第37話 : 蒼衣の父親

「栗原さん、お話ししたいことがありますので、できれば別室を用意して頂けますでしょうか」


 始まった女子会を脇で見ながらまさる氏が俺にそう言う。

 今日は休日の筈で、彼もポロシャツに麻のジャケットというラフな格好だ。ビジネスの話をするのならちょっと違うのかとも思うが、相手は百戦錬磨のビジネスマン。俺なんか赤子の手を捻るくらい簡単に言い含められる存在だろうからここは警戒が必要だ。

 春満が一緒にいれば心強いのだが、おしゃべりに夢中で俺には全く関心がないようだ。ここで大氏の話を聞かない選択肢もあるが、断って雰囲気を壊すのもどうかと思う。


「わかりました。ではこちらへ」


 仕方なく俺の自室へ入れることにした。部屋そのものは洋服が椅子に掛けてあったりと多少散らかっているが、汚いと言うほどではないし、ベッドと小さな机と椅子があるだけのシンプルなものだ。急に来た相手の責任もあるのだから文句は言われないだろう。


 大氏に椅子を勧め、俺はベッドに座る。

 学生が自室で仲間と話す時って、こういう感じになるのかと思ってしまう。


「ご配慮頂き有難うございます。本日はビジネスの話は一切致しませんので、身構えることなく聞いて頂ければと思います」

「仕事じゃないとすると、蒼衣……美櫻さんのことですか」

「ええ、貴男はご存じかどうか知りませんが、美櫻は貴男に救われていたのです。お礼を申し上げたくて今日はお邪魔させて頂きました」


 立ち上がり、俺に最敬礼する大氏。だが、自分ではそんなことをした覚えがない。


「そこまでされることをした覚えはないですよ。頭を上げて下さい」


 何度か碧が作った食事を一緒に食べたことはあるが、そんなことでこれ程感謝されるものでもないだろう。


「申し訳ありませんが説明してもらえますか」


 大氏が話してくれたのは俺が忘れかけていた黒歴史だ。それを彼は淡々と話してくる。

 ゲンダーム、俺が数年前に人生相談をしていた頃のハンドルネーム。某ロボットアニメ(実際に見たことはないのだが)をもじった厨二病かよというセンスは穴があったら入りたい。そんな男が誰かの役に立つのかも知れないと思って始めたもの。仕事が忙しくなったのと学生になりたいという気持ちが強くなって止めてしまったことが、誰かの人生を動かしていたなんて。考えれば考えるほど恐ろしいことをしていたものだと思う。


「貴男にはいくら感謝しても足りない。それだけの恩があると思っています」


 再度最敬礼をされる。いや、俺はそう言うことをされるような人物ではないから。


「言われたことは記憶にありますが、寧ろ私が彼女の人生をねじ曲げてしまったようで申し訳なく思っています。頭を上げて下さい」

「いや、そういう訳には──娘は私の至宝ですから」


 そこまで娘を愛しているのか。こういう父親の元で育った蒼衣は幸せ者だ。


「パパ、随分長いけど、栗原に迷惑掛けてるんじゃないの」


 蒼衣が俺の部屋へ入ってきた。ノックくらいはしろ。


「こら、美櫻、お前栗原さんを呼び捨てにしてるのか」

「まあまあ、私がそう呼んで欲しいと頼んでいるのです。今は彼女と同じ立場の学生ですから」

「しかしですね……」

「それよりも蒼衣、ノックくらいはした方が良いぞ」

「わかった。それより蒼衣……だとわからない」

「んっ?」

「パパも蒼衣、私も蒼衣だもん」

「はは、そうだな美櫻」


 そう言いながら大氏は俺にウインクをする。その意味はわかるが、父親として娘を名前呼びされて何も感じないのか。


「わかったよ、美櫻」

「ふふん、それでいいわ」

「娘に心配されるようじゃいけませんな」


 そう言いながら、大氏は腰を上げた。


「美櫻、栗原さんとの話は済んだから、パパはもう帰るぞ」

「余計なことは言ってないわよね」

「そのつもりだがね。栗原さん、これからも美櫻を宜しく頼みます。それでは」


 大氏はリビングにいる皆に挨拶をして去って行った。美櫻も一緒に出て行ったが、五分もしないうちに戻ってきた。曰く「あれだけ長い時間一緒にいたのだから充分」だとのこと。大氏は仕事が大変忙しく、家族と共に過ごす時間はあまりないのだそうだ。

 考えてみれば、俺も社長時代はツール開発で本当に忙しかった。家族がいたらとっくに崩壊していただろうと思う。そんな頭で一力夫妻のことを考えたら只者ではないことが良くわかった。俺は仲間に恵まれている。


「蒼衣、お疲れ」

「むぅ。その呼び方」

「蒼衣は蒼衣だろ」

「それだとパパも一緒」


 こういう娘がいたらきっと親馬鹿一直線なんだろうな。

 蒼衣、いや、美櫻の目が笑っている膨れっ面を見て、そう思う自分がいた。

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