第47話 : 雫が描く顔(碧の眼)
「私達は家族でもないし」
この一言を放った時、私は泣きそうになった。いや、涙こそ出さないが心の中では号泣していた。
ゲン君のこれまでの気持ちを踏みにじる言葉だという自覚は勿論あったし、大人としてこういう突き放したような言い方をすべきでないことは承知している。
でも、こうでもしないと私の心がゲン君に奪われていってしまう。
私は
先日までの自分はゲン君が心の半分以上を占めていた。助けて貰ったことへの感謝も勿論あるが、私だけでなく、柔だって最初にゲン君と再会した頃からすると随分彼を信頼しているようだから、自然と彼へ気持ちが傾いていった。
それから春満さんや蒼衣さん、重松さんなどゲン君や柔の知り合い達とも関係も深まり、高校生の時以来に様々な人達とプライベートな関係を築けたのは間違いなくゲン君がいたからだ。
同時に私のことをあれ程大切にしてくれた凌雅さんの存在が小さくなっていくことに気付かずにいた。いや、気付こうとしていなかった。
彼の遺影は肌身離さず持っている。ICカードケースの片面で微笑む彼の姿は長い間私の支えとなっていた。顔に白い布を掛けられ、冷たくなったその姿に誓ったのは柔を必ず幸せにすること。そのためにはどんな苦労も背負う覚悟があること。そして、彼のことをどんな時も忘れないことだった。
柔は物心も付いていない頃に父親を失ったから凌雅さんのことは何も知らないはずだ。ゲン君は柔にも気を遣ってくれているからひょっとしたらお父さんとはこういう人を言うのかと感じているのかも知れない。
凌雅さんは私をとにかく愛してくれた人だった。
男手一つで育ててくれたお父様と二人で工務店を営んでいたのだけど、お父様が友人の連帯保証人となり、その人が夜逃げをしたことで会社は倒産。お父様は酒に溺れ、数ヶ月後に亡くなってしまった。
凌雅さんはその債務整理を引き継ぎ、必死に働きすぎたせいでそれから程なく事故死。絶望の淵に残されたのが私と柔だった。
会社が倒産してからも手続き上離婚してからも凌雅さんとはずっと一緒だった。
「必ず僕が碧を幸せにするから」が口癖で、どんなに辛い時でも私には明るい夫として振る舞ってくれていた。
どうしてもお金の都合が付かない時、ゲン君に一度だけ縋ろうと考えた時がある。それを凌雅さんに相談したら「先方に奥さんがいたら必ず揉めるから」と言って、頑なに拒んだ。
今になればわかる。ゲン君がこれ程優しい人なら私は多少なりとも好意を持ってしまっていただろう。彼にゲン君のことを話したことが何回かあり、彼なりに負けられないと頑張りすぎたのだ。
そんな人をどうして裏切れるだろう。
ゲン君が出て行き、ドアが閉まると私は泣いた。
ゲン君を傷つけたであろう私の行為と、凌雅さんのことをどこかで忘れかけていた私の思いに居たたまれなくなったのだ。
突っ伏したローテーブルに溜まった雫は人の顔のような形になっていた。
どこか懐かしいその輪郭、それは私に微笑んでいる様に見えた。
どうしてそんな笑みを浮かべているのだろう。その意味はなんだのだろう。自分を忘れかけた冷たい女に対する嘲笑なのか、それとも……
その意味を考え、歪んだ瞳でその雫の塊をずっと見続けている私がいた。
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