事だとこういう人の機微がわかるのもコイツの能力だ。だから交渉ごとなんかも無茶苦茶強い。ディベートに強いと言われるユダヤ人を相手にしても余裕で勝てるんじゃないかと思うし、実際ビジネス交渉では連戦連勝してきた。


「あの~、お仕事ってこれだけでしょうか」


 碧が不安そうな顔をして言う。

 もっともな疑問だ。確かに業務は示されてはいるが、やることは簡単な事務の仕事と接客だ。しかもこんな所に来る仕事関連の客はほぼいないだろう。


「他にもあるわよ。碧さんは事務職兼秘書だから、あとは私の身の回りのお世話がお仕事よ」

「碧は春満の家政婦じゃないぞ」

「あら、秘書とは仕える人が心地よく働けるように気配りをするのも仕事じゃなくて」

「だったらビジネス関連限定だ。来客以外のお茶を入れたり、食事を作ったりすることはプライベート扱いだぞ」

「お茶もお食事も仕事のパフォーマンスを上げるのに必要なの。だからそれも秘書のお仕事の一つだってわからないの」

「それ、事務分掌表にないだろ」

「あるわよ、ここに『社長の特命事項』って書いてあるでしょ」

「そんなこと言ったら、どんなことでも社長の命令と言われればやらなきゃならなくなるだろ。それこそコンプライアンス違反だぞ」

「特命事項は特命事項よ。範囲を絞れないからそういう書き方をするでしょ。孟くんの会社だってそう書いてあるわよ」


 うん、ああ言えばこう言うような理屈合戦では勝てない気がしてきた。

 今までも勝ったことがなかったし。


 その時、春満のスマホが鳴った。マンションのロビーにいるコンェルジュからだという。


「はい、一力です。はい……えっ、はい、今すぐ伺います」


 春満は大慌てになり、ちょっと席を外すと言って走るように外へ出て行った。

 アイツがこれほどの状態になることは滅多にないから、何かただ事ではないことが起きていることは俺でも分かる。


「あなた、春満さんが」


 うう、こういう場でもあなたと呼んでもらえるのか。嬉しくて今すぐにでも唇を合わせたくなるがグッと我慢だ。

 相手が春満なら大抵のことに心配は要らないから放っておいて大丈夫だと碧を落ち着かせた。



「皆さんお待たせ~」


 五分ほどで春満が帰ってきた。その後ろにもう一人。


「久しぶりだな。お前さん、結婚したんだってな」


 そう言いながら入ってきたのは春満の夫である一力いちりきつとむその人だった。

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