第25話 : 新たな入居者
ゴールデンウイークの前日、学校から戻るとマンションのコンシェルジュから新しい住人が同じフロアに引っ越してきたと伝えられた。売れないとぼやいていた不動産会社から、売れ残りの部屋を買った筈なのに蒼衣に続きこれはどういうことなのだろう。まさかのバブル景気復活か?都会と違って投資価値がさほどあるとも思えないのだが。
エレベーターのドアが開くと「ゲンちゃん!」と俺に抱きついてくる不審者がいた。
訳がわからないが、声には聞き覚えがある。
「もお~、会いたかったんだから。どうしてお姉さんに相談なしに引っ越したのよ」
「あ、ああ、ひょっとして
「ひょっとしなくてもそうよ。そ、れ、と、私のことは「お姉さん」と呼ぶんじゃないの」
「そ、そうだっけ」
「そうでしょ。私はゲンちゃんの立派な姉よ」
「本物の姉はちゃんといるんだけど」
「知ってるわよ」
「それより、邪魔になるからエレベーターから降りよう」
このオンナ、
距離感が完全にバグっていて、コミュ力のバケモノだ。誰にでも馴れ馴れしく接して、あっという間に友人知人の類いにしてしまう。従っていつも周りに人がいる。今は俺の会社の取締役兼会計責任者をしていて、こういう感じでも仕事はべらぼうに出来るから不思議だ。
「で、どうしてここにいるんだ」
「ふふん、今日から私はゲンちゃんのお隣さんで~す」
「ハァ?」
驚きすぎてそれ以上の言葉が出てこない。そもそも一力夫婦には男の子が四人もいるという少子化対策の超優等生だ。それも全員年子で、一番下の子は今年大学受験の筈なんだが。会社もそうだが子供をほったらかしにしてこんな所にいていい訳がない。
「ふふ、今、会社と子供のこと考えてたでしょ」
そして、転生者のチートのごとく俺の考えが読めている。
「ゲンちゃんはとても素直だから、お姉さんは全てお見通しよ。立ち話も何だから私の部屋でお話ししましょ」
「はる……お姉さんの部屋?」
「そ、今日引っ越してきたの。ちょうどお向かいよ」
このフロアは中央に廊下があり、それを囲むように六つの部屋が配置されている。東の端が俺の部屋で南側の隣は別の住民が、北側には蒼衣が住んでいる。向かいとなると西の端だが、あの部屋は巨大なバルコニーがあって、俺には使い切れないと思って契約しなかったところだ。金額は確か俺の部屋と同じくらいだったはずだが。
「ささ、こっちこっち」
強引に俺の手を引こうとしているが、貴女は人妻でしょ、こんなことしていたら疑われるよ、と言いたい。
ん、疑われる……ここには知り合いだけで三人もいる。見られると碌なことにならない。
「誰かに見られても大丈夫よ。コンシェルジュさんにはゲンちゃんの現地妻だと言ってあるから」
どこが大丈夫なんだよ。そんなもの要らないよ。
「それと、碧ちゃんにはあとできちんとご挨拶をするからね」
「!」
「言ったでしょ。お姉さんは全てお見通しなの」
恐らく事実だ。一力は調査能力が高く、個人情報でなければそれは妻である春満にも流れて行っている。春満自身は分析能力がずば抜けているから……逆らうと何が起こるかわからないから素直に従って後を着いていくことにした。
「さあさあ、どうぞお入り下さいね~」
「おじゃまします、って……」
そこにあったのは絶句する空間だった。
この人がアウトドア好きなのは知っていた。一力の家(一力夫妻は山手線の内側に戸建ての家を持っている)に行ったこともあるが、その時、庭に常設のバーベキュー台とログハウス風の小さな離れがあり、四季を問わず屋外でバーベキューをしていると言っていたことを思い出した。
「遠慮は要らないから」
そう言うことじゃない。何せ一面ジャングルだのだ。正確に言えばジャングル模様の壁紙なのだが、BGMに鳥の声やせせらぎの音が流れていて、玄関からいきなり熱帯雨林にワープしたみたいな錯覚を感じる。いつこんな工事をしたんだ。
「こっちこっち」
部屋の造り自体は俺の所を大きく違っていない。そして──
「じゃーん」
三十畳はあるリビングの壁には草原が描かれている。そこに数多の野草が咲き誇り、アロマの香りもあって本当の花園にいるようだ。
「凄いでしょ。私の理想を手に入れたの」
一体いくら掛けたんだという野暮なことは聞かない。一力夫妻と俺は各同じ金額の給料にしてある。つまり俺の倍の世帯収入はあるし、彼女はそれを株や不動産で運用しているから恐らくは俺以上に金は持っている。
「コーヒーくらいは出すわよ」
「あ、ああ……」
ありがとうと言えない意味を知る者は春満の夫と俺だけだろう。
「!!!!!」
明らかに百均で買ったとおぼしきカップに入っているのは真っ黒な液体。底は見えない。
口をつけたら無茶苦茶苦い味がした。
彼女はインスタントコーヒーを水、ぬるま湯、お湯の全てで失敗するという希代の料理ヘタなのだ。
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