第54話 :「お父さん」(碧の眼)

「お母さん……」

「目が覚めた」

「ごめん、心配かけちゃって」


 柔はこの部屋に入ったらすぐに寝てしまった。昨日はアルバイトをしていたからその疲れもあったのだろう。頑張りすぎるのは良くない、というのは自戒を込めて伝えておきたい。


「後輩君が連れてきてくれたんだよね」

「そうよ、ゲン君が貴女を抱っこしてくれたの。私達しかいなかったら大変だったわ」

「そうなんだ。抱き上げられた記憶はあるんだけど、良く覚えてなくて……でもね、あの時とても気持ちが良かったのは覚えているの。何だか大きくて安心できる物に身体を委ねられる感じ……例えればお父さんに抱かれているような」


 柔がまたお父さんという言葉を口にした。

 私から彼女に「お父さんが見ているよ」とか「お父さんも喜んでいるね」などと声を掛けたことは何度もある。だけど、柔にはそれが実感できないらしく、彼女からお父さんという言葉を発したことは殆どなかったと思う。


「柔、今なんて」

「うん、あ、ごめんなさい。栗原はお父さんじゃないもんね」

「そうじゃなくて、そんなに安心できたの」

「えっと、うん、後輩君の腕の中だともう大丈夫なんだと思えたの」

「そうなのね」


 柔がゲン君をお父さんだと感じるなんて……以前の私ならお父さんは一人しかいないと怒っていただろう。でも今はそんな気がしない。それよりも柔がゲン君を受け入れてくれるのかもという期待の方が大きい。


 いや、ダメだ。私は凌雅さんを絶対に裏切れない。

 ゲン君がどれ程優しくても、柔がいくら信頼していてもそれだけはできない。

 ひょっとして……などと考えていた自分はとんでもない悪人だと思ってしまう。


「柔、明日には退院できるそうよ。そうしたらちょっと話したいことがあるの」

「え、いいけど……お母さん、何か怒ってることでもあるの?」


 そこまで柔に気取られているとは。私も歳を取ったのか、それとも娘が成長したのか。


「ううん、何もないわよ。それよりも貴女はゆっくり休みなさい。面会時間ギリギリまではいるけど、今日はおじいちゃんのところに帰るから」

「わかった」

「それと明日は午後になったらゲン君が迎えに来てくれることになっているわ。承知しておいてね」

「後輩君に世話になるばかりか。何だか申し訳ないね」

「それも含めて明日話すわ」


 これ以上ゲン君と近くなったら本当に私は悪人になってしまう。

 私達が生きていられるのは間違いなく凌雅さんが離婚してくれたお蔭だし、柔だって彼がいなければ生まれてこなかったんだから。

 そんな人をどうして……そう思ったら泣けてきた。


「お母さん、どうしたの、泣いてるの?」

「ううん、ちょっとね。柔がいなくなったらどうなっていたかと思ったの」

「大げさに考えるんだから」


 良かった。ここは上手に誤魔化されたみたいだ。



 病院のエントランスでは父が待っていてくれた。


「彼、確か高校の同級生だった子だろ」


 父はゲン君のことを覚えていた。私の所に一度来たことがあるので、初対面でないことは知っていたのだが、まさか覚えているとは思わなかった。


「随分立派な大人になったもんだな。柔の学校の先生でもしてるのか」


 ああ、そういう誤解をされる年齢なんだ。そう思うとどこか可笑しく感じる自分がいた。


「そんな感じよ」

「あの感じ、どことなく凌雅君にも似ているな。悪い奴じゃなさそうだ。柔も安心だな」


 そんなことを言わないで欲しい。私の決断が鈍ってしまいそうでとても怖くなった。

 真っ暗な車窓を眺めていたらスマホが震えた。

 トークアプリには春満さんからのメッセージがあった。


『明日の朝、会えるかしら』

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