第27話 : 引っ越しの挨拶

「ゲン君、お帰りなさい」


「はじめまして、ワタクシ一力春満と申します。ゲンちゃん、いえ、栗原前社長の下で専務をさせて頂いていた者です。いつも前社長がお世話になっておりまして心からお礼申し上げます」


 碧の姿を見るやいなや春満は俺を押しのけて正面に立ち、直立不動になってからとても恭しくお辞儀をした。ビジネスモードへの切り替わりはどこのソフトウェアでも真似できないくらい速い。そして相手に一言も返させないスピードで言葉を繋げていく様は圧巻の一語だ。


「は、はい」


 この人についていける奴はたぶんどこにもいない。明らかにどこかのネジが抜けている春満と違い碧は一般人だ。頭が混乱していることだろう。


「専務、話はその辺で」

「あらまあ、ワタクシとしたことが大変失礼致しました。前社長の前に立ってご挨拶をするなどというご無礼を致しまして、私自身大変遺憾です。申し訳ございません。前社長、ささ、前へどうぞ」


 所作は美しいけど、感情が全く感じられないんだよね。揶揄っているとしか思えない。


「ただいま。それとさっき彼女が自分で紹介したからわかるだろうけど、俺の会社の専務、一力春満さんだ。今度このマンションに引っ越してきたそうだ。ご近所さんとしてお付き合いして欲しいと言っている」

「はい?」


 ますます何が何だかわからないという顔をしているな。俺が碧の立場だったらそうなるよな。悪いのは俺じゃない、春満こいつだ。


「詳しいことは中で話すよ。専務のことを詳しく知っておいてほしいからね」


 俺の後をチョコチョコ着いてきたと思えば、春満は俺より先にソファに座ってしまう。自由人とはこういう人間のことを言う。


「コホン、春満さん」

「春満じゃなくてお姉さんでしょ。あ、ゲンちゃん、貴男もどうぞ」

「ここは俺の家だ」

「お客様が先に座るのが普通じゃなくて」

「もてなす側が勧めるまで座らないのが礼儀だ」

「あ~ら、それは失礼」

「ふふ、仲がよろしいのね」

「そんなことはな……「そうです!良くおわかりですね」」

「息ピッタリですね」


 三人で漫才をしているみたいだ。春満のせいで完全に調子が狂ってしまう。


「ところで、一力さん夕食はありますか。引っ越してきたばかりでは用意するのも大変でしょうから、よろしかったら私達と一緒に食べませんか」


 こら、碧、余計なこと言うんじゃない!が、口から出た言葉に蓋はできない。

 春満が満面の笑みを浮かべながら、大丈夫なのかと期待に満ちあふれた声で言った直後、しまったという顔をしながら部屋を出て行った。色々忙しい。

 一分もしないうちに両手に大きな袋をいくつも抱えて戻ってきた。何かと思えば日本蕎麦、うどん、パスタ、フォーなどこれでもかと麺類があり、そこに申し訳程度に菓子類が付いている。


「お引っ越しのご挨拶手ぶらで来てごめんなさいね。これ、つまらないものですけど食べて下さい。それと私のことは一力じゃなくて春満と呼んでくださいね」


 どこのどいつが、デパートの紙袋に溢れんばかりにカップ麺やパスタをバラ詰めした手土産を持ってくるかね。本人がいたって真面目にそう言うことをしているのがちょっと怖い。やることは非常識だけど、お辞儀をする仕草があまりに綺麗なので、そのギャップが凄い。碧も完全に引いている。


「そんなにあっても「いえいえ、これくらい気持ちとしては全然少ないのよ。だって、ゲンちゃんに春が来た記念がこんな少しじゃお姉さんとしては申し訳なくて──だって、今まで何の色恋沙汰もなくボッチ、陰キャでコミュ障でオマケに童貞の、そんなゲンちゃんが──」」


 春が来たって何だよ──また春満の独演会が始まると困るので、ここは俺が止めるしかない。それと俺に女性経験がないことをバラすな。あとで旦那に絶対文句を言ってやる。


「わかった。受け取っておくから。ありがとう。さあ碧、それなら食事の支度をしよう。お姉さんはソファで待っていてくれ」


 この場から離れるのが一番だ。が、またしても碧が余計な一言を放つ。


「お客様を一人にはできないわ」


 ここの主である俺が良いと言えば良いのだと反論したいのだが、碧の方が恐らく正しいことは俺でもわかる。


「まあ、碧さん、わかっていらっしゃる。ゲンちゃん、そんな失礼なことをしてはダメよ。貴男も一緒に待っていなさい。お姉さんのお相手をちゃんとしましょうね」


 この時、俺は口いっぱいの苦虫を噛み潰した顔をしていたに違いない。

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