第65話 : 一緒に

「私と一緒に住んでいることをどう思っているの」


 俺への重い問いだ。同時に碧自身にとっても重い判断となるのだろう。

 この場合どう答えるのが正解なのだろう。

 碧と一緒にこのまま住むことができればそれで構わない。だが、その判断をするのは俺ではない。彼女にそう判断して貰うにはどんな言葉で語れば良いのかを必死で考える。


「うん、まあ、な」


 適当な言葉が簡単に思いつかない。焦れば焦るほど一緒に住んでいて欲しいという思いばかりが先走り、付随する言葉が振り落とされていく。

 何か言葉がないのか。

 その裏側で栗原、お前の語彙はその程度か、それで良く文学を学びたいなどと言えるなという悪魔の叱責が聞こえてくる。


「一緒にいてとても安心できるよ」


 捻りも何もない。ただその時思っただけの言葉。

 四十歳を過ぎて俺はこの程度の経験しかしてこなかったのかと絶望したくなる。


「安心って、どういうこと」

「それは……」


 それ以上の意味はない。碧と一緒にいると心が安らぐんだよ。本当に落ち着いていられるから、たまに来る仕事関係の案件やら講義の復習などがとても捗る気がしている。

 一緒にいるだけで支えて貰っていることを改めて理解した。


「碧がいるだけで俺は心が安まっている。だから色々なことに全力投球できているんだ。一緒にいてくれることを感謝しているよ」


 そう返せば、彼女は瞬間湯沸かし器のごとく顔を真っ赤にした。


「いや、私達はゲン君にお世話になっているだけだし、迷惑を掛けていないのならそれで充分ありがたいと思っているわ」


 迷惑だと思ったことは一度もない。

 春満相手なら何度もあるが、それだって碧に救われている。何となれば春満は俺以上に碧に迷惑を掛けている。春満の所で住まわすなんて鬼畜な所業が俺に出来る訳がない。


「迷惑だなんて考えないでくれ。いてくれるだけで有り難いんだから」

「ううん、こんなに私達に良くして貰って申し訳なく思っているのよ。私だけでなく柔までお世話になっているんだから……これは本当の本当の本心よ」


 そこまで強調されるほど感謝されなくても……碧の眼は本気だ。真っ赤な顔の中で瞳が優しく光っている。


「だから……もう一度聞くわ。ゲン君は私にどうして欲しいのか。ゲン君は私を縛りたくないのだろうけど、私の生殺与奪はゲン君にあるのも事実なのよ」


 そう言われて俺が碧を縛っている事実を知ってしまった。確かに俺が碧親子に対してここからの退去を命じれば彼女達に拒否権はないだろう。勿論そんなことをする気はないし、絶対にしないと断言できる。だが、彼女達からすればそうは思わないだろう。

 俺を怒らせないために俺に対して気を遣う。一番して欲しくないことだが、逆の立場なら俺だってそうするだろうからこの二人が悪い訳ではない。


「そんなことは考えたこともないよ。だって……碧も柔先輩も俺にとって大事な人だ。だから……仕事はともかく春満の所に行かないで欲しい。できれば……強制は絶対しないけど、このまま一緒に住んで欲しい」


 これは俺の我が儘だ。子供のような理屈、いや、理屈も何もない、ただ一緒にいてくれればそれで俺が安心できるという俺のための我が儘だ。もっと言えば碧の元夫に対する冒涜なのかも知れない。それでもこの勝手な気持ちを仕舞っておくことは出来なかった。


「ゲン君、それって……」


 あれ、反応がおかしい。

 そして気が付いた。先程の自分の言葉は捉えようによってはプロポーズに聞こえるかも知れないと。


『このまま一緒に住んで欲しい』


 話の流れからこの言葉しかなかったとはいえ、この一言の重さを理解したのは碧が自室に向かってからのことだった。


「ヤッホー、ゲンちゃん、約束どおり来ましたよぉ」


 頭を抱えている時に聞こえてきたのは、頭痛の種を増やすだけの声だった。

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