第7話 : 昔の記憶
俺のことをゲン君と呼ぶ人間は後にも先にも一人しかいない。
瞬間、彼女が誰だか嫌でもわかってしてしまう。
「え、
高校入学時に同じクラスになり、半年後に付き合い始めた。
文化祭の実行委員を二人でやったのがきっかけで、どちらから告白するでもなく、成り行きでそういう関係になったのだ。
とは言え、大人しい性格の碧と
コンピュータが好きだった俺は高校二年生の時、あるシステム開発用のツールを作った。
それを公開したら、四歳上の
俺自身はちょっとしたアルバイトのつもりでいたのだが、一力は腹づもりが違っていた。これは金になるとわかっていたのだ。
一力の提案のあと、学業をしながら半年ほど改変を重ねたそれは有償の商品として業者向けに販売することとなり、それと同時に一力が社長となって会社を興し、俺が副社長になった。
このツールは想定外の売れ方をし、高校生のアルバイトにしてはあまりに多額の利益を出した。並行して当時流行り始めだったスマホ向けのアプリ開発ツールを作ったら、これがバカ売れし、自分達二人だけでは手に負えないほどの仕事量となっていった。
通っていた高校は進学校と呼ばれていたのだが、数名は就職を選ぶ者がいた。
当初は地元の大学へ進む予定でいた俺も進学はせず、東京にオフィスを構え、一力の下で働く道を選んだ。この時の月収はヘタなサラリーマンの数十倍は稼いでいたから、進学に価値があるとは思えなかったのだ。
それから一年ほどで、俺が社長になった方が話題性があると言われ、言われるままに十九歳で社長になり、つい最近までその地位にいた。
碧もまた、進学はしなかった。
成績は俺よりもうんと良かったのに彼女の家は裕福とは言えず、次の学校に通わせるだけのお金がなかったのだという。奨学金を返す自信もなく、それなら東京で一緒にと誘えば、病弱の母親を置いては行かれないと言われた。
彼女は縫製の仕事に就き、地元に残った。暫くはメッセージのやり取りをしていたが、自然消滅してしまい、風の便りに彼女が結婚したと聞いたのは二十歳を少し過ぎた頃だった。
あれから……
「ゲン君……だよね」
やつれが感じられる彼女は珍獣でも見るような眼差しで俺から視線を離さない。
「碧、碧、ああ……そうだ」
遠い昔の記憶が一瞬で甦る。
碧と初めてデートらしいデートをした日、初めて恋人繋ぎをした日、初めてキスした日、電車の駅で「迎えに来るから待ってて」と言い残して俺が東京に来た日──二人で過ごした時の記憶はこんなにも鮮明に残っているものなのか。
「どうしてここに?」
そりゃそうだ。俺だってまさかここで碧に会えるなんて思っている訳ないのだから。
俺が知る碧の姓は山城だったから、夫の姓なのだろう。今の矢口の容姿など気にしていなかったのだが、よくよくコイツの顔を見れば、鼻や口元などは昔の碧そのものにも見える……そうだ、俺はこの子をここに置かなければならないのだ。
「細かい話は後だ。この子を寝かせたい」
「えっと、あ、ああ、柔!起きなさい!」
焦った声にも無反応で、完全に寝落ちしている。
「ダメだな。このまま置いていっていいかな」
「あ、うん、しょうがない子ねえ」
「これを置いていくよ」
帰り際に渡したのは社長だった頃の名刺だ。住所こそ違えど、携帯の番号はそのまま使えるようにしてあるから連絡は取れるだろう。
「あとで連絡をするわ」
「そうして欲しい。今は矢口さん……この子が心配だ」
「ところでゲン君はこの子の何なの?」
「今のところただの後輩さ」
「後輩?」
「詳しくはまた後で話す。タクシーを待たせているからこれで失礼するよ、急ぎ足でご免」
普段よりも早口になっていると自分でも理解している。
碧の眼を見ていられなかったことも事実だ。
今日までの二十年近く彼女のことは忘れなかった。
大きな収入目当てに俺に言い寄ってくる女は星の数ほどいた。
が、碧以上の美女や才女がいても俺の金しか見えていないのは明らかだった。
碧のようにただ俺のことが好きだと思ってくれる人間は周りにいなくなっていた。
そんな状態になる前に結婚していた一力からはいつも惚気話を聞かされていた。
何時かは俺も……そう思うたびに頭に浮かぶのは碧だった。
だが、碧は今や他人の妻となっている。自分が今更どうのこうのと出来る訳がない。女性に絶望したまま枯れていくのかと暗くなる日も多々あった。
枯れる前に青春を──そんなことも学生になりたいと願う動機だった。
タクシーに乗り、駅前に堂々とそびえるマンションを目指す。
エントランスに入っても動悸は収まらず、外を見れば月が綺麗な丸を描いていた。
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