第30話 : 社交辞令

 翌日、碧は早番だと言うことで俺が起きた時には既にいなかった。

 テーブルにはハムエッグとサラダ、それとイチゴを使ったフルーツサンドが置かれている。

 その脇にメモがあり、「昨日のことは気にしないで下さい」とだけ書かれていた。


 外は朝から季節外れの台風並みの荒天になっていた。碧はこの雨の中を出て行ったのか……俺の胸中とどっこいどっこいの風雨を見て、心が暗くなってくる。



「ゲンちゃん、お早う!」

「春……じゃなかったお姉さん、どうしてここに?」

「朝ご飯食べるために決まってんじゃない」

「は?自分の部屋にキッチンあるじゃん」

「だ~め、あれは私以外のみんなが使うもんだもん」

「みんなって誰だよ。だいたいその『もん』はなんだ。自分で料理の練習をすればいいだろ」

「私が何も作れないの知ってるでしょ。意地悪な弟ね。だいたいねゲン君はお姉さんに対して冷たすぎよ。そりゃあ私は家事は苦手だけど、心の機微は誰よりも……ねえ、聞いてるの」


 朝から頭が痛い。寝起きで頭が回っていない時にマシンガントークをされると一日が駄目になりそうな気がする。


「ふぁ~、お早うございます」


 ジャージ姿の柔先輩が起きてきた。


「あら、柔ちゃんお早う!」


 早速コミュ力お化けが真価を発揮する。あっという間に自己紹介をして、彼女の隣に陣取りあれこれしゃべり出す。俺以上に何が何だかわかっていない。気の毒だ。


「で、私はおばさんのこと春満さんと呼べば良いんですか」

「おばさん……あのねぇ、私、そう呼ばれるのはとても心外よ。こう見えても二十歳位って言われることもあるのよ」

「それ、社交辞令だってわかってますよね」

「うっ……」

「まさか『お姉さん』と呼べなんて言いませんよね」

「そ、それは……」


 ざまあみろ、柔先輩からおばさんと呼ばれればいいんだ。そうすれば俺がお姉さんなんて呼ばなくて済む。


「まあ、悪い方じゃなさそうですし、後輩君のお知り合いというならこれから『お姉さん』と呼ぶくらいは全然大丈夫ですけどね、お姉さん」


 こら、それは最大の悪手だ。そんなことしたらコイツはとんでもなくつけあがる──遅かったか。


「ゲンちゃん、見てのとおりよ。貴男もわかっているわよね」

「……」

「わ、か、っ、て、い、る、わよね」

「はい、お姉さん」

「よろしい!」

「あっはっは、後輩君のその顔、ちょっと待って」


 そう言いながらスマホを出すな。俺は顔を逸らしたが、さすがに春満は人と仲良くなるのが上手い。もうある程度の関係ができている。溜息しか出ない。




「あとで話があるの、二人だけで話せるかな」


 学校に向かう直前、春満が真面目な顔をして俺に言う。昨日の続きだったらイヤだなと思ったが、その話はしないそうだ。童貞なら童貞らしくあれ、と訳のわからない憎まれ口をついでに言われたけどね。


 帰宅したら春満の部屋まで直行する。


「このことだけど」


 そこにあったのはA4サイズのリーフレット。そして「向学の集い」と書かれている。

 これはウチの会社が運営する基金から奨学金を受け取っている学生の交流会だ。参加者は現役の学生と受給したOB・OG、それと次年度の受給希望者を招いて、大学の雰囲気を知ってもらうことも目的としている。毎年五月五日に学校近くのホテルで実施することになっている。

 俺はこの基金を作った張本人だし、一力に代表を任せているものの、運営上は筆頭理事として名前を連ねているからこの会の重要関係者の一人だ。そして春満も理事として名前がある。


つとむくんがね、今年は私達で挨拶をして欲しいって。自分がわざわざ東京から出張ることもないだろうって」


 孟とは一力のことだ。例年なら彼がこっちまで来て開会と閉会の挨拶をしていた。出張という名の息抜きをして貰っていたつもりだったのだが、今回は我々が地元にいるならやってくれということだそうだ。


「俺にそんなことができる訳ないだろ」

「お姉さんにそんなことをさせるの」

「喋るのは俺よりもうんと得意じゃないか」

「そりゃ、陰キャ、ボッチ、コミュ障、童貞じゃないからね」

「余計なお世話だ。俺が童貞じゃなかったら責任取れるのか?それよりも俺は絶対にやらないぞ」

「首を掛けて責任取ってみせるわよ。この奨学金の言い出しっぺなのにやらないの」

「言い出しっぺがやるというルールはどこにもないし、これまでだって俺は一度も挨拶に立っていない」

「童貞じゃないって否定できないの?しょうがないわねえ」


 口ではそう言っているが、表情はまんざらでもない。


「まあいいわ。でも条件が一つだけあるの」

「なんだよ」

「貴男もこのパーティーに参加すること。それが絶対条件よ」

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