第45話 : 嫉妬……(碧の眼)

「ねえ、お母さん」


 柔が私の部屋に入ってくる。

 ゲン君は私達にそれぞれ部屋をあてがっていてくれる。柔は年頃の娘だからちゃんとプライバシーがあった方が良いだろうとの彼なりの気遣いだ。少し前まで住んでいたのはプライバシーなぞどこにあるのかといったアパートだったから、その頃を思えば夢のような暮らしをしている。


「どうしたの柔」


 ゲン君は自室で何かをやっている時間の筈だ。

 私達の部屋はそこからリビングを挟んで離れているので、私達の会話が聞かれることはない。


「この間おかあさんが後輩君にあ~んをしてあげてたでしょ」


 ああ、あの時は私の黒歴史になるかも知れない。高校生でゲン君と付き合っていた頃に一度だけ私からあ~ん処女を献げた覚えはあるけど、さすがに四十路でそれはないだろうと自分でも思ってしまう。

 デートらしきことはしたけど、外食をした記憶はほぼない。一度だけゲン君が自分はプログラムで稼いだお金があるからと言って軽食をご馳走になった時にサンドイッチだったかナポリタンだったか、ともかくそう言うものを口に入れあったのだ。

 それが四十歳を過ぎてから、それも皆の前で二十数年ぶりに出会ったゲン君にするなんて。


 皆が来る前にしたあ~んは明らかに揶揄い半分のものだった。それ以上でもそれ以下でもない。二度目のあ~んは違う。顔が赤かったのは衆目があって緊張しているのではない。

 陽キャではなくても、その場の雰囲気を壊さないように場の流れに付いてきてくれる、無茶振りをされても嫌がることなく期待に応えてくれる高校時代・付き合っていた頃そのままの彼の姿を見て、私はかつて抱いていた気持ちを呼び戻されてしまったのだ。

 亡き夫に対して彼以外を愛すことはないと誓ったことを裏切ってしまった。私の醜い心を呼び起こした言い訳できないことをしてしまったのだ。


 それを娘に覚えられているなんて。


「う、うん」


 もうこれ以上の言葉は出てこない。私は誓いを破るようなはしたない人間だった。その現実が重くのし掛かっている。


「あのね、あの時のお母さん、どこか嬉しそうな顔をしていたよ」


 嬉しそうと言う言葉に心臓が破裂するかと思うくらいドキリとした。

 事実、私は誰も知らない昔のゲン君の姿を見ているようでとても気持ちが昂ぶってしまった。それは私だけが知っている亡き夫の色々なことと重なった。

 私しか知らない楽しかった頃の思い出が脳裏によぎった。そんなことを思い出したのはいつ以来だろう。恐らくゲン君と出会わなければ一生封印していたはずの記憶だ。それが出てきたことで私にも変化が出たのだろう。事実、春満さんにはゲン君のことが好きだと言った事実もある。

 その『好き』がどこまで深い好きかは自分でもわからないところがあるけど。


「ああいうお母さんを見るの久しぶり。ちょっと嫉妬しちゃった」


 嫉妬という言葉が妥当なのだろうか。

 私としては裏切りとかふしだらという言葉の方が合っているのではないかと思う。一時でも元夫以外と男女間の愛情を持ってはいけないのだ。

 突然現れたゲン君には何の罪もない。彼は私に何があったかを全く知らないのだから。全ては私の責任だ。


 でも、嫉妬……


「柔、嫉妬って」

「私、今まで男の人と付き合ったことないでしょ。もしもお付き合いすることになった時に、ああいう素敵な顔ができるのかなと思って──たぶん私にはできないんじゃないかな」


 それ程だったとは。

 この気持ちを封印しないと。どんなことがあっても表に出してはいけない。


「私、そういうお母さんのことが見られて良かったと思っているの。後輩君のお蔭だね。私ね、最初は後輩君のことを警戒していたの。元カレが自分の家に住まわせるなんてあり得ない話でしょ。でも一緒に住んでみてわかったの。こういう人だから昔お母さんが好きになったんだな、ってね」


 ゲン君のことを理解してくれるのは嬉しいし、私の目が間違っていなかったことも嬉しいけど。


「でね、私のお父さんもああいう感じの人だったのかなって思ったの」


 これは絶対にマズい。

 ゲン君と凌雅りょうがさんを比べてはいけない。

 凌雅さんは本当に私達のことを心の底から愛してくれていた。涙を流しながら離婚届を書いたし、戸籍上夫婦でなくなっても一緒に住んで柔をとても大事にしてくれた。


 あの日だって──柔と一緒にご飯を食べるからと急いで仕事を終わらせようとしたのだろう。

 大雨の日、滑りやすくなっている高所の足場から──


 自分のことよりも私達が第一で、誰よりも私達の幸せを願っていてくれたのに。


 私は彼を絶対に裏切れない。このままで良い訳がない。

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