ああ無情
今日一日で月が変ると、明日からは十二月。一年に十二回ある
商店の奥をのぞくと、時計は九時をまわったところだ。いいカモをつかんで一パイありつきたいものだと思っているところへ、進みよった一人の紳士、黒い
捨吉は車を寄せて、
「へ。どうぞ、
「乗って参るのではない。
「ヘイ。ヘイ。存じておりやす」
「その別荘に
「ヘイ。それだけで?」
「それだけだ。急いで行け」
と、青年紳士は上野駅の方へ去ってしまった。切り通しを登って三丁目をすぎれば、すぐ真砂町。中橋別荘の門前へ走りついた捨吉が、閉じた門を四、五分もヤケに
「今、門をしめたばかりだというのに、お前はさっきの車夫か」
「さっきの車夫だか、いつの車夫だか知らないが、ごらんのような車夫でさア。本宅へ届ける行李を受けとりに来やしたから、二円の御祝儀をいただきやしょう」
祝儀がよいから、捨吉はせいぜい愛想笑いのようなものをフンパツしてみせる。老人は行李をつませて、二円を与えたが、捨吉が礼を言うと、ブリブリして、
「オレに礼を言うことはない。人を馬鹿にしておる。さっさと行け」
「ヘイ」
二円もらえば、文句はない。捨吉は老人の小言をきき流して門をでたが、切り通しを降りるころから考えた。浜町といえば、そう遠くはない。一ッ走り、届けるのは何でもないが、二円の祝儀がタダゴトではない。中橋英太郎といえば、今を時めく出世頭の一人。海外貿易商事や興行物ですごいモウケをあげているという評判の旦那だ。ズッシリ重い行李の中身は分らないが、虫蛇お化けでないことは確か。あるいは密貿易の秘密の財宝であるかも知れない。行李を預った車夫がモーローの捨吉だとはお
誰も嫁になる者のないヤモメ暮し。こういう時にはグアイがよい。途中の酒屋で買ってきた貧乏
捨吉はビックリ仰天。一夜マンジリともせず死体のかたわらで考えあかしたが、よい思案がうかばない。夜の明けきらぬうちにどこかへ捨ててしまおうと車をひいて街へでたが、悪事には
*
所轄の警察ではアッサリ捨吉の犯行ときめて、殺された女の身元さがしだけにかかっていた。美女ひとりとみて、手ごめにして殺したもの。モーロー車夫のよくやることだ。殺しッ放しに捨ててこず、行李詰めにしたのは自宅へひきこんで手ごめにしたためだ。こう簡単にきめこんだ。
たった一人、若い巡査が不審をいだいて、念のため、捨吉の申し立てる中橋別荘へ
「
「小馬鹿にしたと申しますと、何か致したのですか」
「致すも、致さないも、夜分、当別荘の玄関へ車をつけて、一個の行李を下して、本宅へ届ける行李だが、あとで誰か本宅へ届ける者が受けとりにくるから、その者に行李と二円の祝儀を渡してくれと言って、二円おいて行きおったのです。それから三、四十分もたつと戻ってきて、門を叩いて
「なるほど。して、先に行李を置いて行ったのは何者ですか」
「なに、当人です。小一時間ほどたって、再び現れて、持って戻っただけのことです」
「二人は同一人物でしたか」
「それは同一人にきまっていますとも。二円の仕事を人手に渡す車夫がいますか。昔からゴマノハエと雲助は道中のダニと申す通り、今日、東京のダニはスリと人力車夫。あのダニどもが、二円という大枚の手間を人手に渡すものですか。居酒屋で一パイやる間、この玄関へ保管をたのむ
若い巡査はこれを本署へ報告した。もう暮れ方であった。
この奇妙な報告だけでは、署の意見を動かす力にならなかったかも知れない。折も折、同じ署の管轄内で起った奇妙な出来事の報告がきていた。事件の主は、所も同じ万年町の長屋にすむ人力車夫の音次という男である。しかし捨吉とちがって、モーローではなく、上野駅の人力集会所に席をおく車夫である。
昨夕方六時ちかいころ。短い日がトップリくれた時刻であるが、彼が戻り車をひいて公園下、今なら西郷さんの銅像のある山下を通ってくると、二十二、三ぐらいと思われる女によびとめられ、
「ちょッと気分がわるいから、車を止めて」
と言う。そこで、車をとめる。女は車を降りて歩くこと五歩六歩、しばらく
「アラ、ハンカチを落したわ。香水が匂うから、すぐ分るはず。私の足もとを探して」
というので、音次がチョウチンをかざして地面へかがみこむと、女の足もとに、すぐ見つかった。
「
「そうよ。舶来の上等な香水だから。日本にはめったにない品だから、たんと
と、こう冗談を言われ、音次もちょッと
音次の車は翌日帝大の構内にすててあった。車の中に服装一式なげこまれていた。以上のような奇妙な報告がきていたのである。捨吉の話では
「ヘエ。チョウチンの明りでチョイと見ただけですが、ちょッとしたベッピンのようでした。なんしろ寒うござんすから、肩掛を鼻の上からスッポリ包みこんでいましたから、よくは分りません。頭はイギリス巻のようなハイカラでしたよ」
肩掛はショールともよんだ。今の人には見当もつかないような無骨な流行で、いわば一枚の毛布をスッポリかぶったようなもの。足はひきずるばかり、長マントのように全身をつつむのである。人力にのれば
こういうもので鼻から下をスッポリ包んでいては、人相はシカと分りッこない。
「
「いえ。行李なんぞ持ってやしません。ちょッとした包みを持っていましたが、カサはあるようでしたが重い荷物ではございませんでしたね」
まったく符合するところがない。
しかし、署の老練家のうちにも、死体を点検して、捨吉の犯行を疑っている者もあった。殺し方がむごたらしい。ノドをしめて殺しているが、両の目に一寸
だが、又、他の老練家は説を立てて、
「ナニ、一寸釘を両の目に打ちこんだのも、二人の車夫に化けたのも、みんな捨吉のカラクリなのさ。暴行された跡がないのは、自宅で存分慰んだあげくだから、野原で手ごめにしたのとは違うのが当然だ。音次の奴は狐に化かされただけのこと、事件になんの関係もない」
だが、それにしては、翌朝まで行李を持って
捨吉の犯行を疑って中橋別荘を訪ね、彼の申し立てが合っているのをたしかめた若い巡査は仲田と言って、メンミツな思考力をもつ優秀な探偵であった。彼はこの事件は捨吉の申し立てが全面的に正しくて、必ずや中橋家に深い関係があるに相違ないと狙いをつけた。
そこで翌日足を棒にして中橋家の周囲を洗ったアゲク、中橋にはヒサという
ここに至って、捨吉の罪ははれ、モーロー車夫の単純な殺しではなくて、中橋家をめぐって深い事情の伏在する計画的な大犯罪であることが見当ついた。事件は警視庁へレンラクされ、結城新十郎が登場を
*
警視庁から出張した新十郎はじめ御歴々は探偵を諸方にだしてヒサの身元を洗わせると怪しい人物が多々浮んできた。
ヒサの実家は菊坂の駄菓子屋、父はなく母親の女手一ツで細々と育てられたが、育つにつれてヒサの
ここに医学部の書生で、荒巻敏司という美男子があった。然るべき官員の息子で、赤坂に屋敷があり、本郷へ通学していたが、いつしかヒサと言い交す仲になった。
ヒサの母は天下の学士といえども、成功が遠い将来にある若い者と結婚させようとは考えていない。大金持の旦那をもたせて手ッとり早く楽をしようと堅く思いこんでいたが、気がついたときには二人はとっくに切っても切れない仲である。敏司の家は裕福な官員ではあるが、当の男はまだ学士にもならぬ医者の卵、業を
折しも看護婦の常見キミエという十九の娘が、敏司の愛情が他へ移ったのを恨んで服毒し、自殺未遂に終ったが、調べてみると、看護婦の中にも彼と情を通じたものが数名いるらしい話である。娘の
ところへ事件が起った。本郷の薬屋の息子で、河竹新七の弟子と称する狂言作者見習いの文学青年、小山田新作という者がヒサを見そめて言いよっていたが、ついに短剣をつきつけて自宅の土蔵へつれこんで手ごめにした。気違いめいた男で、手ごめにしたアゲク、裸体にして柱に縛りつけてお
しかしヒサと敏司の仲は今もつづいていた。敏司は名題の道楽書生であるが、ヒサに対する愛着の念はひたむきで、ヒサが中橋の妾になったのを一度ははげしく恨んだが、考えてみれば自分は親のスネをかじる書生の身であるから是非もない。卒業して一本立ちになったらきっと妻に迎えるからと、二人は
ところが、ここに皮肉な悪縁というべきは、女剣劇の梅沢夢之助である。彼女は道楽書生の敏司と深く言い交した仲であったが、又、彼女には数年前から旦那があり、これが中橋英太郎その人である。中橋にヒサができてからは、
*
ヒサが妾宅をでかけたのは、十一月三十日の午前十時半ごろ。
ヒサは中橋にかこわれて後も敏司と逢う瀬をたのしんでいたが、これが中橋に知れていろいろゴタゴタのあったアゲク、中橋は敏司をよび、ヒサとその母親も立合いの上で、今後は一切ヒサに
中橋は毎月の晦日には、一月の仕事を整理して、多忙な一日を終り、おそく妾宅を訪れて、一、二日ノンビリして行くのが例であるから、ヒサの母は心配して、
「今日は晦日だから、旦那がお見えになるよ。二時か三時には間違いなく帰っておいで」
と出がけに念を押すと、
「わかってますよ」
とヒサは笑って出かけた。
ところが夕方四時ごろになって、女中がボンヤリ一人で帰ってきたから、
「オヤ。あんた一人? ヒサはどうしたのさ」
「え? まだお帰りじゃアないんですか」
女中は顔色を失ったが、
「そうそう。それじゃア、
と言って、すぐとびだした。そのまま二人は夜になっても帰ってこない。
夜も更けて、十時ごろ、中橋は自家用の馬車で乗りつけたが、ヒサが見えないので烈火の如くに怒った。そうなるだろうと怖れなやみぬいていた母親は二、三十分間というもの半日用意の文句でなだめつ、すかしつ、平あやまり、手を合さんばかりにたのんだが、中橋はたまりかねて、
「エイ。うるさい。あれほど堅い指図をうけていながら、主を主とも思わぬ奴。オレは今夜は夢之助のところへ泊るから、急いで車をよんでこい」
馬車はかえしてしまったから、よその車をよんでこなければならない。
「もう夜もおそうございます。よその車では
と、ヒサの母は必死にかい口説いたが、
「だまれ。こんな不浄の家にいられるか」
と、やにわに
「オヤ、どうしたんだろう。もう少し、待ってみてちょうだい」
と、車を小一時間も待たせてみたが、十二時をまわっても、中橋は戻らない。そこへヘトヘトにやつれた女中がションボリ戻ってきて、ワッと泣きだした。彼女はヒサを探しあぐねて、心当りを歩きまわり、途方にくれて空しく戻ってきたのであった。
新十郎はヒサの母から以上のことをたしかめた後に、
「それで中橋さんは、その後もお見えにならないかね」
「ハイ。その後、お見えになりません」
そこで新十郎はヒサの母を
この女中は長田ヤスと言って二十一。女中にしては、美しい顔立である。中橋には遠縁に当るとやら。両眼失明した母と二人、中橋のわずかの仕送りで小さな家に細々と暮していたが、昨年母が死んでからは中橋家の女中となり、ヒサが
「お前がヒサの姿を見失ったテンマツを語ってごらん」
「ハイ。三筋町のお師匠さんの家へ参りまして、お稽古がはじまりましたから、散歩にでました。頃合いを見て戻ってみますと、奥さんはもうお帰りだとのことでした。買物に行くと仰有ってたから、いずれお見えになるだろうと、お師匠さんのお宅に三時すぎまで待っていましたが、お見えにならないので、いったん戻りました」
新十郎はやさしく笑って、
「お前、それは違うだろう。本当のことを隠さず申し立てなくてはいけないよ。お師匠さんのもとで、最近ヒサはお稽古したことはなかったのだろう。お前をそこへ残していずれへか荒巻とアイビキにでかけたに相違あるまい。お前はその戻ってくるのを待っているのがいつもの例であったに相違あるまい」
ヤスは涙ぐんで、うつむいた。
「もういっぺん、昨日のことを語ってごらん」
「仰有る通りでございます。お待ちしておりましたが、約束の時間がとっくに過ぎても戻って見えません。悪いとは存じながら、いつもタンマリお駄賃を下さるので、奥さんのイイツケに背くことができませんでした」
「二人はどこでアイビキしていたね」
「私はお師匠さんの家に置いて行かれて、どこへいらっしゃるのやら、存じません」
これでヒサと敏司がアイビキをつづけていたことがハッキリした。
そこで多くの探偵をだして、荒巻敏司、中橋英太郎、小山田新作、梅沢夢之助らの数日来の動静をさぐらせてみると、判明してくる事実は、実に意外、又意外の連続である。
その一。中橋英太郎は十一月
その二。荒巻敏司は十一月二十九日午後四時四十五分新橋発神戸行の直通にのって故郷四国へ赴く
その三。小山田新作は意外にも三か月前から梅沢女剣劇一座の座付作者をしている。
さて、その次にもたらされた報告が奇ッ怪をきわめているのである。これは梅沢女剣劇の小屋へ探偵にでむいた班からの報告である。
女剣劇のかかっていたのは、浅草六区の飛龍座というバラック造りの劇場の番付には入れてもらえぬ悲しい小屋だ。浅草奥山が官命によって取払われたのは明治十七年、その代地として当時田ンボの六区が与えられたが、区画整理して縦横に道を通じて後、ようやく五、六軒の名もないような小屋と、十軒あまりの飲食店などができたばかり、当時は新開地とよんでいたが、今の六区には比すべくもない田ンボの中の小さな遊園地である。一、二年後に
ここで五か月打ちつづけた女剣劇は、十一月二十九日に興行を打ちきり、三十日に荷造りして、十二月二日から横浜で興行することになっていた。中橋からの仕送りで生活に困らぬ夢之助は、こんな貧乏一座に悲しい舞台をつとめる必要はないのだが、座頭の梅子は夢之助の義理の母、育ててもらった義理があるから、一座からぬけられない。夢之助の
さて、十一月晦日には、この小屋に、二ツの奇妙な事件が起った。十二月二日からの横浜興行のために、この日は一同荷造りに忙しく、翌一日には車で運ぶ手筈である。
そこへ現れたのは、この辺では見かけたことのない目のさめるような若奥様風の女である。もっとも彼女が伴ってきた女中風の二十がらみの女は、この辺でよく見かける顔だ、日中
午後になって、いつごろからか、一人の若い女がブラついていた。この女は先程の二人づれとは関係がないらしいが、キリッと美しい女で、年の頃は二十前後である。午後二時ごろ、荒巻敏司が現れて、夢之助の部屋へ行った。まもなく悲鳴が起ったが、人々がかけつけると、すでに女の姿はなく、荒巻が慌てて
以上のような二ツの怪事が飛龍座の留守番によって報ぜられた。梅沢女剣劇一座は昨二日来横浜に興行中で、この小屋は目下休業している。
これを報告した探偵は言葉をつけ加えて、
「飛龍座で行方不明になった女中づれの美しい女が、着衣や人相などヒサによく似ておるようであります。劇場の番人を連れて来ておりますが」
そこで番人に死体を見せ、ヤスを見せると、二人づれに相違ないことを確認した。ヤスが今まで申し立てていたことは、全部真ッ赤な偽りであったのである。新十郎はじめ探偵たちは
「どうかカンベンして下さいまし。奥さんからいつも駄賃をいただいておりますし、こんなことが起りましたので、
「いつも二人で新開地へ行ったのかね」
「いいえ。吾妻橋を渡って
「十一月三十日のことをできるだけ正確に述べてごらん」
「あの日だけは今までと違います。いつもですと吾妻橋から仲見世へ曲り、その中程から又曲って真ッ直ぐ露月へ這入るはずの奥さんがこの日に限って、新開地へ行こうと
「奥さんの姿が見えないと分ったのは何時ごろだね」
「何時ごろか正しいことは分りませんが、一時ぐらいかも知れません」
どうやら殺人の現場に当りがついてきた。大
そこへ横浜から夢之助はじめ、小山田新作、荒巻敏司らが連行されてきた。ここに至って、事件は直ちに解決するものと、新十郎はじめ、
*
キミエは荒巻が学校を中退して故郷へひッこむということを知り、学校を卒業したら結婚するという口約の実行をせまるために彼の姿を探していたのであるが、すでに男に裏切られたことは明かであるから、顔に硫酸をブッかけて恨みをはらすのが目的であった。不覚にも荒巻は夢之助の部屋へ逃げたが、そこに夢之助が居合したなら、悲劇はさらに大きくなったかも知れない。幸いキミエの手もとが狂って、荒巻は外套をボロボロにしただけで助かった。
帰郷する
彼は汽車にのるはずの十一月二十九日以来、夢之助の家に泊っていた。夢之助は荒巻がヒサを妻にめとることには同意しており、快く手をひくだけの温い心をもっていたのである。十一月三十日には、荒巻が外套をボロボロに焼かれて後、三時ごろ夢之助に会った。二人はすぐ夢之助の
彼が十一時から二時ちかくまで露月にいたことは、その人々によって証明された。たしかに荒巻は一人であった。その日、ヒサが露月に姿を見せなかったことは事実であった。
夢之助の陳述はこうである。
彼女が楽屋で荷造りしていると、部屋の外に騒ぐ音がきこえて、二人の女が這入ってきた。一人はよく見かける顔であるが、一人ははじめての顔でヒサだとは知らない。ヤスがちょッとかくまって、というので、どうぞと中へみちびくと、ヒサは気分が悪いらしく蒼ざめて苦しそうだから、水をのませて、横にさせ、有り合せのものをかけてやったりした。
その後、夢之助は養母の荷造りを手伝ってやったり、他の人々の世話をやいたり、部屋に病人を残したまま方々かけまわっていた。いつのまに病人が居なくなったか気がつかなかったし、気にかけもしなかった。すッかり忘れていたのである。一時ごろ、
まもなく横浜の興行主が打ち合せにきたので、彼女と母と小山田の三人で料理屋へ興行主を誘い、用談を終えて三時ごろ小屋へ戻ってきた。留守中に荒巻が硫酸をぶッかけられる事件があったというが、彼女はその時居合せなかった。
荒巻と彼女はさっそく根岸の自宅へ戻って、用が一先ず片づいたので、酒をのみ、五時ごろねむった。彼女はやがて荒巻と結婚するつもりである。荒巻がヒサという女と関係していることは知っているが、ヒサは彼に愛想づかしをしており、そのために彼の気持は一時
これによると、二人の告白は、男女間の愛情問題に
小山田新作の陳述はこうである。
彼はたまたま六区へ遊びにきて、夢之助の美しさに見とれ、自ら買って女剣劇の作者に身を落したのである。しかし夢之助が中橋の二号と知ってからは横恋慕を思いとどまった。というのは、彼は中橋を崇拝していたからである。中橋は商品の貿易商であると同時に、興行物の貿易商でもあり、外国の見世物を日本へ、日本の物を外国へ紹介している。というのは、彼は元来が芸人で、明治初年に渡米し、
十一月三十日には、小山田は一同を指図して、荷造りに忙殺されていた。ふと顔をあげると、
一時ごろ、横浜の興行師が来たので、座長、夢之助、彼の三人で料理屋へ招いて、興行を打ち合せ、三時ごろ小屋へ戻ると、荷造りは全く終っていた。彼は一度ヒサを見て抱きついただけで、その後は全く見ていない。
彼は荷造りの座員をねぎらうため、酒を買わせて楽屋で酒宴をひらき、明るいうちに大虎になって、みんなと寝こんでしまった。目がさめた時は夜の十時ごろで、彼だけそッとぬけだしてわが家へ戻ったのである。尚、彼は劇団からは一文も受けとらず、かえって金を持ちだしているほど劇団につくしているのである。以上が小山田の陳述であった。
彼の陳述は座員によって証明された。彼は確に一同と酒宴をひらき酔いつぶれて楽屋にねこんでしまった。しかし、酒宴の一同も相前後して酔いつぶれ、後のことは分らない。尚、大部屋の連中は年中楽屋に寝泊りしていた。彼らには定まる家がないのである。
新十郎は死体を入れた行李を示して、
「これは君の劇団の物と違いますか」
「これは古い行李ですなア。僕のところでは、はじめての旅興行で、大方新品、こんなのは無かったようです。しかし、この型の行李は芝居小屋ではよく使う物ですから、近所の小屋のものかも知れませんなア」
「中橋が芸人あがりであることや、夢之助が俱に渡米した芸人の娘だということは、本当ですか」
「結城新十郎ともあろう物
そこで新十郎は貸本屋からその本をとりよせた。行方不明の中橋英太郎について知る必要があったからである。そこに誌された記事は又もや
川富三与吉。軽跳。明治四年米人ハリマンに招かれて渡米す。一行次の如し。
軽跳。三与吉。妻ハナ。
コマ
軽跳。梅之介。手妻。同人妻。柳川小蝶。連れ子ヤス五歳。
綱渡。浜作。三味線。妹カツ。カツの娘スミ四歳。
曲持足芸。慶吉、右上乗。三次。後見三太郎。妻ミツ。倅参次三歳。上乗又吉。笛吹。当松。妻ロク。娘アキ六歳。倅国太郎二歳。太鼓打。正一。妻ボン。倅馬吉当歳。
手妻。柳川蝶八。手妻。同人妻金蝶。娘ラク三歳。
四月十一日横浜出帆。追々各地を廻り、同年暮サンフランシスコ興行中、銀主三与吉の家族多勢なるを好まず、演芸に必要なる者を残し、他を船にのせて送り返さんとす。三与吉怒りて銀主を殺害せんとして大負傷を負わしめ彼の地の警官に捕縛せられたるに自殺して果てたり。一同途方にくれたるに、軽跳の梅之介は心ききたる者なれば、新に蝶八を長として一団をくましめ、己れは彼の地の商社に入りて実業を学ばんとす。時に妻柳川小蝶を離別し、かねて懸想せる三与吉の後家をめとりて一団を離る。浜作の妹カツも情を通ぜる仲なれば梅之助を恨み自殺して果てんとして遂げざりしという。梅之助、本名、英太郎、今日中橋商事の社長にして貿易界の一巨材たり。蝶八は一団を率いて南米北米を打ち廻りあまた
まことに異常な記録である。夢之助の母カツは中橋の芸人時代の情婦の一人であり無情を恨んで自殺未遂の経歴があるわけだ。それにも増して意外なのは、黒人と結婚して曲馬団に入り失明して捨てられたという柳川小蝶である。これぞヒサの召使いヤスの実母であろう。中橋がわずかの仕送りを与えて細々と暮しをたててやったも道理、一度は彼の妻たりし小蝶、連れ子のヤスは中橋を父とよんだ幼い時期もあったわけだ。
新十郎はしばし感慨に打ち沈んだが、ヤスをよんで、
「お前はいくつの年にアメリカから帰ってきたのかね」
と、だしぬけに問うと、ヤスは
「十三の年でございます」
蚊のなくような声で答えた。
「お前はアメリカ巡業の一行の中に、一ツ年下のスミという娘のいたのを覚えていないかね」
「覚えています。三味線のカツおばちゃんの娘のスミちゃん!」
「そう。その娘が梅沢夢之助だということを、お前は知っていないのか」
ヤスは
「いいえ。気がつきませんでした。そういえば面差しが残っています。一しょに遊んだのは六ツ七ツの頃ですけど」
夢之助をよんで、ヤスを記憶しているかと問うと、夢之助は首をふって否定した。彼女は当時、あまりに幼かったのであろう。
*
常見キミエが連行されてきた。その陳述は次の通りである。
彼女は中食後本郷の宿舎をでた。六区へ着いたのは一時ごろ。二時ごろ荒巻の姿を見かけて飛龍座へ追ってはいり、夢中で硫酸をなげつけて逃げた。探偵が自分の跡を追っているような気がして寸時も心の休まる時がなく、宿舎へ戻ればそこに探偵が待ちぶせているように思われ、
新十郎は再び荒巻をよんで、
「君は先刻、ヒサと結婚することを夢之助が了解しているように言ったが、夢之助はそうではないと言っているよ。夢之助の語るところでは、結婚の相手は自分で、君はヒサに愛想づかしをされていると言うではないか」
「いえ。そんなことはありません。ヒサは私を追って四国へくることに話がきまっていました。ただ、時期と方法の問題をあれこれ相談していたのです」
「それはおかしいねえ。君は三十日の夕方にも夢之助と酒をくみ交しつつ結婚の時期と方法を相談したと夢之助は言っているが、同時に二人の女と同じことを相談していたのかね。ここへ夢之助をよんでくるが、君は今の言葉を
「いえ。ちょッと待って下さい。たしかに二人の女と同じことを相談していたのです。ですが、夢之助と語る場合は本気ではありません。一時のがれなのです。なんとかしてヒサが先に四国へ来るように、夢之助がおくれるようにと、そこに苦心していたのです。一足先にヒサと結婚してしまえば、キミエのような
「ヒサが死んだから、今度は夢之助にかかりきるというわけかね」
と、新十郎は珍しく苦々しげに皮肉を言った。
連行した容疑者一同は署に泊めておくことにして、新十郎がでかけたところは、根岸の夢之助の
「十一月三十日に、夢之助と荒巻の両名が揃って戻ってきた
「ハッキリとは覚えていませんが、夕方ちかいころでしたね。これで一段落、忙しい用がすんだ、と、すぐお酒盛でした。まだ日のあるうちに、疲れた、疲れた、とおやすみでしたよ」
「寝室は二階だね」
「
「二人はグッスリねていたのかね」
「そんなことは知りゃしません。ただ夜の十時ごろ水をと
「その晩、中橋さんはたしかに来なかったのだね」
「たしかにお見えになりません」
最後に新十郎は浅草六区の地に立った。飛龍座をはじめ、小屋の一ツ一ツをメンミツに見て廻る。全部見て廻ってから、飛龍座の隣りの休業中の小屋へもう一度戻ってきた。飛龍座の楽屋口から、こっちの楽屋口へ細い路を
彼は番人をよんで、
「この小屋はズッと休んでいるのかね」
「ヘイ。とりこわして、新しい小屋をたてるとかでね。常盤座とかいう浅草一の立派な小屋をつくるとかいうことで」
「留守番はお前だけか」
「ヘイ。ほかに女が一人いますが、こんな何もない小屋のことですから、留守番なんぞいらないようなもので。お天気の日はあッしも女房もたいがい働きにでて、帰ってくるのは夜の八時ごろでさア」
「小屋の戸は
「いえ、鍵なんぞ、ありません。内側からカンヌキはかかりますが、それは夜だけのことで。自分の部屋の戸の鍵をしめるだけでタクサンさね。
新十郎は大道具の材木がつんであるところへきて、その片隅に五ツ六ツならんでいる古ぼけた大
「この行李の数が一ツ減ってやしないか」
「そうですねえ。そう言えば、なるほど、以前は七ツあったかね。するてえと、一ツ減ったかも知れないね。なに、空ッポで、中には何もはいってやしませんので」
新十郎は下を
「ウム。一寸
独り言をもらしたが、彼の目は一点ももらさぬようなきびしさで、小屋の中を隅から隅まで見て廻った。
彼は一点を指した。
「ここに何かをひきずッた跡がある。出口へ向って三間ほども。何がひきずられたか」
彼は人々の顔を見廻して笑った。そして叫んだ。
「死体をつめた行李!」
*
その晩、花迺屋と虎之介が新十郎の書斎へ遊びに行くと、彼は机上の白紙に図面をひいて、先客のお梨江と二人考えこんでいた。見ると、上野だの本郷だの浅草だのと書きこんだ図面であった。
新十郎は図面を四人の真ン中へひろげて、説明をはじめた。
「ヒサが自宅を出たのが午前十時半。飛龍座へ到着したのは十一時ごろでしょう。飛龍座へ到着
一同に異議がないらしいので、新十郎は語りつづけた。
「一人の女、もしくは女装した男のいずれかが、その日の夕方六時ごろ、とっぷり日のくれた上野の山下で音次という車夫をよびとめました。帝大裏と
虎之介はクビをふって、
「音次をよびとめた女と、捨吉をよんだ男とは、別の人間さね。ただし一心同体ではあるが、な。失礼ながら、あなたはまだお若い。男女の道に心得がなくては正しい推理をあやまりますぞ。なア、お梨江嬢。結城さんを名探偵に仕込むためにヨメを探してあげたいと思うが、どうだろう」
そこへ古田老巡査が慌ただしく駈けこんできた。
「
新十郎はガク然色を失って立ち上った。
「シマッタ! 推理が狂ったか! イヤ。待て、しばし」
彼は直ちに冷静をとりもどした。すばやく服装をととのえ、一同は馬を急がせて現場へ急行する。新十郎は火を吐くような目で、中橋の死体を
彼は怒り声で叫んだ。
「この犯人はヒサを殺した犯人と同一人です。ごらんなさい。二人は同じように死んでいます。そう苦しくもなかったように。
彼はすぐふりむいた。
「さて一夜、ゆっくり考えてみましょう。明日の午後、犯人を
一同をうながして帰路についた。神楽坂へ戻りついて、門前で虎之介と別れるとき、ニッコリ笑って、ささやいた。
「音次がのせた女と、捨吉に用を言いつけた男は、たッた一ツですが重要な点で類似しているのです。二人とも、カサばってはいるが、そう重くはないような包みを持っていたのです。では、おやすみ」
*
氷川の勝邸で海舟の前にかしこまっているのは言うまでもなく虎之介。太陽もあがらぬころから、勝邸の門があくのを待っていたという慌ただしい駈け込み訴えである。
日毎日毎の報告を連日怠りなく講じておいたから、ちょうど読みきり講釈のデンで、ただ今最終回をつとめ終ったところ。まだ日はそう高くはない。奴め握り飯を腰にぶらさげてきて海舟の朝食に御相伴したらしく、彼のお
海舟は食後の茶を味わい、再び
「新十郎の説の如くに、この犯人はただ一人、共犯はないぜ。上野山下と広小路に出没した男女二人いずれも同じような大きな荷物を持っていたのが同一人の証拠だよ。この犯人は、夢之助さ。女剣劇の立役者、車夫にも美男子にも化けるのは自由自在というものだ。かほどの苦心を重ね術をつくして死体詰めの行李を運びだしたのは、殺した場所と時間を狂わせるため。又、犯人を男と見せかけるため。本郷を中心に行李が往復している如くに見せかけたのは、大方小山田の犯行と思わしめるコンタンでやったのだろう。かくの如くに術を施しおかなくちゃア、ヒサは夢之助の楽屋部屋で行方知れずになったのだから、まず第一に
*
虎之介はわが家へ戻らずに花迺屋の玄関先に突ッ立ち、因果先生を玄関口へよびだして、なんにも言えずにニヤリニヤリ笑っている。その薄気味の悪いこと。さすがの花迺屋もあてられて、苦い顔。
「シナ産の黒豚が笑っていると思ったら、二軒隣りの豪傑じゃないか。男女の道で真犯人が解けたかい」
「ハッハッハ。犯人は女だ」
「ブッ。男女の道に見切りをつけたところはお見事」
「貴公の心眼はどうだ。誰知るまいと思いのほか、天の声実に不正はおのずから破れるてえことを知るまいな」
「知らないねえ。失礼だが犯人は男でげす。クロロホルムと変装。急所はここにありますねえ。薬物に通じて、芝居道に通じたる者。しかし変態にして吸血鬼。ねえ。犯人はただ一人。小山田新作あるのみ」
「ゲゲッ」
と虎之介は腹をシッカとかかえて、断末魔の如くに笑いだした。その日の午後、例の一行をひきつれ、所轄署へ出頭して係りの探偵一同に参集をもとめた新十郎は、犯人のカラクリを静かに説きあかしてきかせた。
「今まで接した犯罪のうちで、この事件ほど巧妙に組み立てられたものはありませんでした。カラクリは幾重にもはりめぐらされて重点を巧みにそらし、殆どつけいる隙がない如くに
新十郎は例になく奇妙な前説をつけ加えた。彼がこれほど力むのは、よほど犯人の手際に感服したからだろう。
「この事件の結び目をとく手がかりは、二か所にあるのですが、まず第一には、女から車夫になり美男子に変じ、
新十郎は一息ついて、又、語りつづけた。
「以上の結び目がとければ、おのずから次のことが解けてきます。単に中橋家へ届けるだけなら、真砂町の別荘だけでよかった
又、一息いれた。次により重大なことを語ろうとする
「も一つの結び目は、もっと現実的な解け方をしているのですが、犯人はこれをごまかすに、自らも甚しく現実的な苦肉策を
*
海舟は虎之介の語る真犯人をきき終り、沈黙しばし、自若たる面色で、静かに言った。
「ヤスが犯人とは意外な真相だよ。虎の話からじゃア、ヤスがハカリゴトを用いて暗愚を装っていたというカラクリは見破ることができない。すべて探偵ということは、実地にこの目で見なくちゃア真相を見破りがたいものだ。ヤスが愚を装っているというカラクリの如きものは、目のある者には見破りうるが、虎の如くにフシ穴の目には、
虎之介は己れのフシ穴の眼によって非凡なる英傑の目を狂わしめたことを甚しく
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます