第85話 : 碧の寝息
九月になってもまだ一ヶ月夏休みがある
去年の今頃は受験勉強の追い込みをしていたことと比べると、今ののんびりした状態を申し訳なく思ってしまう。
そんな時ではあるが、碧の実家で稲刈りをすることになった。
参加するのはいつものメンバーに加えて、学校のサークルから何名か参加している。
未だに猛暑が続いているため、柔先輩が再び倒れないようにと蒼衣と重松が皆に呼びかけたのと献上などと言う名誉なことに参加できるのは滅多にある機会ではないと部長が伝えてくれたお蔭で参加者が増えたのだ。
俺の車の他に今回は春満が車を出している。
その車はスーパーカー(これに乗ってコ●トコ行くかぁ)ではなく、何とレンタルしたサロンバスだ。
彼女の免許は恐ろしいことに国内では公道を乗れない車がないコンプリート免許である。
原付から大型二種、けん引二種や自動二輪まで全て限定なしで乗れるのだ。これほど有能なのにどうして家事ができないのか。
乗り心地が違うということで、今回は俺の車には碧しか乗っていない。
「ゲンちゃん、空気を運ぶためにその車買ったの~」
そう言われたが、流石にエアサスペンション付きの堂々たるバスに普通のワンボックスカーが敵うはずもない。
野菜を貰っているお礼だと言って、レンタル費用は全て春満が出した。
そんなこともあって今や俺のサークルでは部員全員が「お姉様」と呼んでいる……世も末だ。
稲刈りそのものは梅雨時の草取りに比べれば簡単な仕事なのだが、その前にハザと呼ばれる刈った稲を乾燥させるための木枠を作らないといけないのと、刈った稲を綺麗に束ねるのが難しく、時間そのものは草取りと大して変わらないくらい必要となる。
ノコギリ鎌と呼ばれる凹凸がある刃の鎌を使うのだが、案外コツがいる。少し回すように切ると楽に作業ができるようになっていて、直線状に手を動かすとヘタに力が入って案外危険なのだ。
とはいえ、十分もすれば誰でも慣れるものなのだ。そして今回に限って春満が俄然上手い。刈るだけでなく稲わらを使って縛るのにはかなりの回数をこなさないと綺麗にまとまらない。それをアイツはとても速く且つしっかり固く束ね、それをハザに掛ける役割の学生に手渡していく。
「はい、次」
掛け声と共に束ねられた稲が宙を飛んでいく。
「お姉様、流石ですわ」
「ふふ、私の実力はこんなものよ。できないことはなくてよ」
嘘つけ。ここにいる奴全員にどれほど家事が出来ないかバラしてやるぞ。
「お姉様、ぜひ私達の顧問に就任してください」
「よろしくてよ。でも一つ条件があるわ。あそこにいる男性を私のお世話係にして欲しいの」
「後輩君をですか」
「そう、彼、私にだけ素直じゃないの」
「お姉様のお言葉とあれば」
「こら春満! 調子に乗るな!」
誰があんな奴のお世話係になんかになるものか。
「春満さん、ウチの旦那様をいじめないでくださいね」
「あら、碧ちゃん、貴女の愛する旦那様にそんなことはしていないわよ。あの人が私を軽く見てるからいけないのよ」
「あれは春満さんに対する愛情表現ですから、許してあげてください」
「素晴らしい夫婦愛ね。そういう訳で部長さん、交渉決裂みたいですから顧問の件は次の機会までお預けですね」
当たり前だ。次の機会なんて絶対にないぞ。
「それでは柔さん、この課題は次期部長に託しますからね」
「はい部長、前向きに対処致しますからご安心ください」
そんなことしなくていいぞ。碧、柔先輩に何とか言ってやれ。
「柔、そういうことは……」
「冗談よ。私が後輩君を誰かのお世話係になんかしませんから」
「柔ちゃん、あとでお姉さんとよ~くお話ししましょうね」
そんな冗談交じりの(春満にとっては真剣なのかも知れないが)会話をしながら稲刈りは進んでいった。
碧が前日から仕込んでおいた食材を一太郎さんの家で調理した昼食を食べ、午後三時過ぎには全てが終了した。
脱穀や籾摺りは献上品になるかも知れないというのでJAの人達が参加して実施するというから俺達の仕事はここまでだ。
帰りも俺と碧の二人だけだった。
彼女は疲れたのか横で寝息を立てている。
赤信号で止まった時に横目で見れば、どこか安心しきったような脱力した口元をしていた。
こういう姿が見られるのが夫婦かと思った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます