第63話 : 斜め上行く話

 梅雨が明けた。七月いっぱいが前期の授業となるので、最後の仕上げとばかりにテストが続いている。英語、現代文学、古典文学、近代史学、コンピュータ演習など。後期になれば学部ごとの専門科目がコマに入るのだが、今回は教養課程だけなので、高校の延長戦のようだ。

 コンピュータ以外は楽勝とはいかず、ノートや教科書を見ながら復習するのは大変で、年齢と共に学習能力が衰えていくのは本当だと実感する。十八歳が大学で学ぶことの意味を理解する。何歳になっても勉強そのものはできるが、その吸収速度──時間を尺度にすれば時間的コスパ、今はタイパって言うんだっけ──は圧倒的に若い連中には敵わない。


「まあ、赤点は取らないだろ」


 中でも英語は特に大変だった。

 初心者向けのロシア語(火星語?)の方が親切丁寧に教えてくれたのだが、英語となると受験でやったでしょ位の感覚でもの凄く難しい文学評論の輪読など言うことをしていたのでハッキリ言ってさっぱり分からなかった。

 それでも半分くらいは正答できたとは思っているが……


「栗原っち、できたの?」


 食堂で昼を一緒に食べている重松がそう訊いてくる。


「ゲンちゃんなら当然できるわよね」


 何故かここに春満がいる。

 うちの大学の学生食堂は誰でも利用できるようになっていて、勿論殆どが学生なのだが、ランチを楽しむ近所のマダム達や作業服姿の男の人達がいたりするのが日常の風景だ。

 春満は会計のチェックをする会社の代表で、日中は仕事がある筈なのにそんなものは滅多にないから大丈夫だと言い、こうして学生気分を味わいに来ている。実際は昼飯を自分で作れないからだろうが……


「そんなに甘いもんじゃない。はる……お姉さんだって大学を出てるから分かるだろ」

「あ~、また春満って呼ぼうとした。学習の効果がないわよね」

「お姉様は勉強が得意だったのですか」

「もちろんよ、私はオールAだったんだから」


 重松にまで最近は自分をお姉様と呼ばせるようにしている。そのうち女王様と呼べと言い出しそうで恐い。

 春満の成績は実際に無茶苦茶優秀だったそうで、旦那から聞いた話だと自分の家から一番近い学校を選んで進学したとのことで、成績だけなら最高学府も楽勝で合格したらしい。天才と何とかは紙一重だとは良く言ったものだ。

 もっとも生活能力という科目があれば落第生どころか除籍になっているだろうが。


「英語なんか英字新聞と字幕無しで映画を見ていればそこそこ覚えるわよ」


 実際そうして覚えたという英語を駆使して会社の商品を海外で売りまくり、結果として俺はこうして学生生活を送れるだけの金を稼いでいる。

 春満がいなければ恐らくこれ程にはならなかっただろうから、恩人であるとも言えるのだが……


「ところでゲンちゃん、あとで相談があるのだけど」


 普段はあまり見せない真剣な眼差しをこちらに向け、口調とは違った圧を感じさせる様子でそう言ってくる。

 春満が相談というとまさか自分ももう一度大学生をやりたくなったと言うことだろうか。あるいは大学院生として入学して先輩面をしたいと言うことなのだろうか。



 部活の当番ではないので、全ての講義が終わり、今は春満の部屋にいる。

 相変わらずワイルドな場所だが、どうした風の吹き回しか今は本物の観葉植物が増えている。


「ゲンちゃん達を見ていたら、緑が恋しくなったの」


 とは本人の弁。尤もこれは鉢ごと全てレンタルだそうだ。自分で買ったら後の始末が大変だからこの方が良いと言っていたが、こんな地方都市でもそのような商売が成立するのは植物に興味を持つ人間が増えたのか、ズボラな人間が増えたのかよくわからない。


「ここに座って」


 大きめのダイニングテーブルには見事にモノが何もない。何なら昨日買ってきましたと言われても納得するくらい生活の臭いがしない。碧が食事を用意してくれなかったらコイツは確実に餓死していると断言できそうだ。まあ、そんな時はコンビニという強う味方はあるのだが。


「碧ちゃんのことなんだけれどね」


 切り出したのは碧の話。俺と碧をくっつけたいという意図は分かるし、俺もその希望はあるけど相手の気持ちを無視して物事を進める訳には行かない。できればゆっくりと時間を掛けていきたいと思っている。

 確かに年齢を重ねれば残された時間は相対的に少なくなるから、ノンビリとしてなんかいられないという事実はある。が、今のように“準事実婚”みたいな状態でも悪くはないのだろうと思う自分もいる。碧がいつ出て行っても仕方がないのだろうが、それを含めて彼女の意思は尊重しないとマズいだろう。


「あの人を私の会社で雇いたいのよ」


 出てきたのは想像の斜め上どころか、雲の上まで突き抜けそうなくらい考えたこともないことだった。

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