第23話 : 負けられない……けど(蒼衣の眼)
「痛っ」
また指を切ってしまった。今日一日で何回目だろう。
「お嬢様、もうこの辺で」
「冗談じゃないわ。今日は丸一日雇っているでしょ」
「それはそうですが、このままだと綺麗な指が傷だらけになりますよ」
「かまわないわ。好きな人に少しでも振り向いてもらいたいもの」
「わかりました」
わざわざ東京から料理教室の先生を呼んでマンツーマンで教えを受けている。
柔さんのお母様から料理を習うことは決まっているが、それでは全く足りないと悟ったからこの手を打った。
こんなことをするのはもちろん栗原に好意を持ってもらうためだ。
私が考えていた栗原攻略パターンは碧さんの登場で完全に崩れ去った。
当初の予定だと学生生活がある三年間をかけて栗原と親密な関係になり、最後の一年で将来を誓う仲になるつもりでいた。学生結婚に憧れはあるけど、そこまでする勇気は持ち合わせていなかったし、親からも猛反対されるのはわかっていたからその程度の計画で構わないと践んでいたのだ。
どうせこのマンションにライバルになる人間はいないから、折を見て彼の家と往き来をするくらいで十分なアドバンテージがあると読んでいたのにまさかの碧さんだ。
親子ほど年齢が違う私と違って、彼女はきちんと釣り合いが取れる年齢だし、聞けば高校の同級生だという。スタートから負けているじゃない。
そして胃袋から攻略しろとは良く言ったもので、私は碧さんの料理に愕然としてしまった。あれでは私に勝ち目なぞある訳がないと思い知らされた。
碧さんはプロレベルの味を出している。料理を教えてくれると約束してくれたものの、今の自分は小学生にも劣るレベルの物しか作れない。目玉焼き、ベーコン炒め、ベビーリーフのサラダ……それで料理と言えるのかと言われれば返す言葉がない。これから料理教室に通うつもりでいたのに、これではとても追いつけない。
普段は駅前にある惣菜店や弁当店などで食べるものを用意していたのだけど、このままだと碧さんに負けると思い、こうやって自分でも料理が作れるようになろうと慌てて学び決意をしたのだが……
「今日は本当にこの辺で止めましょう。集中力が続きませんよ」
「うう……わかったわ」
四時間かけて作ったのは豚肉の生姜焼きと肉じゃが、それとアボカド入りポテトサラダ、以上。
そりゃあ学校の授業で少しは調理器具に触れたけど、普段から接してないので出発点はほぼゼロからだ。
なぜこのメニューかというと学校で何度か栗原がそんな物を食べていたから。こういうものが定番料理だと言うことは知っていたので、案外簡単に作れる物だと思っていた。
この日のために道具をバッチリ揃え、切れ味抜群のダマスカス鋼の包丁を四種類も用意して臨んだまでは良いのだけど、じゃがいもやアボカドの皮むきや豚肉を切るたびに絆創膏の数が増え、今や指先は肌が見えないほどになっている。
学校の勉強だって簡単に成績が上がらないのはわかっている。だけど……自分でもこれはないだろうと言うくらい情けないレベルだ。
「いかがです」
プロの講師が教えてくれたものだから味は悪くない。
が、碧さんに頂いたものとは明らかに次元が違う。これはあくまでも初心者用の基本──レシピ本に書いてある──だけを教えられたものだと理解した。これなら誰かに習う必要はない。
勉強としてのレベルで言えば中学生くらいのものだろう。その尺度だと碧さんは明らかに国立大学レベルだ。先は遙かに遠い。時間とお金を掛けたとして何時になったら追いつくのか。
「美味しいです。でも、私が求めているものには及びません」
正直に言うと、講師は柔らかい笑みを浮かべながら、
「勉強を始めていきなりプロになられたのでは私達の立場がありませんから」
誰しもが納得できる当然の答えを返された。
「皆に褒められるレベルになるにはどの位時間が掛かりますか」
「正直、現状だと……努力あるのみですね」
絶望的にダメなレベルであることを思い知らされた。
が、ここで落ち込んではいられない。とにかく練習あるのみ。そうやって受験も乗り切ってきたのだから出来ない訳がない……そう思いたい。
「私から一つアドバイスできることがあるとすれば、料理を頭で覚えないことです」
「それはどういうこと」
「レシピに書いてあることは間違っていません。しかし、レシピに書いていないことも同じくらい大事だと言うことです」
「へっ?」
要は包丁使いや調理器具の選択などがキモの一つらしい。
確かに素早い下ごしらえは食材の鮮度を保つのに有効だし、それぞれの料理をするのに適度な大きさや深さの器具を選ぶことも考えなくてはならない。
「それと食材を選ぶ眼も必要です」
ハア、料理を得意と言えるようになるにはそこまでの技能が要求されるのだろうか。
あまりの前途多難さに私は溜め息をつくことしかできなかった。
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