第56話 : 誰の幸せ(春満の眼)

「実は私達、ゲン君の所から出て行こうと思っているんです」


 一瞬、何を言っているのか理解できなかった。

 ただ、目の前にコーヒーまみれで座る碧ちゃんを見て、ただ事ではないことが起きていると悟ってしまった。


「それは……どういうこと」

「実は……」


 顔を拭きもしない碧ちゃんの口から出てきたのは亡き夫に対する深い深い愛情の話だ。

 聞いているだけで私も泣けてくるような──私は孟君我が夫のことをそこまで愛している自信はない。私は不貞の人間なのだろうか──凌雅さんという人がいかに彼女を愛していたか良くわかる。

 でも……だ。


「私は夫を絶対に裏切れないです……いえ、ゲン君のことが嫌いではないんです。でも、それ以上に凌雅さんは私にとって大きな存在なんです」


 ああ、この場にゲンちゃんがいなくて良かった。これを聞いたら彼は大学を辞めていたかも知れない。柔ちゃんの姿を見ただけできっと居たたまれなくなっているだろうから。

 だけど、その話で私が納得できる訳がない。

 今生きている人の幸せこそが大事なことであって、過去に縛られることなど何もない。いや、浮気やら不倫やらをしたのならそうあって欲しいけど、彼女は何も悪いことをしていない。幸せを追求する権利は絶対に持っていなければならない。


「碧ちゃんの話はわかったわ。ところで、その話を凌雅さんが聞いてどう思うか考えたことはある?」


 そう、凌雅さんが生きていればそれは大問題だ。だけど彼はもういないのだ。碧ちゃん達のことを思って死んでいったとは言え、そこに縛られ続けることを彼が望んでいるかどうかは誰にもわからないから、自分でいかようにでも解釈できるのだ。


「それは……でも、彼が私達のことを愛してくれていたのは変わらない事実です」

「事実は事実で承知しているわ。でも、今の彼の気持ちを考えたことはある」

「今の気持ち、ですか」

「碧ちゃんがこんなに悩んでいることを彼は喜んでいるのかしら」

「……」


 私が凌雅さんの立場なら絶対に喜んでなんかいない。碧ちゃんの幸せを願うならいい人と巡り会って幸せな人生を送って欲しいと思うだろう。碧ちゃんがこうやって思い悩む姿なんて絶対に見たくないはずだ。


「私と碧ちゃんは歩んできた道も置かれている環境も全然違うわ。でもね、幸せを掴む権利は同じ筈よ。仮に私が凌雅さんだったらその権利を生かして欲しいと願うと思うけど」

「……」

「ゲンちゃんと結婚しろとは言わないわ。でも彼の元から離れるのは相手を苦しめることにもなるって考えてみて」

「それでも私は……凌雅さんを……裏切りたくない」


 ふう、ここで泣かれちゃうとは。凌雅さんは幸せ者ね。

 でも、私だって負けないわよ。あとでゲンちゃんからご褒美を貰うからね。


「碧ちゃんが幸せになることが裏切りなの?」

「私だけが幸せになって……それでは凌雅さんが捨て駒みたいじゃないですか」


 あちゃ~、ここまで拗れているのね。そりゃあ重症だわ。


「捨て駒って、それは凌雅さんを侮辱していないかしら。彼がいたからこそ柔ちゃんが生まれたのでしょう。最高の宝物を残してくれたんじゃない。捨て駒どころか大本命でしょうよ。凌雅さんでなければあんな良い子は生まれてこなかったわよ」

「だったら尚更「違うわ」」


 これ以上言わせてなるものですか。


「いいこと、凌雅さんは何を望んでいたの?それは貴女方の幸せでしょ。幸せって何?何時までも亡くなった旦那さんのことを引きずって生きることが貴女の幸せなの? 私が凌雅さんだったら絶対にそう思わない。ちょっと考えてみて欲しいのだけど、碧ちゃんが凌雅さんのことを考えている時に笑顔になれるかしら。ゲンちゃんと一緒にいる時みたいな笑顔でいるのかしら。私にはそうは思えないわ。今、こうして話をしていても全然笑っていないじゃない。そんな姿を凌雅さんは見たかったのかしら」

「それは……」

「貴女にとって亡くなった旦那さんの存在がいかに大きいかは良くわかっているつもりよ。でもね、これから何十年もその十字架を背負いながら生きていくの。幸せになれる機会を捨てていく貴女を凌雅さんが見たらどういう声を掛けるかしら。厳しいことを言うようだけど、勿体ないって嘆く姿しか私には浮かんでこないわ」

「……」

「ゲンちゃんはね、陰キャボッチで四十歳を過ぎても童貞だけど、誠実で面倒見が良くて、いつも一生懸命に誰かのことを考えているわ。だから柔ちゃんや重松ちゃん達の奨学金を作ったし、貴女達のことも放っておけなかったのよ。午後になったら彼が迎えに来るわ。その時に悲しませることだけはしないで欲しいの。私からのお願いよ」


 碧ちゃんは無言だった。

 ここから病院までは歩いて行ける距離だから、私がこれ以上いない方が良いわね。


「これで失礼するわ。私の気持ちは全部伝えたから。それと今日私が話したかったことはゲンちゃんのことだったからこれ以上話すこともなくてよ。でもね、碧ちゃん──こんなこと言えた義理じゃないんだけど──私はいつまでも貴女と友達でいたいと思っているわ。貴女みたいな素敵な女性と出会ったのは初めてよ。ゲンちゃんは悔しいくらい果報者ね」


 さて、ことはどっちへ動くのかしら。

 もしも想定外の方へ行くとしたら、ゲンちゃんのフォローをどうするか考えておかないと。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る