第10話 : 元カノのこれまで

「俺のことで呼ぶのをやめてもらえないでしょうか」


 これは俺の本意だ。

 そりゃあ目上の人にはそれなりの接し方があるのはわかっている。しかし、ビジネスの場と学生とでは全く同じではないと思う。

 どうしても仕事上の利益を気にしなければならない社会人と、そんなことを全て取り払える学生とで先輩にあたる人からそう言われると俺だけに壁があるように感じてしまう。

 遅れたとは言え、青春を満喫したい自分としては呼び捨てされた方が好ましい。


「そう言われても。年上の人を呼び捨てにするには抵抗があります。失礼ですけど親子ほどの差があるのですから」


 まあ、そうだよな。気持ちはわかるよ。

 俺だって最初は年上の社員しかいなかったから無茶苦茶気を遣った。なにせ未成年で社長になったんだから。


「気持ちはわかりますが、学校には学校のあり方があると思います」


 そう、ここはビジネスの現場じゃないんだから、もっとそのあたりは緩くて良いだろう。


「できれば呼び捨てが良いですけどね。それが難しければ君付けでもかまいません」

「それはそうですけど、それでも目上であることは変えようがないですよね」


 本当はその丁寧な言葉遣いもやめて欲しいんだよな。社会人としてはそれでないといけないんだが。そう考えると日本語は面倒くさい。


「ここは学校ですから。自分は最下級生なので学年が上の方に敬語を使うのは当然として、先輩が俺に敬語を使うのはおかしいと思うんですけどね。正直、自分が特別扱いを受けているようであまり良い気分ではないのですが」

「それはわかります……私も栗原さんがお話しされてていることが当然だという気持ちもありますから……少しだけ時間をください。必ず対応を考えますから」



 明日はちゃんと部活をするから出席して欲しい旨を伝えられ、学校を後にした。

 やることは農作業だろうから、作業服を手に入れたい。専門店の物でも良いが、ジャージなどの方が動きやすそうに思えるからそれで行こうと思う。


 地方都市だろうと東京の真ん中だろうとスポーツ用品を売る大型チェーン店があるので手に入る物はどこでもさほど変わらない。ジャージの上下とフィッシング用の長靴を買った。どうせ土で汚れるのだろうからコーディネートも何もない。サイズさえ合えばどうでも良いからあっという間に買い物が終わり、ついでに夕飯の食材を求めてスーパーに足を向けた。


 大きな荷物を持ったまま物を買うのがこんなに大変だと思わなかった。

 とりあえず今日の夕食を探していたら、後ろから声を掛けられた。


「あの~、栗原……じゃない、ですか」


 恐る恐るという感じの声に振り向けば、どこか見覚えがある顔がそこにあった。


「あ、ひょっとして田中」

「おお、やっぱりお前か。戻ってたのか」


 こいつとは小学校からの付き合いで、高校まで一緒だった。俺が今通っている大学に進み地元で就職していることまでは知っていたのだが、その先は詳しく知る由もなかった。


「こんなところで何してるんだ」


 そりゃそうだろうな。進学しないで東京に出て行ってからは同窓会にも出ていないのだから。

 何年かに一度実家に帰った時に田中のことが話題になることがあったから、少しは消息を知っている。が、そこまでだ。


「見ればわかるだろ、買い物……じゃなくて学生だよ」

「へ?」

「お前が通っていた大学の後輩になったんだ」


 訳がわからないという顔をしているこいつからいくつか訊きたいこともあったので、近くで食事でもしようと誘ったら、かまわないという返事だったのでそのまま田中が勧める店に足を運んだ。


 居酒屋に行くのかと思えばちょっと洒落た喫茶店で足を止め、奥さんと子供と一緒に夕食を摂らないといけないからものを食べるのは控えたいと言われた。今だ独身、更に言えば年齢 = ほぼ彼女いない歴 = 間違いなく童貞歴の自分には彼の少し薄くなった髪の中に後光が差しているように見えた。


「「再会を祝して乾杯」」


 アイスコーヒーで乾杯とは学生らしくて良いのかも知れない。

 つまみはサンドイッチというのもそれっぽい雰囲気で悪くない。


 それから色々と教えて貰った。

 こいつが今はこの街に住んで税理士をしていること。子供が三人いること。

 そして、碧のこと。


 彼女は二十歳の時に勤め先だった建設会社の御曹司と結婚したそうだ。その後子供を産んだのだが、程なくして会社が倒産し、夫は負債が彼女に掛かっていくのを心配して離婚したとのこと。そして、その元夫は借金を返すために働いていたどこかの工事現場で事故死したという。なかなかに壮絶な人生を送っていたのだった。


 今のことを詳しくは知らないが、介護関係の仕事をしていたはずだと言っていた。

 そう言う仕事ならシフトの関係で昼間家にいたのも納得できるが──あのやつれ様は気になる。


 色々教えてもらい、店の支払いをしようとすると「Uターン祝いだから俺が奢る」と言われた。ついでに「IT長者にそう言うことは不要だろうけどな」とも。こっちの話は殆どしていないのだが、それなりに情報はあるらしい。


 別れてから自宅のソファに身を預けた。

 元カノであっても、彼女には幸せであって欲しい。関係がなくなったの理由は喧嘩でも寝取られでもない。彼女のこれまでの苦労を考えると何とか手助けができないものかと思いながら天井を見つめていた。

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