第78話 : その気になれば
春満が焼いたホットケーキ、それが今自分の口の中にある。
ホットケーキがホットケーキの味をしている。当たり前のことを言うんじゃないと怒られそうだが、俺にとってこれは天地がひっくり返るほど驚くべき事だ。
「!」
だから言葉が一切出ない。
こんな日が来るなんて俺、ひょっとしてこのまま死んでしまうのだろうか。
「ゲンちゃん、失礼なこと考えてないでしょうね」
失礼なことなぞ何も考えていない。純粋に褒めちぎってあげたい(が、驚きすぎて身体が動かない)。
今までホットケーキを食べてこれだけ驚いたことは後にも先にもない。作る人が作ればホットケーキも人を感動させられるのだ。
「春満さん、これ!」
「お姉様、普通の味がします」
普通の味をいちいち目を輝かせて言うかとツッコみたいが、碧母子より付き合いが長い俺の方がもっと信じられない。何が起こったんだ。
「柔ちゃん、普通の味で感動しないでちょうだい」
「で、でも……」
「この間、碧ちゃんが料理教室で教えてくれたでしょ。私は本当は出来る子なのよ。それを見せただけよ」
しれっと言うな。
確かに夏休みに入って一度料理教室をやった時、カボチャの冷製スープとチーズケーキを作った。その際に余った時間を使ってホットケーキを作ったのだ。
春満がその時──そう言えばホットケーキがきちんと出来たと言っていたような。誰でもそれなりに出来ることを何を今更とスルーしていた──それが春満にとって如何に重大なことかを理解していなかった。
「春満さん、充分美味しいわよ。私が作る物と寸分違わないわ」
流石にそれは言いすぎだと思うが、充分満足できる物だ。
「ねえ、私が作ったことを証明するビデオを撮ってもらえるかしら」
そう言いながらスマホを渡してくる。旦那に自分が進化している様子を送るらしい。
「フンフン、フ~ン」
何をするかと思えばまだ残っている材料を使い、フライパンでこれからもう一枚作るらしい。鼻歌を歌いながら余裕の表情で手を動かしている。
既に何枚か作っているから手際が良い。これがあの春満かと思ってしまうくらいだ。
「春満さん、素晴らしいわ」
「でしょ、碧ちゃん、いくら褒めてくれても構わないからね」
いやぁ、昔の春満を知っていれば褒めるどころか崇め奉りたい位だ。
「やればできるじゃないか」
「そうよ、ゲンちゃんのヘタレと一緒よ。その気になればできるのよ」
余計なことを言うな。褒めるのをやめるぞ。
「お姉様は他の料理も出来るようになったのですか」
「うっ……」
「ほら、どうした」
「そ、それはね、何事にも段階というのがあってね。出会いからデート、ボディタッチ、キスとか色々と順番があるのよ。私は今は料理に出会ったばかりだから、その次はちょっと先かな」
その例えは一体何なんだ。ホットケーキの次の段階を教えてくれ。
「それならお姉様は次に何を作るつもりなんですか」
「そ、そうね……」
「次はパンケーキじゃないか」
「ゲンちゃん、茶化さないでよ。まだ分からないけど次もちゃんとした物を作るんだから」
その決意は凄いな。
「春満さん、次も一緒にやりましょうね。私もこうして教えている方が上達しているのを見るとやる気になりますから」
「碧さん、貴女は私の心の友よ。願わくば一生付き合って頂きたいわ」
「ご心配なく、夫ともどもお世話になりますから」
「え、今なんて……」
「あの~、知らないのですか? てっきり知っているものかと」
「ゲンちゃん、お姉さん聞いてないわよ。詳しく教えて頂戴!」
それから一昨日以来のことを春満に教えた。柔先輩が知らなかったこともあるので、どうせだからと全てオープンにしてしまった。
まだ籍を入れていないが、俺としては夫婦になったつもりでいる。
夏休み中は無理だろうが、この先、学校の長期休暇時に碧母子と三人で新婚旅行めいたものをやりたいと思っているし、結婚式はしないでも婚礼衣装での写真は撮っておきたい。これからの夫婦としてのイベントは色々と考えているのだ。
「ねえゲンちゃん、あとで記念のプレゼントを渡すから期待しててね」
不敵な笑みを浮かべ、春満はパンケーキを口にした。
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