第66話 : 固い想い(碧の眼)
私はゲン君にプロポーズされたのだろうか。
この部屋くくる前に言われた最後の言葉──『このまま一緒に住んで欲しい』──の意味についてベッドに寝転んで考えている。
私はゲン君と結婚してはいけない。その気持ちに変わりはない……はずだった。
夫である凌雅さんを心から愛していた。絶対にこの気持ちに偽りはない、それは断言できる。
でも……
昔みたいにゲン君に惹かれている自分がいるのも事実だ。
とても真面目でとても不器用で、コンピュータにだけ詳しくて、女心なんてこれっぽっちも理解できなかった彼だ。プロポーズみたいな言葉を無意識に言ったとしても不思議はない。
それを嬉しいと思ってしまった自分がいる。凌雅さん以外を夫にするなんて考えたこともなかったのに。
仮に私が同居の申し出を受け入れてもゲン君なら私を引き留めるはずだ。ずるいようだけどそのイニシアチブは事実上私にある。だからと言って出て行くという選択肢も採りにくい。打算的なことで言えば生活費の問題もあるし、何より柔がゲン君に懐き始めている。
柔は大変生真面目な子だから男性への警戒心は結構強い。そんな子が私達と一緒に食卓を囲み、後輩となる
いつも経済的に辛い思いをさせてきたからどこか捻くれた子供に育ててしまったとずっと後悔していたけど、今の柔はどこにでもいるコミュニケーションがきちんと取れる女子大生だ。蒼衣さんも月さんも後輩だけど柔がちゃんと面倒を見ているし、彼女達が懐いているのもわかっている。それは全て裏にゲン君がいるお蔭だ。
衣食住に困らない安心感はここまで人を変えるのかと思ってしまう。
私の心が変わっていくように……
ゲン君は昔から変わっていない部分もあるけど、有名企業の経営者だっただけのことはあって、経済的な面ばかりでなく、行動面でも支えられっぱなしだ。
とんでもないお金持ちだけど尊大な部分はないし、金銭感覚も(このマンションを即金買いしたなどという事実を除けば)さほど世間離れしているとは思えない。山菜を採ってきたり、野菜を頂いたりと私からすれば好ましいくらいの慎ましさを感じているくらいだ。
今の状況に不満はない。
いや、不満がないことが不満なのか。
いつも逆境を感じてばかりいた自分からすると拍子抜けするくらい平穏な日々が過ぎている。これで良いのかという思いを感じることも度々だ。その位ゲン君と再会してから日常が変わっている。
「でもね」
ゲン君と過ごしていればいるほど凌雅さんを意識しなくなっていく自分が嫌いになる。
「あなた……私はどうすれば」
私が心もカラダも許したのは凌雅さん一人だけだ。この先もずっとそうだと決めていたのに。
「ふう」
いくら考えても何の結論も出ない。
何らかの答えを出す必要があるというのに、頭の中が全然整理できない。
合理的な判断をするならば答えはイエスだ。ゲン君は絶対に私を裏切らないだろうし、そのことで安定した暮らしが手に入る。
一方で今までの私は何だったのだろうという疑問もある。
誰にも話したことはなかったけど、三十代まで私には再婚話が沢山あった。私には勿体ないとしか言いようがない人が複数いたし、実際に会った方からは真剣な交際をお願いされたことも何度かある。そんな方には失礼だったけど、間に入る人から頼まれて会っただけで、自分の気持ちを変えるつもりは毛頭無かった。
私は凌雅さん一筋の人間。
私達のために犠牲になった彼を裏切れない。
それをずっと貫いてきたというのに、今更……この気持ちは何なのだろう。
恋心ではない。それなら昔ゲン君と付き合っていた頃に経験している。
ゲン君と離れるのが辛い。
一緒にいてはいけないと分かっていても今の自分に甘えているダメな自分がいる。
そしてそれを心地良く感じている自分がいる。
「碧ちゃん、失礼して良いかしら」
部屋をノックする音と共に聞こえてきたのは春満さんの声だ。ゲン君がさっき話していたことを言われるのだろう。
春満さんの下で暮らすべきか。そうすれば凌雅さんへの誓いは守れるのだけど。
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