第70話 : 誰のために生きるのか

「ゲンちゃん、碧さんとの話は終わったわよ。私は戻るから」


 春満が帰っていった。

 碧と何を話したかは知らないが、あの様子だと悪い結果ではないだろう。

 春満が碧と一緒に暮らすのはかまわないし、本人が望むことを応援してやりたいと思う。ただ、俺を旦那のスペアと思われるとそれは辛い。俺にとっては碧が唯一にして一番の存在なのだから。


「ゲン君、話があるの」


 春満との話のことだろう。声が少しだけ震えているように感じるのは、春満のテンションと落差があるからか。

 リビングのソファに座り、その顔を見れば唇がピンと張っている。


「さっき、『このまま一緒に住んで欲しい』と言ったでしょ」

「うん、まあ……迷惑だったか」

「ううん、正直嬉しかった。でも私は凌雅さんを裏切れないと思ったの」


 だよな。


 それから凌雅さんについての話をしてくれた。

 一緒だった頃の暮らし、亡くなった理由、今の思い。


「ゲン君のことが今でも好きよ。これは誓って嘘偽りがないわ」

「う、うん、ありがとう」

「でもね、多分私は凌雅さんを一生忘れられない。その上で厚かましいのは承知でゲン君と一緒に住みたいの」

「そっか」

「火事の日にゲン君にお世話になった時、私とは住む世界が違うと思ったわ。でもゲン君自身は何も変わっていなかった。暮らすのに精一杯で凌雅さんをどこかで忘れかけていたから、そのままこうして一緒に住まわせて貰っていたけど、体も心も少し余裕が出来たら凌雅さんを忘れてはいけないことを思いだしたの。だから……」

「俺から離れようと」

「ごめんなさい。私は自分の気持ちを封印していたの。そのことでゲン君も凌雅さんも傷付けることになるなんて知らずに」

「俺はともかくその……前の旦那さんを傷付けるって」

「あの人はね、お金が本当に無い時に私に愛を囁きながら、『柔と碧の幸せが最優先だから、どこかで良縁があれば俺は譲るよ』と言ったことがあるの。でね、その時私は初めて凌雅さんを叩いたの」


 叩く? この碧が?


「私を舐めてるの、ってね。私は『何があってもあなた以外は愛しません』って言ったわ。でもゲン君に会ってその気持ちが揺らいだの。知らないうちにゲン君が凌雅さんを追い出しているように感じてしまって……柔だって……」

「だからあんな風に他人行儀になったのか」

「ごめんなさい。私はそれでゲン君に嫌われても仕方がないと思ったし、その方が踏ん切りが付くと考えたの。でも……でも柔がそれをどう思うか……」


 碧の眼から雫が落ちた。


「碧の気持ちは何となく分かったよ。でも、一つだけ確認したいんだ。碧は誰のために生きて、誰のために俺と一緒に暮らしたいんだ」

「それは勿論……」

「うん」

「み、みんなの為に「なら、ダメだよ」」

「あのね、これだけはハッキリして欲しいんだ。俺は碧が幸せになって欲しいし、柔先輩も幸せになって欲しい。その上で碧が凌雅さんを忘れないのも当たり前だと思っている。だだし、俺は彼のスペアでありたくはない。捉え方は違えど唯一無二の存在でありたいんだ」

「勿論、ゲン君に替わる人はいないわ。凌雅さんと並べるのは間違いだって分かっているし」

「凌雅さんの喜ぶ顔が見たくて、とか柔先輩が喜ぶ姿を見たいから俺と一緒になるということではないよね。それだと他人のために我慢をして生きることになる。それは碧の為の人生ではなくなるよ」

「うう……うわぁ~ん、わんわん……」


 誰のための人生かなんてきっと考えてこなかったんだろうな。

 俺としては碧はもっと自分勝手であって欲しい。もちろん誰かのために生きることが悪いことじゃない。ただ、それを最終目標にして欲しくない。

 自分の幸せのために、自分が満足するために誰かに尽くす──自分による自分のための人生でなくてどうする──他人の満足だけが目的ではないはずだ。


「碧、キツいことを言ってごめん。でも、俺も君も子供じゃない。お互いの立場という物があるし、それを承知している。だからこそモヤモヤした物を抱えていたくないんだ」

「うん、グス……うん」

「凌雅さんと比べても構わない。それでも彼の為じゃなく、自分のために俺と暮らしたいのなら俺は絶対に拒まない。俺だって碧と一緒にこれからの人生を過ごしたいんだから」

「グス、ゲンく~ん」

「細かいことはともかく、碧は碧自身のため俺と一緒にいてくれるかい」

「もちろん!」


 それでいいよ──って、これもプロポーズみたいだよな。

 陰キャボッチ童貞の俺がこういう事を言えるんだ。ははは……


 碧の隣に座り、まだ涙を流している彼女の背を擦りながら「宜しく」と囁いた。

 返事の言葉はなかったが、碧は大きく背を曲げた。

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