第58話 : パイスラッシュ

「栗原っち、柔先輩のこと迎えに行くんでしょ」


 昼休みに重松が俺の前に座り、腕を前で交差させながらそう聞いてくる。

 ただでさえ大きな膨らみがますます強調されて目のやり場に困ってしまうのだが。


「そのつもりだけど」

「あの、一緒に行ってもいいかな」

「別に構わないけど、今日はバイトがないのか」

「今日は遅番だから八時からなんだ」

「そっか、別に構わないぞ」


 そんな会話があってから彼女は助手席に座っている。

 πスラッシュとは良く言ったもので、彼女の深い谷間にシートベルトが沈んでいる。その上本来は直線であるはずのそれが谷の深部でカクリと大きく曲がっているのがわかってしまう。どれほど盛り上がっているんだ。豊胸手術でもこんなに大きくは出来ないだろう。


「へへ、こうして二人きりになるのは初めてだね」

「言われてみればそうだな」


 こう並んで座ると同級生と言うよりも親子にしか見えないし、何ならパパ活している女子とオッサンと言われても反論できないだろう。年齢は残酷だ。

 が、気持ちだけは青春だ。若い娘と二人でドライブなんて滅多にできるもんじゃない。楽しまないと。


「ねえ、栗原っちは柔先輩のことどう思ってる?」

「どうって」

「私ね、先輩に憧れてるの」

「それはどういう意味でだ」


 まさか百合……オッサンはどうしてそういう風に考えるのか。情けない。


「ああやって何事にも一生懸命でしょ。だけどお酒を飲んだ時みたいにポンコツな部分もあって」


 それは認めるよ。


「そして誰よりも自分のお母さんを愛しているところ」


 母親のことを好きなのは皆一緒じゃないのか。


「それって普通……」


 途中まで言葉を出してからハッとした。重松は孤児だったっけ。


「私は両親を知らないけど、沢山の人に囲まれて育ったから親と呼べる人がいっぱいいる感じなの。だから孤独ではないと思ってるから気にしないで。でね、先輩は違うの。たった一人のお母さんを信頼して、お母さんが傷付かないように陰で支えて……お母さんの苦労を減らそうと中学生の時からアルバイトまでしていたの。それは凄いことだよ。普通はグレちゃってもおかしくないもん」

「随分詳しいんだな」


 そもそも中学生はアルバイトしちゃダメだろ。


「うん、奨学金のパーティーで柔先輩から教えてもらったの」

「中学生でか」

「もちろん正式なものじゃないけど、農家さんのお手伝いをしてお小遣いと採れた物を貰ったりしていたとか……私も似たようなことをしたこともあるし」


 そんな苦労を……


「そんな努力した先輩には幸せになって欲しい」

「母親みたいな事を言うんだな」

「だって本当のことだもん」


 最後のは断言調だ。本当に柔先輩のことを思っているのだろう。そんな後輩がいる彼女が羨ましい。俺の周りにいるヤツなんて──真っ先に春満の顔が浮かんだのが情けない。


「で、重松自身はどうなんだ。自分がどうしたら幸せになれるか、考えているのか」

「それは……栗原っちが碧さんのことを好きじゃなければ……」


 何をボソボソ言ってるんだ。小声だと運転に集中しないといけないから聞き取れないじゃないか。


「何だって」

「何でもないよ。私は私で考えているから大丈夫よ」

「そっか、それならその話をまた聞かせてくれよ」

「うん、ちゃんと話すよ。それよりも栗原っちは自分のことはどうなの」

「俺のこと」

「おね……春満さんが、陰キャボッチ童貞っていつも言ってるけど、あれ本当なの……って、キャッ」


 車の運転中に変なことを脇で言うな。驚いてハンドルを動かしちまったじゃないか。


「ま、まあ、一部はそのとおりだ」


 全部本当だなんて恥ずかしくて言えるか。


「一部ね──どこの一部かは聞かないけど。でも今はボッチじゃないでしょ」

「そんなこと……」


 言われてみればボッチではない。仕事でも関係がある春満は置いておいて、碧や柔先輩と住んでいるし、こうして助手席に乗っている友人だっている。

 俺は学生になって変わったのだろうか。


「栗原っちは一人じゃないよ。きっとこれからもね」


 これからも……か。

 だとしたら一緒にいる相手は誰なんだ。頭に浮かぶのは碧しかいない。

 んっ、やっぱり俺は彼女のことが──


「栗原っちが一人じゃないってことは、誰かが栗原っちと繋がっていると言うことなんだよ。いつも、何時でもね」


 いつも──そうだよな、もう一緒に住んでいるんだよな。

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