第8話 : 頭から離れない元カノ
普段なら酒を飲んだ日は寝付きが良いはずだ。
だが、昨日は違っていた。
冷静に考えれば考えるほど眠れなくなっている自分がいた。明らかにどこかおかしい。
なぜ碧はここに住んでいる。結婚相手は地元で自営業をしてると聞いていた。
あの建物……正直、お金に困っていなければもっと小綺麗な物件を選ぶだろう。ドアの向こうは置くものが何もないほどスッキリしていたから、本当に困っているのかも知れない。
そもそも彼女の母親はどうした。病弱だと言っていたから亡くなったのだろうか。一度だけ会ったことがあるが、とても優しそうな人だったのに。
そしてあのやつれ様は何だ。東京で見る同世代とは比べものにならない。
なぜ……
考えているうちに寝落ちしたのは外が薄明るくなってきたからだった。
目を覚ませばもう昼過ぎ。今日は午後から講義の予定だったので、大慌てで家を出て学校に向かう。
学生になって早々の遅刻ではシャレにならない。
自分の会社は完全なフレックスであるばかりでなく、成果さえ出ればリモートでも週休三日でも問題ないようにしていたが、講義の時間はそんなに都合良くはできていない。徒歩や走るのは勿論、バスを使っても間に合う訳がない。仕方がないのでタクシーを拾い、正門まで乗り付けてもらってから教室までの階段を駆け上がる。
ジムでのトレーニングを欠かさない生活を送ってきたのだが、さすがに年齢には勝てない。
肩で息をしながら扉を開けた時にはちょうど講義が始まる時間になっていた。
最後列に座るともう一人遅れてくる奴がいた。
蒼衣は真っ赤な顔をして、今すぐ倒れるのではないかと言うくらい息を乱して隣の席に着いた。
彼女は未成年だからと酒は飲んでいなかったはずなのだが、雰囲気に飲まれたりしたのだろうか。ともあれ今はとにかく苦しそうだ。
「蒼衣、大丈夫か」
「あ、あれ、栗原さん」
「どうした。辛そうだぞ」
「あ、あの……寝坊しました」
「はは、俺も一緒だ。今日は隣で宜しくな」
「あ、はい」
「それとさん付けはいらないよ。同級生だから呼び捨てにしてくれ。敬語も要らない。俺も蒼衣と呼ぶから」
「それは!」
「いいから」
「そこ、静かに!」
講義が始まる前に先生から怒られてしまった。
二人で顔を見合わせれば、蒼衣はさっきよりも真っ赤な顔をして俯いている。
久しぶりに誰かから怒られたので、俺もビックリした。
歳を取るとそういうことも無くなってくるんだよなと、妙なところで納得した。
「蒼衣、昼飯食べに行くけどどうする」
彼女相手に早速タメ口で話す。先日は大食堂で食べたのだが、今日は昼食帯から時間がずれているのでカフェかファストフードで済まそうと思う。
「く、栗原が行くところならどこでも……」
呼び捨てに慣れていないのか、どこがぎこちない返事が返ってくる。
まるで恋人どうし……って、碧以外の誰かと付き合ったことがない俺としては、久しぶりに気恥ずかしさが沸いてくる。同時に昨日の碧の姿がハッキリと甦る。
「あとで矢口先輩に聞かないと」
「矢口先輩?」
脈絡もなく口にした言葉に蒼衣が反応する。
「いや、昨日彼女を送っていったから、どうしたかと思って」
まさか、彼女の母親のことを考えていただなんて言える訳がない。
「ふぅん……そうですか」
何かをもの凄く疑っている眼で俺を見るが、この程度のことで動揺していたら社長なんて仕事はやれない。
こちらの腹づもりを読まれるのは二流の経営者だ。
「矢口先輩は相当酔っ払ってたからな。酒のデビューだと言っていたし、うっかりすると今日まで尾を引いているかと思ってな」
今日まで尾を引いているのはお前だと自分でツッコんでやりたい。
「ふうん、栗原は矢口先輩が気になるんだ」
正確には彼女の母親だけどな。まあいい、アイツ本人だってどうなっているかは心配だ。
話ながら結局カフェに入り、ピラフを注文した。
学生が相手だからか量で勝負していることは明らかで、二人前はあるような大盛りの皿が二つ並ぶ。
正直、オッサンには充分すぎる量だ。
「栗原って小食なの?」
「年齢相応だよ。昔はこれくらいは楽に食べ切れたけどな」
「昔って、もの凄くオッサンみたい」
「実際オッサンだよ。でもオッサンだって青春したくなる時があるのさ」
「……したい時にできるって……凄いことだよね」
その凄いの意味は何なのだろう。
感心しているんだか呆れているんだか、この段階ではわからない。
「まあ、普通のオッサンとはちょっと違うかも知れないけどな」
「それはそうだよね。普通じゃないわよね……」
もの凄く複雑な顔をしながら頷かれるとどう返して良いかわからない。
社員なら俺に気を遣ってこういう話題にはしないのだろうが、相手は未成年の学生だ。フランクにして欲しいのは俺の希望だからそれをどうのこうのとは言えない。
ピラフの山が半分ちょっと減った頃、窓の外を歩く人影が見えた。どことなく生気がなくて、足取りも重そうだ。
んっ、と気になって視線を集中させれば噂の矢口がそこにいる。
あれは明らかに二日酔いだろう。寝ていれば良いものをと思いながら、足は店外に向いていた。
「矢口先輩、大丈夫ですか」
「え、あ、ああ、後輩君か」
そのまま彼女は俺に体を預けてきた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます